船橋市の海老川沿いの住宅街。このあたりは、道幅の狭い昔ながらの路地が残っています。

立派な門構えの家。

木が生い茂る中に残る「旅館妙泉」の看板。

裏口付近。

船橋市の海老川沿いの住宅街。このあたりは、道幅の狭い昔ながらの路地が残っています。
立派な門構えの家。
木が生い茂る中に残る「旅館妙泉」の看板。
裏口付近。
浅草の浅草寺の東隣にある旅館「一富士」。
落ち着いた佇まいの和風旅館です。
白い塀に、一富士の看板。
一富士旅館。
大万旅館のある旧金沢町の旅館街。*1※1
木造建築の旅館がもう一軒あります。
旅館「福よし」。
1階部分は、洋風の佇まいです。
建物は、L字型に連なっていて、かなり大型です。
今回は、錦糸町(東京都墨田区)の町並みを散歩します。
錦糸町駅の北口の駅前ロータりーから道を1本入ったところ、繁華街の中に旅館の建物があります。建物の屋上には、旅館「草分け」のネオン看板。
1階に焼き鳥やが入る交差点の角の建物の西側の建物が、旅館「草分」けだったのでしょうか。
旅館草分。
1階の焼き鳥屋は、現在も営業中です。
築地7丁目のアパホテルのある通り。
純和風の旅館があります。
周囲は、高層ビルが建ちち並びます。
丸い竹に書かれた「旅館大宗」
池須町の北東方向。割烹「一力」の西側に、昔の佇まいが残る一画があります。
「ゑびす旅館」。地図によると現在は「ゑびす寮」となっています。
美しい黒板壁。
旧「桔梗屋」。*1
ゑびす旅館に隣接しています。
大垣城近くにある割烹旅館「菊水」。地元の方の話によると戦前は料亭を営んでいたそうです。
鉄筋コンクリート造りでありながら、みごとな和風の佇まいです。
夜の様子。
部屋はとにかく広いです。
相浦港から相浦橋(上相浦駅方面)へ向かう通りが相浦市街の中心部です。古い旅館の建物が残っています。
旅館「楽楽」の建物。*1
奥行のある立派な建物です。
旧入船旅館*1
圧巻の木造三階建てです。
門司市街の南部。背後に山が迫った場所にある清滝地区に、風情のある旅館があります。
入口は、坂を上った奥です。
一度、ぜひ泊まってみたい旅館です。
南側。
今回は、石動(いするぎ、富山県小矢部市)の町並みと風俗を散歩します。石動は、高岡と金沢の中間に位置し、北国街道の宿場町として栄えました。現在の石動駅の北側が中心市街地で、その東側には、小矢部川が流れています。小矢部川沿いは、風光明媚な地で、観光旅館の松泉閣の建物が建っています。
旅館に隣接した料亭風の建物。
観光旅館と書かれたホテルの玄関。
小矢部川からの遠望。
牛窓に女郎屋が誕生し、花街がいつ頃できたか、今のところこれを立証する文献はないが、曲直瀬玄朔(まなせげんさく)の「医学天正期」に戦国大名の宇喜多直家が、梅毒で苦しみ療養したことが記述され、これは倭寇が異国から牛窓に移入したものだと説いており、牛窓が日本花柳病の根源地だと指摘しているから、その頃牛窓にはすでに女郎屋があったと推察されます。明治時代の下行場の遊廓は、東側の角市、北側の奈良亀、福本屋、玉津屋、西側の小野屋、山松の6軒でした。そのうちの角市は、現在の「川源別館」です。*1
南側から。
川源別館は、割烹料亭として営業中です。
裏側の木戸。風情があります。
【参考文献】
*1 刈屋栄昌:牛窓風土物語(牛窓郷土研究会,日本文教出版 (製作),1973)P.21,P.64
今回は、上関(山口県熊毛郡上関町)の町並みと風俗を散歩します。
上関は、室津半島の先にある長島の北東端に発達した港町で、かつては、帆船が潮待ち、風待ちをする寄港地として賑わいをみせたところです。*1
昭和11年の市街図*2 によると、福浦港付近の海岸線に貸座敷の「山水亭」がありました。
1990年の住宅地図*3 によると、このあたりに同じ屋号の割烹旅館「山水」がありました。「山水亭」の名残かもしれません。
海岸線に沿った道路とは別に山側にもう1本道が続いています。
このあたりは、「新地」という地名で呼ばれていました。*3
【参考文献】
*1 谷沢明:瀬戸内の町並み(未来社,1991)P.37,P.91
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社, 1937)第450号 山口県
*3 ゼンリン:熊毛郡No.2田布施町・平生町・上関町(ゼンリン,1990)P.136
この日は、旅館福山荘に宿泊。昔ながらのレトロな旅館です。
広くて豪華な部屋。
夕食は、お膳に置きくれないくらいの皿数の多さです。
