網代茂水府綺談新いばらきタイムス社1992.7
死後ボランティア、献体した大横綱・常陸山

P.375
常陸山は、大正11年6月19日、49歳で急逝した。昭和16年4月、常陸山没後20周年に際し、常陸山の碑を水戸東照宮境内に建立した。(以下、碑文の遺体解剖のくだり)「生前遺言して曰く、人生死あり、予もし死する時、必ずやわが身を解剖、力士の体の組織を知れば、いささか以てこの道に貢献することができようーー。遺族はこの旨を守り同年20日、慶応大学より教授博士数名のもとに解剖の結果、内臓諸般の構造および筋肉発達の常人に卓越せるを実証し、相撲の生理上多大の効果あるを認識し、絶好の資料を得ることができた」
P.378
2時間にわたった解剖の結果について立ち会った慶応大学の草間良男博士は、「偉大であった外観のように内臓のすべての発達もまたすこぶる著しいものがあった。心臓、肝臓、脾臓、腎臓は普通人より約一倍半の大きさ。しかも完全に頑強で真に力士として理想的であった。」と語った

今は志村病院、泉町・垂楊亭の盛衰

P.286
明治34年間の水戸案内は、市内の割烹18店を紹介。中でも垂楊亭は”水戸随一というべし”と称揚している。この割烹18店のうち今も栄えているのは、ただひとり山口楼(大工町一丁目)のみだ。