続調布の里ものがたり編集委員会調布の里ものがたり女たちの明治・大正・昭和 : 研究レポート・資料・聞き書き 続調布市生活文化部女性課2000.11
布田五宿から仲町特飲街へ

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甲州街道筋では、内藤新宿、高井戸、府中、八王子が飯盛女を置いていた。布田五宿は、飯盛旅籠はなかったが、1865(慶応元)年10月、「飯盛女許可願」を提出し、願い出ている。同年、幕府は長州征伐を行ない、布田五宿にも軍用金5000両の献上を要求してきていた。五宿にとっては、その負担が非常に困難であるので、飯盛り旅籠の設置を願い出ることにしたと許可願で述べている。さらに飯盛旅籠が認められれば、7000両の冥加金を上納することを申し出ている。この許可願がどのように吟味されたかは不明だが、1866年 7月以前には布田五宿に飯盛旅籠が許可された。

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1872年、つまり「娼妓解放令」が出された年には、上石原宿で六軒の貸座敷業者が営業を営んでいた。それが、1875年には17件を数え、さらに1877年には21軒に増加している。しかしその後は衰退していったようで、明治の終わり頃には7軒、大正時代は5,6軒となり、昭和に入ると3軒のみとなった。これは他の遊廓と比較して大きい方ではない。当時、東京にはいくつかの遊廓があったが、調布は府中と並んで最も小さい遊廓という位置にあった。

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調布(敷石碑)常性寺。明治11年、布田貸座敷の全盛期。