コップ一杯のどぶろくがサービスでつきます。プチプチと音をたてて泡が出ていました。
弘前市街にある石場旅館は、明治12年小間物屋と旅籠を兼ねた店として開業されました。*1
地元の方の話によると、戦争中は、出征する兵士を送る家族と面会するための旅館として使われたそうです。
玄関を入ると、柱時計が出迎えてくれます。
木製の太鼓橋は圧巻です。
夜の様子。
香深の市街にある渡辺旅館。
古い建物が目を引きます。
旅館の1階には、ランプ、そろばん、蓄音機など、当時使われていた道具や器具が展示されていて、まるで博物館のようです。
渡辺旅館の焼印。
バスターミナルの角を曲がって坂を下りると、商店街の裏側の谷にあたる場所に行きつきます。
近くには、「グランド劇場」というストリップ劇場やポルノ映画館(ブルーフィルム)がありました。*1
現在は、住宅街となっていて、当時の面影はありません。
当時の旅館の建物が数軒残っています。
「貸席」と呼ばれていたようです。
アパートのような入口。
【参考文献】
*1 週刊現代:おんな紀行 第5回三河西浦温泉四万九千円の巻
昭和の初め、「三扇楼」と言われる最高級料亭の「春扇楼末廣」「古扇楼」「福扇楼」がありましたが、二流料亭としては、「三広」と呼ばれた「広定」「広光」「広久」、「二大」と呼ばれた「大六」「大半」があり、あわせて「三広二大」と呼ばれていました。*1
1961年の「半田商工名鑑」*2 を見ると、料理旅館の項に、上記「三扇楼」と「二大」、亀崎の「望洲楼」などがあって、料亭の項に、「広光」「井筒」「永楽」「川竹」「千もす」「むつみ」の名があります。
料亭「井筒」。
ベンガラの塀。
西側にも入り口があります。
【参考文献】
*1 片山市三:半田の轍(一粒社出版部,2008)P.19-P.24
*2 半田商工会議所:半田商工名鑑1961(半田商工会議所,1961)P.105
大村遊廓があったと思われる大村市武部町。現在は数軒の旅館が営業中です。
スナック「FUTABA」。古い住宅地図には、同名の二葉という旅館がありました。
通りに面した旅館「みきや」。
旅館「山陽」。
今回は、五戸(青森県三戸郡五戸町)の町並みと風俗を散歩します。
五戸町の中心部。地酒の「菊駒」の大看板が目を引きます。その後方に銭湯の煙突が見えます。
銭湯の「鶴の湯」。
現在は、休業中のようです。
建物の後ろ側。
今回は、増毛(北海道増毛郡増毛町)の町並みと風俗を散歩します。増毛は、JR留萌線の終着駅の町です。
増毛の駅前には、古くからの町並みが残っています。
駅前で目を引くのは、駅舎と向かい合うようにして建っている昭和8年建築の「旅館 富田屋」です。2階と3階の全面には、ガラス張りの縁側があります。*1
富田屋の隣に建つ「風待食堂」は、雑貨屋だった「多田商店」の建物で、現在は、観光案内所として利用されています。「風待食堂」は、昭和56年に公開された映画「駅 STATION」で駅前食堂として登場したときの名残です。*1
「風待食堂」のはす向かいに並ぶ「海榮館」「増毛館」も昭和初期の面影をとどめている建物です。*1
【参考文献】
*1 渡辺一史:北の無人駅から(北海道新聞社,2011)P.469-P.470,P.486-P.489
大通りに面した場所にあるホテル「叶屋」。大正14年の大日本職業別明細圖にも記載されている老舗旅館です。
この日は、工芸展が開催されていました。
裏口から見た旅館の外観。風格があります。
叶屋の手書き看板。
旧花街の三間通り沿いにある旅館「日南子」。素泊まり2500円とリーズナブルです。
どっしりとした木造三階建て。
古地図「昭和10年当時の三間通り」*1 によると、この付近には芸者置屋や料亭と思われる「㐂乃家」という屋号の店がありました。
裏側から。
【参考文献】
*1 日南市産業活性化協議会:油津(鉱脈社,1993)P.246-P.247
今回は、延岡(宮崎県延岡市)の町並みと風俗を散歩します。
延岡の花柳界は、紺屋町、博労町が明治、大正時代の中心でした。*1
戦前の住宅地図*2 によると、この通りにも料亭や置屋が建ち並んでいました。
旅館だったと思われる建物。昭和34年の住宅地図*3 によると、旅館「福龍」と記載されています。
玄関部分にタイルで装飾された円柱があります。
花街時代を彷彿させる鮮やかさです。
【参考文献】
*1 延岡市史編さん委員会:延岡市史(延岡市,1963)P.476-P.480
*2 あがた会:空襲前延岡小学校々区住居地図 あがた会30周年記念制作(あがた会,1996)
