林泉社陸奥宗光未亡人没す『新聞集成明治編年史』第11巻、1936年 - 1940年 林泉社1900.8 リンク
陸奥伯未亡人の逝去せられしことは、尚世に勝れる美事多ければこれを紹介すべし。 ▲先妻も堀江の唄女 故陸奥伯は人も知る紀州の人にて幼より神童と呼ばれ、十六七歳の頃早くも志す所あり、国許を脱走し長崎に遊び、坂本龍馬など當時の志士に交わり、後京都に來りしよりは、伊藤俊介(伊藤候)、中井弘(櫻州)と共に天才の三才子と呼ばれ、諸藩の浪士間に時の大政を論じたるが、此時より既に花柳界にも名を震わし、艶聞を流せしも度々なりし。王政維新後大阪の判事に任ぜられ馴染なる同地堀江の唄女にて八木を正妻とせり。 ▲新橋の双美人 陸奥伯が神奈川県知事に轉任したる折、先妻れん子は、不幸にも病の爲に没し次いで後妻となりしは亮子夫人なり。亮子は元と新橋の名妓にて小兼と呼び、板垣伯に愛せられし小清と並んで新橋の双美人と囃されし位となるが、今の濱の家の女将お濱とは親身も及ばぬ姉妹分の間柄なりしと云う。

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鶯谷(旧陸奥宗光邸)亮子夫人元新橋の名妓。