倶知安(錦座通り)かつての料亭街。現在の都通り。

今回は、倶知安(北海道虻田郡倶知安町)の町並みと風俗を散歩します。
北鉄線(後の函館本線)工事着工の明治35年頃、散在していた飲食店、料理店は、北鉄線開通、駅前の発達とともに、駅の方へ移動し、料亭「喜楽」(写真のあたり)前は、料理店、そば屋などが立ち並びました。*1

”喜楽通り”にくらべ、料飲店は少数でしたが、錦座通り(現在の都通り)も料亭「秀清楼」を中心に、一つの歓楽街を形づくっていました。秀清楼は、初代支庁長の東郷重清が「秀清楼」と名付けたもので、喜楽とともに芸妓をおく本格的な料亭で、倶知安劇場(写真のあたり。その後のシアター倶知安と思われる*3)のところに、店を出していました。*2

夜の都通り。

都通り北端のゲート。

【参考文献】
*1 倶知安町史編纂委員会:倶知安町史(倶知安町,1961)P.285-P.286
*2 倶知安町:倶知安の八十年(倶知安町,1971)P.100-P.101
*3 ゼンリン:虻田郡倶知安町(ゼンリン,1984)P.18

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函館(津軽屋食堂)終戦後開業。小鉢は、ほとんどが100円代。

大門横丁の隣にある津軽屋食堂。開業は終戦後まもなくで、ショーケースの中から好きな惣菜を選んで組み合わせ、自分好みの定食を作るスタイルは当時のままです。*1

ショーケースに並んでいる小鉢は、ほとんどが100円代です。

カツ丼(670円)と日本最北(増毛)の地酒「國稀」を注文。それと、ショーケースから、白菜のおひたし(100円)を頂きました。カツは作り置きしていません。注文が入ってから衣をつけてカツを揚げます。

ショーケースから塩辛の小鉢(80円)を追加。お腹の具合と相談しながら頂けるので便利です。

【参考文献】
*1 ぶらんとマガジン社:HO(2012.6,vol55)P.73

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函館(なぎさ街)道路沿いのスナックビル。

かつての裏風俗街「セキセン」*1 を通り抜けた若松町のはずれ。

道路沿いにスナックビルがあります。

「なぎさ街」と名づけれられています。

スナック「カレン」「セリカ」は、以前はセキセンの目抜き通りの質屋の前にあった店舗*1 が、こちらへ移転したようです。

【参考記事】
*1 風俗散歩(函館):セキセン(2008.12)

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函館(菊水小路)松風町の呑み屋小路。幻想的な灯り

函館市松風町の呑み屋小路「菊水小路」。

小路の入口の角にある鳥料理の店。

夜の様子。

幻想的な灯り。

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函館(高橋掬太郎歌碑)酒は涙か溜息か。割烹冨茂登。

護国神社坂下グリーンベルトに高橋掬太郎の歌碑が建てられています。

酒は涙か溜息か 心のうさの捨てどころ...

「酒は涙か溜息か」は高橋掬太郎が作詩し、古賀政男を曲をつけ、ミリオンセラーとなりました。高橋掬太郎は、大正11年から昭和8年まで函館日日新聞の記者をしていましたが、その頃よく恵比寿町のカフェや蓬莱町の料理店に行っていました。掬太郎は、恵比須町の大学という喫茶店の2階に下宿していましたが、この喫茶店は、蓬莱見番の芸者をたくさんかかえていた割烹中庄の親戚でした。*1

護国神社坂下に現在もある割烹冨茂登(ふもと,写真右)に、東京から出てくるたび掬太郎は立ち寄りました。女将さんは、元蓬莱見番の芸者で、掬太郎が、冨茂登という店名をつけました。

【参考文献】
*1 木下順一: 函館街並み今・昔(北海道新聞社,2001)P.40-P.41

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函館(新島襄海外渡航の地碑)売女に変装して日本を脱出。

元治元年(1864年)、新島襄は、函館から日本を脱出しました。

函館市大町の岸壁に「新島襄海外渡航の地碑」が建てられています。

「新島襄海外渡航の地碑」から約300m離れた場所に、新島襄のブロンズ像があります。

新島襄は、元治元年(1864年)、6月14日夜半に、用意されていた小舟で沖に碇泊していたアメリカ船を潜り込みました。小舟の中での様子をその手記に「あたかも、商船に忍び通う婦人の有様なり」と記していますが、おそらく沖の外国船へ通う売女は結構多かった思われ、黒い着物に手拭をかぶった彼は、売女のごとく変装して監視人の気をはぐらかしました。*1