*3 住宅地図刊行会:延岡市住宅詳細地図(住宅地図刊行会,1959)P.6
徳島市栄町5~6丁目は、かつて旅館が散在していたエリアです。
栄町6丁目(5丁目の南側)にも、旅館風の建物があります。
交差点に近いあたり。
栄町5丁目北側の民家。
瓦町駅近くのフェリー通りから、西へ入ったところに、昔ながらの旅館「おしどり」があります。
1階の左右に出入口があります。
西側から。
夜の様子。
今回は、綱島(神奈川県横浜市港北区)の町並みと風俗を散歩します。
綱島温泉は、かつては大きな温泉街でしたが、現在は、数軒あるビジネスホテルにわずかにその名残をみることができます。
レトロな雰囲気の残る看板。当時は割烹旅館だったようです。
街道から奥へ入ったところにあるビジネスホテルの看板。
かなり大きな店構えです。
西川口駅の南東側は、ラブホテルが密集するエリアですが、その中に混じって和風の旅館だった建物が残っています。
現在は営業していないようですが、かつての風情は残されたままです。
旅館「あしび」。
旅館としての営業は継続しているようです。
旧五条楽園にある古い旅館。三階建ての建物です。
「旅館」と書かれた看板のある入口。
奇抜な洋風のデザインです。
睨みをきかしている鐘馗さん(3階部分)。
殿ノ浦の旅館は、いずれも帆船時代の料理店・船宿から旅館業を始めた、長い歴史を持つ旅館です。呼子港は長い歴史を持ち、この町は多くの映画や小説の舞台となりました。
最近は、少人数での観光客が増え、ホテルタイプの近代的な施設へ転換しています。
呼子は、いか活き造りが名物となっていて、殿ノ浦の旅館の中にも生簀(いけす)で泳いでいるイカを料理してくれる旅館があります。
対岸から見た殿ノ浦の旅館街。
木綿町の歓楽街の中心部に、古い旅館の建物が残っています。
今にも崩れかけそうに見える建物です。
地元の方の話によると、昭和の初め頃、この付近一帯には、女郎屋もあったそうです。
重厚な3階建ての造り。世界遺産級です。
【参考文献】
*1 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)P.324-P.331
衣浦温泉の旧旅館街には、昔の面影が残る建物がいくつかあります。
旧「八千草」。旅館だった建物です。
南西方向から見た外観。
2階部分は、窓が二段になっています。
飛田本通商店街の西側に 簡易旅館が密集している一画があります。
旅館街のメインストリート。
中心部にある大きな旅館。
最近は、安いビジネスホテルも混在しています。
大坂環状線と阪神高速が交差するあたり。 てんのじ村記念碑(上方演芸発祥の地)の近くに古い旅館の建物があります。
建物脇の路地を入った奥まった所が旅館の入口です。
豪華な家具、明るい洋室。気楽できれいな日本間。
温泉マーク。
通天閣の南西側。
数軒の旅館が密集するエリアがあります。
レトロな雰囲気のホテルの看板。
ホテル街の路地は風情があります。
今回は、今市(栃木県日光市)の町並みと風俗を散歩します。
今市市駅前の商店街に、旅館の看板に従って路地を入ると老舗旅館日光屋があります。
昭和30年当時、今市市内には、芸妓置屋の梅松の家、山陽家、新春の家、年寿々本、年都、春の家、文春の家などがあり、当時の旅館としては、木村屋、つたや、あたみ館、日光屋、村上屋、本多屋、白川屋、からかさ屋、かどや、福田屋、日の出屋などがありました。*1
今市市駅近くの通り。
旅館の看板がありますが、近くに旅館はありません。休憩もOKの旅館だったようです。
【参考文献】
*1 渡辺武雄:今市の懐旧(渡辺武雄,1991)P.84
今回は、別府(大分県別府市)の町並みと風俗を散歩します。別府駅の北東側に位置する北部旅館街(仲間通り)は古くからの旅館が現在も営業中です。
そのうちの1軒、すずめ旅館は、宿泊(素泊まり)2500円です。看板には、「御泊り」の他に「御休憩」もあります。昔は、休憩のみの利用もできたのだと思います。
豪華なソファーと大きなダブルベッド。艶っぽい雰囲気の調度品など歴史を感じさせる旅館です。
夜になると、別府タワーのネオンが望めます。
加古川駅前の大通りと国道2号線が交差した角に、松月旅館があります。周囲には広い道路ができて開発が進んでいますが、昔ながらの風情を保っています。
側面から見ると、奥行のある建物であることがわかります。
入口には、白い質素な暖簾があります。
裏通りにも入口があります。
加古川の検番筋に「みどり旅館」があります。
1階はうなぎ屋になっています。屋号は旅館と同じ「うなぎのみどり」です。
