嘉村國男長崎町人誌 第6巻(さまざまのくらし編 住の部 2)長崎文献社
一夜の夢・福田遊廓
P.264 かつて福田の浦には十指に余る遊廓があって賑わっていた。福田遊廓の由来は詳らかではないが、遠く平家の残党がこの地に土着し、生活に窮して遊女に身を落として世を送ったものと言い伝えられる。 大正末期から昭和初期にかけての不景気の波は遊廓をも直撃し転廃業が続出。昭和9年(1934)よりただ一軒、松代屋がのれんを固守していたが、これも経営者の没後遂に廃業し、福田遊廓の灯はついに消えた。
古きよき時代の戸町一丁目
P.296 今はここの海岸一帯は造船関係の工場や駐車場となり、様相を一変しているが、昭和初期までここは遊廓地帯で、狭い道を挟んで木造三階建てを主とした大きな家が二十軒ほども競い建っていた。そうした家々の谷間に検番、仕出し屋、飲み屋、うどん屋、氷屋、菓子屋、小間物屋、薬屋、文房具屋、八百屋、炭屋、仕立屋、床屋等々の店が介在し、なかなか賑やかだった。ここでは夜の八時や九時は宵の口で、十時ごろからが本番。素見(ひやかし)の客も混じって深夜まで賑わっていた。 P.297 遊廓の転廃業 昭和9年(1934)長崎警察部は稲佐・出雲町・戸町・福田遊廓の転業を許可。この年、長崎県下22遊廓は全部飲食店に転業し、これによって名目的には全国で初の廃娼県となったが、実質的には変わっていなかった。実際の転廃業は戦争が長期化してからで、多くは貸間や軍需工場の寮となった。 鶴見遊廓と鶴見検番 戸町遊廓は大正12年(1918)の暮れ、鶴見遊廓と改称。記録によると大正14年当時の貸座敷は21軒で、このころが一番多かったようである。昭和に入ってからは減少している。