【参考文献】
*1 須藤隆仙:箱館開港物語(北海道新聞社,2009)P.274-P.276

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函館(山ノ上町遊廓跡地)弥生小学校の西隣。

江戸後期の「官許函館全図」*1 を見ると、称名寺・実行寺(現在の弥生小学校の所在地)の西の方に「外国人休憩茶ヤ(別の真景図などでは「異人揚屋」)」とあります。「異人揚屋」とは、外国人を遊ばせる家のことで、函館では開港と同時にこの商売屋が出現し、山ノ上町遊廓の発端となりました。*2

山ノ上町遊廓があった現在の弥生小学校の西隣の地は、旅籠町の町名(昭和40年廃止後は弥生町)ができていました。これは遊女屋から茶屋町の名が生まれていたものが廃れて旅籠町になったものです。*2

遊廓の前の坂は、泊り客が朝、別れを惜しんでみ返ることから、見返り坂と名付けられましたが、現在は、常盤坂に変わっています。*2

常盤坂の一本西寄りの坂を姿見坂と呼んでいますが、これも遊女の姿が見えることからついた名です。*2

【参考URL】
*1 函館市中央図書館:所蔵デジタルアーカイブ 万延元年(1860年)「官許函館全図」第2図
【参考文献】
*2 須藤隆仙:箱館開港物語(北海道新聞社,2009)P.207-P.210,P.215

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函館(地蔵寺の供養塔)「箱館新廓遊女屋細見一覧」に記載の屋号。

今回は、函館(北海道函館市)の町並みと風俗を散歩します。
函館の風俗散歩は、前回(2008年12月)に引き続き、今回で2回目です。
函館市台町(船見町)にある地蔵寺は遊女の駆込み寺といわれ、境内には、遊廓の経営者たちが引き取り手のない遊女などを供養するために元治元年(1864年)に建立した高さ3m以上もある「有無両縁塔」があります。*1

台座には、「廓内遊女屋」とあり、施主である山ノ上町遊廓の30人ほどの名が彫り込まれています。
住吉屋、小田屋、廣田屋、増屋、宮川屋、中里屋、東屋、金子屋、田中屋、小嶋屋、大須屋、高田屋、納屋の13名。

側面に、仲屋、菱屋、北越屋、中嶋屋、新屋、上田屋、玉屋、佐藤屋、盛屋、茂村屋、伊勢屋、甲屋の12名。計25名は、 1865年(元治2年・慶応元年)の発行された「箱館新廓遊女屋細見一覧」*2 に記載されている25の屋号に一致しています。
山之上町遊郭は、箱館開港に伴い万延元年、江戸吉原を模して造られ、外国人の為には特に三層楼の異人揚屋を大門脇に設け、俗に休息所と称されました。*3

地蔵寺の前には、山ノ上町遊廓の名妓だった高清水近大夫の墓(万延元年(1860年)が建っています。*1

【参考文献】
*1 大淵玄一,広瀬菊枝:紅燈二百年(大淵玄一,2002)P.32
【参考URL】
*2 宮川屋与吉:箱館新廓遊女屋細見一覧(宮川屋与吉,1865)
*3 函館市中央図書館:所蔵デジタルアーカイブ「箱館新廓遊女屋細見一覧」の説明文

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大釈迦(マンサード屋根のホテル)スチュワーデス風の二人。

古城の外観のモーテル廃墟の隣にある「私の部屋」。

マンサード屋根の外観が特徴です。

スチュワーデス風の二人。

奥行のある建物です。

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大釈迦(モーテル廃墟)道路沿いに古城の外観。

大釈迦のラブホテル街から、さらに、五所川原方面へ国道101号線を行くと、道路沿いに古城の外観のラブホテル廃墟があります。

モーテルの形式(1階部分が車の駐車スペース、2階部分が客室)のホテルです。

入口の「いらっしゃいませ」の看板。

入口は、所々破られています。

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