レトロな看板。
旅館脇の路地は、検番筋を横切ってずっと続いています。
吉祥寺の南口から井の頭公園にかけての界隈には、「旅荘」が多くありました。*1
現在は、閑静な住宅街ですが、当時の名残と思われる旅館があります。裏口は塀で囲まれています。
井の頭公園の東側にあるひょうたん橋から坂を上がったあたりにも、旅荘がありました。昭和40代の旅荘は、現在のファッションホテルとは異なり、一見料理屋風の建物でした。写真の左側に旅荘「利根川」、右側に旅荘「安楽」がありました。*1
旅荘「安楽」があった通り。
【参考文献】
*1 土屋恂:吉祥寺消えた街角(河出書房新社,2004)P.103,P.106
吉祥寺駅から井の頭公園へ向かう坂道。
坂を下りきったところに、風情のある旅荘があります。
旅荘の裏側のお客様入口。
昭和初期の雰囲気を伝える佇まいです。
津山市街の中心部に、古い木造の建物があります。
看板に「西村旅館」と書かれています。
重厚な木造建築です。
細長い煙突。煙突の下部に「火口用」と書かれています。
新盛旅館は、現在も営業中の旅館です。
夜になると玄関先にほんわりと明りが灯ります。
本日は、こちらの旅館に宿泊です。
玄関から2階の客室へ至る階段。歴史を感じさせます。
遊廓があった弥生町の東隣に花宗通りがあります。
花宗通りには、遊廓はありませんでしたが、古い旅館の建物が現在も残っています。
玄関付近。
横から見ると奥行きのある建物であることが判ります。
上市町の遊廓跡地の北東部分。古い洋風の建物が建ち並んでいます。
玄関の上部に円柱状のモニュメントが取り付けられています。何か大きな文字が書かれていたのだと思います。
モダンなデザインの玄関。
かつては、旅館だったようです。
遊廓街があった上市町の台地への坂道の途中に、旅館の建物があります。
大きな文字で「旅館」と書かかれています。
料金が書かれた看板。宿泊だけでなく休憩もあります。
玄関部分のタイルの円柱。
弥生町の歓楽街。
通りに面して、古い旅館があります。
旅館脇の路地には、スナックの店舗が建ち並んでいます。
旅館の入口は、路地側にもあります。
新地遊廓は、第2次大戦後、遊廓の大半は旅館・料亭となり、次第に姿を消し、現在は歓楽街となっていますが、当時の面影を残す旧米江旅館の建物が、この歓楽街の一画に残されています。
旧米江旅館は当主米江大輔(明治7年~昭和25年)が7年の歳月を費やして全国各地から資材を集め、大正12年から5年かかって昭和2年に完成したと伝えられている建物でです。
現在は、テナント募集中です。
建物は、意匠的にも技術的にも優れた近代和風建築遺構で、国の登録有形文化財に指定されています。
【参考URL】
*1 松江市:松江市長記者会見・記者発表資料「登録有形文化財の登録について 旧米江旅館本館」
久留米駅近くの池町川沿いに古い木造の旅館の建物が残っています。
旅館「池街川」。川沿いの旅館らしい屋号です。
旅館の裏口に、情緒豊かな太鼓橋が架けられていますが、老朽化のため立ち入り禁止になっています。かつては、この橋を渡って旅館の裏口から男女が入っていったのでしょうか。
南側から見た旅館の全景(背後は九州新幹線の高架)。
戸畑駅前の大通りに面した場所に、ビジネスホテルがあります。
玄関は、鮮やかな色のタイルで装飾されています。
ビジネスホテルの裏側には、同名の屋号の旅館があります。
旅館の全景。
今回は、戸畑(福岡県北九州市)の町並みと風俗を散歩します。
昭和30年刊行の「全国女性街ガイド」*1 によると、戸畑には、築地町一丁目から五丁目へかけて赤線が93軒あり、駅前の一画は色町でした。
道路を挟んだ反対側の鳥旗町に、いくよ旅館があります。
この旅館は、映画「ロボジー」の撮影に使用されたそうです。
映画「ロボジー」は、二足歩行ロボットの開発を命じられた電器メーカー社員が、開発に行き詰まり、老人にロボットの中に入ってもらったことから起きる騒動を描くコメディです。おそらく、映画の中の旅館のシーンの撮影にこの旅館が使われたのだと思います。
北側から見た旅館の外観。
【参考文献】
*1 渡辺寛:全国女性街・ガイド(季節風書店,1955)P.187
牛深港前の県道35号線沿いに、旅館「宝洋館」の看板があります。
看板に導かれて路地を進むと、旅館の入口が見えてきます。世浦地区の「せどわ」のように、狭い路地が海の方向へ向かって伸びています(写真奥は牛深港)。
旅館の入口。
海側から見た路地。
舎人ライナーの高架が横切る日暮里駅前の近代的な町並みに混じって、古びた旅館の建物が1軒あります(写真奥)。
繊維街として発展した頃の日暮里には、このような旅館がたくさんあったのかもしれません。
モルタル造りの建物。
玄関付近は、竹で装飾されています。
今回は、日暮里(東京都荒川区)の町並みを風俗を散歩します。
JR日暮里駅の西側にある「夕焼けだんだん」は、谷中では有名な夕焼けの絶景スポットです。
夕焼けだんだんの階段の上に、「富士見ホテル」の大看板があります。
細い路地をいくと、奥に富士見ホテルがあります。
ひっそりとしたホテルの入口。
本町商店街から、北側に路地を折れると、旅館の建物が見えてきます。
現在は、休業中のようですが、昭和初期のものと思われる建物です。
趣きのある木製の看板。
旅館の周囲の路地には、当時の雰囲気が残っています。
ひさご通りの西側に、ビジネスホテルが密集する一画があります。
商店やスナックなどが建ち並んでいます。
ホテルの大看板。
ホテルの提灯。
「食道街」は、浅草の中でも、飲食街が中心となった繁華街です。
スカイツリーの方角に「ホテル」と書かれた大看板があるのが気になります。
外国人用のゲストハウスのようです。
建物の屋上に設置された広告大看板。
旭遊廓の南側のはずれに、旅館風の大きな建物があります。
3軒の建物がつながっています。
重厚な造り。
東側から。
歌舞伎町の繁華街の中心部。
「白川郷」という屋号の旅館があります。
ホテル白川郷の前身は、1958年に、岐阜県白川郷の「合掌造 り」を新宿歌舞伎町に移築し復元した「割烹白川郷」です。1992年に「ホテル白川郷」として生まれ変わりました。*1
歌舞伎町には、「春秋会」と呼ばれるホテル経営者のグループがあって、グループのメンバーは、すべて岐阜県大野郡荘川村中野から移り住んだ人たちでした。川村中野は、合掌づくりで有名な白川郷と境を接した集落で、昭和35年の御母衣(みほろ)ダムの完成により、現在は、ほぼ全域が水の底に沈んでいます。*2
【参考URL】
*1 有限会社白川郷:「ホテル白川郷」公式ホームページ「白川郷名称の由来」
【参考文献】
*2 朝倉喬司:ヤクザ・風俗・都市(現代書館,2003)P.68-P.70
新宿区役所裏の老舗のファッションヘルス店のある路地。
「レンタールーム」と書かれた元旅館の看板。
青いタイルで全面が装飾されています。
宿泊料3500円の貼り紙。
山側の通りの中ほどに、元旅館の建物が残っています。
繊細な格子を持つ建物です。
現在も旅館の屋号の表示が残されています。
建物脇の路地。
東中島にもかつての遊廓街を思わせる建物が残っています。
こちらの建物は、旅館でした。
現在は商店になっている建物。
2階部分に昔の雰囲気が残っています。
飛田新地の北側の商店街。
昭和の雰囲気の残る末廣旅館。
美しいタイルの円柱。
玄関もふんだんな装飾が施されています。
青石畳通りに面した老舗旅館の美保館。
数奇屋風建築。
美保館の内部。
「交通公社の旅館クーポン」の琺瑯看板。
都城駅近くにある一見何の変哲もない旅館。
よく見ると、看板には温泉マークが書かれています。
建物脇に、昔の看板が置かれています。
建物は大きく、部屋数はかなり多いです。
「千人間府」や遊女の墓への入口。お寺の脇の道を進みます。地元の方の話によると、鉱山の発展に伴い、この通りも賑わったそうです。
古びた木造旅館
旅館と書かれた看板が残されています。
逆方向から通りを見たところ。
横浜駅西口の繁華街に鶴のマークの旅館があります。
石材と瓦でできている塀は日本的です。
入口付近。
工事用コーン。
戦後の旅館(旅荘)ブームの中で、雨後のたけのこのように盛んに建てられた旅館の群れ。のちにその多くが、最新のホテルに改築されましたが、東京の下町に、和風の味を残して、いまも営む旅館があります。*1
旅館「夕月」は、昭和26年頃の浅草の火災保険特殊地図*2 にも記載されている当時のままの旅館です。
旅館「石水」。
この付近には、他に昭和28年開業の旅館「成駒屋」(2000年頃まで現存)がありました。*1
落ち着いた佇まいです。
【参考文献】
*1 双葉社:夢空間ファッションホテル名商・巨匠の物語(双葉社,1999)P.26
*2 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の浅草(武揚堂,2007)あの日の浅草(火災保険特殊地図)
尼崎から出屋敷へ向かう通り。
旅館があります。
温泉マークの看板。昭和初期の「さかさくらげ(連込み旅館)」のようにも思われますが....
実際は、ごく普通の旅館です。
コザのゲート通りとBC通りの間には、数年前まで保健所があって、現在も保健所通りと呼ばれています。
旧保健所の近くを北西へ折れると、古いカラオケハウスがあります。
カラオケハウスの2階は旅館になっています。
2階部分。
コザ十字路近くに、古いビジネスホテルがあります。
ホテルナポリ。
入口は赤瓦でデザインされています。
現在は、休業しているようです。
新地内のこの付近には、栄橋遊廓の事務所がありました。*1
かつての栄橋遊廓の事務所があったあたりに、古い旅館があります。
周囲は近代的なビルに建て代わっている中で、この旅館は昔のままです。
艶っぽい窓です。
【参考文献】
*1 今井清治郎:堺市實測地圖 訂正3版(文岳堂編輯部,1912)
かつて遊廓があった新地は、現在は住宅街となっていてその面影はありません。
レトロな旅館があります。
このあたりには、龍神遊廓の事務所がありました。*1
玄関は、美しい水色のタイルで装飾されています。
「いずみ荘」の看板。
【参考文献】
*1 今井清治郎:堺市實測地圖 訂正3版(文岳堂編輯部,1912)
千駄ヶ谷の鳩の森神社近くに、千駄ヶ谷が旅館街だった頃に営業していたと思われる旅館の看板があります。
1959年の住宅地図*1 を見ると、旅館「喜鶴(きかく)」と記されています。
現在は、営業していません。
看板は、「旅館」でしたが、その後「ホテル」として営業していたようです。
現在は、周囲に旅館街の面影はありません。
【参考文献】
*1 住宅協会:渋谷区東部(住宅協会,1959)P.4
麻吉(あさきち)旅館は、古市で現在も営業する昔ながらの唯一の旅館です。*1
当時、ここは麻吉料理店といって明治初年において第一級の料亭で、置いている芸者は20人あまりもいました。芸者はみな美人で、ここでの芸者は他の店にはでないほど麻吉は全盛をきわめました。*1
旅館は崖の上にたっていて、石段を下ると旅館の建物の裏側へ降りることができます。
崖下の伊勢自動車道から見た麻吉旅館。
【参考文献】
*1 中村菊男:伊勢志摩歴史紀行(秋田書店,1975)P.126,P.134
今回は、白浜(和歌山県西牟婁郡白浜町)の町並みと風俗を散歩します。
白浜温泉は、和歌山県の南西に位置する近畿で最も有名な温泉で、海水浴場もあります。
「魚政」(写真手前)は、昭和初期から続く老舗で、当時、浜通りには、「中村屋」「魚政」「大野屋」「温泉堂」「アシベ料亭」と商店が並んでいました。*1
現在は、温泉旅館とスナックが混在する町並みになっています。
白浜館は、白浜の開発が行われた大正時代からの歴史を誇り、美しい白良浜と大量の温泉にめぐまれ温泉地でした。しかし、何もない温泉地のただ1軒の旅館ではなんのメリットもないことから、田辺新地の置屋に依頼し、客が入ったとき、巡航船で芸妓を送ってもらうようになりました。しかし、これでは長続きせず、大正13年に検番を建て、1週間交代で数名の芸妓をここに宿泊させることにしました。これが白浜検番のはじまりで、昭和に入り、白浜新地が開発されることになりました。*2
【参考文献】
*1 白浜町誌編纂委員会:町のあゆみ 白浜町誌紀要. no.4 (白浜町誌編纂委員会,1981)口絵A
*2 白浜町誌編さん委員会:白浜町誌.本編下巻1(白浜町,1984)P.340
大久保駅近くの住宅地街に、一軒の旅館があります。
風情のあるネオン管です。「旅荘」という呼び方も味わいがあります。
落ち着いた雰囲気の外観。
和風の玄関の装飾。
彦左小路裏の通り。
レトロな旅館が2軒建ち並んでいます。
玄関のタイルの円柱。
入口には、「いらっしゃいませ」の看板。
洞川温泉は、大峯山(山上ヶ岳)の西麓の標高820mの山間小盆地で、修験道龍泉寺の門前町として発達してきました。*1
江戸時代末期には大規模な旅館が建てられ、沿道に並ぶ旅館には「精進落とし」の客を相手とする遊女などもいて夜遅くまで賑わいました。*1
これは、女人禁制での性の抑圧に耐え、それを乗り越えた修行者たちの一夜妻となることにより、女性もその力にあやかれることであり、洞川にはその名残の遊女宿がありました。修行者との交わりは、豊かな山の力を身体に取り込む営為がありましたが、近代には売春や婚外交渉と見なされ、悲劇も生じました。*2
現在は、温泉街として賑わっています。
旅館街の中心部の本町には、江戸期に存続した花屋徳兵衛の子孫が経営すると思われる花徳旅館があります。*1
洞川の西側に位置するの南ノ町の商家。
【参考文献】
*1 浅香勝輔:歴史がつくった景観(古今書院,1982)P.237-P.238
*2 鈴木正崇:女人禁制(吉川弘文館,2002)P.112
ラオックス市原店のある大通り。「くらぶ姫」の看板。
旅館の建物が「お遊び案内所」と「レンタルオフィス」に改装ています。
旅荘「入舟」の看板。
玄関に置かれている「レンタルオフィス」の看板。
今回は、山谷~吉原の町並みと風俗を散歩します。
山谷は、吉原の地続きのドヤ街(日雇い労働者が集まっている地域)です。
山谷の前史は、明暦3年(1657年)にさかのぼります。吉原遊廓移転の際、新吉原遊廓の建築が出来上がるまでの2ヶ月間、山谷地域での仮宅営業が認められ、その後も、新吉原遊廓の大火の際(計13回)、仮宅営業が認められました。少ない設備投資で大きな利潤を稼げる仮宅営業は、遊廓業者にも歓迎されました。このような山谷の売春街としての歴史的風土性は、戦後の木賃宿にも引き継がれ、女衒宿が大きな利益をあげていました。*1
現在の山谷は、すっかり変貌し、町全体が建設・港湾・運輸の大企業に供給される日雇い労働者の巨大な共同飯場になっています。*1
吉原に近い日本堤には、簡易宿泊所が密集しているエリアがあります。
古い旅館風の建物が建ち並んでいます。
【参考文献】
*1 神崎清:山谷ドヤ街(時事通信社,197)ⅰ,P.148,P.171
石川町の車橋交差点に、「舟の休憩所」と書かれた看板があります。
看板にしたがって、中村川沿いを西へ進むと、「舟の休憩所」が見えてきます。
この船は、運河に浮かぶ水上ホテルです。消防法上の設備・規制をクリアしていないため「宿泊所」を名乗ることができませんが、実態は労働者の宿泊所です。*1
1950年の朝鮮戦争により、横浜港は軍需物資を運ぶ拠点になり、横浜に職を求める人々が全国から押しかけましたが、野宿を余儀なくされて凍死する人たちが毎年のようにでました。そこで行政が苦肉の策として考えたのが川の上に浮かぶ艀(はしけ)を利用して作る水上ホテルでした。民間でもこれを真似て、簡易宿泊所としての水上ホテルが川の上に建ち並び、これがドヤの原型となりました。*2
隆盛を誇った水上ホテルですが、実態は定員の5倍以上の人々で溢れた収容所のようなもので、チフスも流行していました。1951年1月、7名の犠牲者を出した転覆事故が転機となって、水上ホテルは徐々に姿を消していきました。同時に、アメリカ軍の接収が解除された寿町に、今のドヤの元となる簡易宿泊所が次々と建設されていきました。*2
舟の上には粗大ゴミが放置されています。現在は休業中なのでしょうか。
【参考文献】
*1 藤木TDC、イシワタフミアキ:昭和幻景(ミリオン出版,2009)P.108-P.109
*2 石川 直樹:すばる31(6)(2009.6)「横浜・寿町どやどや滞在記(第2回)越冬パトロール」P.288-P.289
徳山市街の二番町交差点。
「徳山の思い出」*1 によると、二番町に色狂女(いろきちがい)の「松重の婆さん」というのが住んでいました。松重の婆さんは、いつもハマカをはいて、顔におしろいを真っ白にぬって、巡査に恋焦がれて街中を徘徊していたので、徳山では知らない者はいませんでした。若いときは学校の先生だったので、インテリで字がうまく、遊廓の女郎たちの恋文の代筆をしては小遣いをもらっていたそうです。
その二番町の交差点から南側の路地を入ったところに、「みぎた旅館」があります。
現在は、割烹・旅館で、素泊まり(1泊3000円)もできます。内部には庭もあって料亭のような雰囲気です。
昭和の雰囲気を今に残す玄関先。
【参考文献】
*1 前田麦二:徳山の思い出(マツノ書店,1985)P.92
今回は、熊本(熊本県熊本市)の町並みと風俗を散歩します。
JR熊本駅前の通り(国道22号線)を東へ行くと、白川と平行して坪井川が流れています。橋から見て南側が二本木遊廓があった方角ですが、川沿いに古い旅館の建物があります。
古い木造の建物が川沿いに建ち並んでいます。
バラック風の建物です。
こちらは、3階建てです。
旧五軒町界隈には、花街の痕跡とも言える料亭や旅館だったと思われる建物が残っています。
緑色の建物。
スナック喫茶。
3階建ての旅館。
「恋しき」は、明治5年創業の備後地方随一と言われた料亭旅館で、平成2年までは旅館として営業していました。その後、取り壊しの話も出ていましたが、経済界が保存に乗り出し、平成19年に「こころのふる里 恋しき」として再オープンしました。
明治から昭和にかけては、政治家や文化人など著名な方々が宿泊されました。
奥には日本式庭園が配置され、すばらしい枝ぶりの松や泉が配置されています。
「恋しき」で宴会を行った後、老松町の遊廓に繰り出すということもあったのかもしれません。
JR新町駅前に、小規模なスナック街があります。
古い旅館の建物があります。
歴史を感じる看板。
美しい板塀です。
豊橋鉄道渥美線の小池駅近くに古い旅館が2軒あります。
そのうちの1軒、大黒屋は当時のままで現在も営業中の旅館です。
玉川旅館。
風情のある入口付近。
長岡の新遊廓跡地に、数軒の旅館が現在も営業中です。
豪華な木造建築の旅館。
向かい側にもう1軒あります。
旅館風の建物のお宅。
松島三丁目の三叉路から新小岩公園方面へ行く道の途中に、「青葉旅館」の大きな看板があります。
ずいぶん質素な店構えの旅館です。
入口だと思っていたのは、裏口でした。
表へ回ってみると、風情のあるビジネス旅館でした。
旧花街の一画。
古びた旅館の建物が残っています。
御同伴、御食事の看板。
裏口もあります。
甲州街道と明治通りが交差するあたりに、雷電稲荷神社という変わった名の稲荷神社がありますが、そこが新宿四丁目の旅館街の入口です。
ここは、旭町のドヤ街でしたが、現在は、「新宿四丁目ビジネス旅館街」と看板に書かれています。
今でも小さな旅館が立ち並ぶ風景が見られます。*1
3階建てのように見える旅館。
道なりに進むと、やがて高島屋前に出ます。
【参考文献】
*1 木村聡:荷風!特集大人の新宿(日本文芸社,2004)P.58-P.60「古雑誌記事に”新宿”を読む!」
数年前までちょんの間があった初音町。北側にスナックが建ち並ぶ路地があります。
裏側の路地には、昔の雰囲気が残されています。
旅館の看板が残されています。
入口付近にかつての旅館の面影が残されています。
日和山公園の東側、船場町の菊水旅館付近は、かつて遊廓があった場所です。*1
菊水旅館。
付近は、近代的な建物にばかりで、昔の妓楼のような建物は残っていません。
船場町からさらに道を下っていくと、酒田港へ出ます。
【参考文献】
*1 木村聡:歴史の中の遊女・被差別民(新人物往来社,2006)「秋田紀行 遊廓跡をたずねて」P.292
下関駅から国道191号線が北へ向かった新地西町交差点の近くに古い旅館の建物が連なっています。
中央の建物は、ピンク色のタイルで覆われています。
タイルの競演です。*1
モダンな木製の窓枠。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.48
横浜中華街を散歩します。中華街の東側に位置する南門シルクロードに古い建物があります。
レトロな感じの旅館です。
「旅館オリエンタル」。
斜めに付いている取っ手が昭和の時代を感じさせます。営業中の札がかかっていますので、今でも現役のようです。泊まってみたい旅館です。
駅前の大通り。証券会社のビルなどが建ち並ぶ中に、「旅館」の看板があります。
路地を入るとスナック街があります。
1軒だけ旅館があります。こういう場所に旅館があるのは、めずらしいと思います。
入口付近。
木江の農協から宇浜方面へ行く道の途中に、ひときわ目立つ建物があります。
何と、木造五階建ての豪邸です。
この建物は、大正2年、当時造船業を営んでいた長屋源吉さんが、船主などの接待用に建てた料亭です。主材は、木造船の建材だった松と杉。眺めのいい四階には、35畳敷きの大広間があるそうです。*1
昔は、木造船の建造技術があったので、このような建築が可能だったのかもしれません。
正面から見ると4階建てに見えますが、横から見ると小さな最上階部分があります。
たしかに五階建てです。
【参考文献】
*1 中尾醸造株式会社:蔵元だよりNo.3「特集 木江を歩く」P.3
かつて花街であった花岡町には、古い旅館が残っています。なかには、ビジネス旅館に転業している旅館もあります。
塀の装飾と瓦屋根が美しい旅館。
和風の建物の隣には、ファッションヘルスがあります。
「えいらく」という名の屋号の旧旅館。
旧街道の両側には、横丁が何本もあります。そのうちの1本の路地を下ると、「赤線跡を歩く」*1 に掲載されているビジネスホテルがポツンと1軒あります。
街道と交差する東側の横丁は、このようにすべて海側に向かって下っています。つまり、品川宿の街道は、斜面を通っているということになります。(写真の奥が街道側です。)
看板には、「ビジネスホテル」と書いてありますが、旅館の風情です。
裏手から見たところ。
旧街道沿いにも同じ名前のビジネスホテルがありました。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(筑摩書房,2002)P.37
渋取川の暗渠のあるあたり抹香町(まっこうちょう)(現在の浜町2丁目)は、かつて旅館街でした。
壁の装飾の美しい旧旅館の建物が並びます。現在は、静かな住宅街です。
さまざまな装飾の跡が残る町並み。*1
美しい黄色の塀。