四日市(港楽園跡地)現在の居酒屋「お半」の付近一帯

現在の居酒屋「お半」の付近一帯は、かつて港楽園と呼ばれた赤線地帯でした。*1

現在の居酒屋「お半」の前付近。

「港楽中支」の電柱番号札。

夜の様子。

【参考文献】
*1 樹林舎:四日市の昭和(樹林舎,2011)P.127

参考文献

参考記事

四日市(諏訪公園)四日市市の近代建築を代表する建物。

四日市の歓楽街の中心に位置する諏訪公園。

公園内にある「四日市市子どもの家」は、旧四日市市立図書館の建物(国登録有形文化財)で、四日市市の近代建築を代表する建物です。*1

かつて、四日市には、港楽園、春吉園という特飲街がありました。ほかに諏訪公園前に待合という名の特飲店が数軒、その前には教会、図書館、幼稚園があり、図書館の窓から干し物がのぞまれたり、幼稚園の子供が区域へ迷い込んだり、しばしば問題が起こりました。*2

昭和30年代、諏訪公園を背にすらりと屋台が並んでいました。屋台は北側にもあり、公園のまわりは屋台だらけでした。*3
その後、屋台は徐々に減っていったと思われ、昭和40年の住宅地図*4 には、諏訪公園の北側のみに屋台が記されています。現在、公園の北側は駐車場になっています。

【参考URL】
*1 四日市市:公式ホームページ 旧四日市市立図書館
【参考文献】
*2 名古屋タイムズ社:名古屋タイムズ(1953.7.12)P.6「四日市新地図」
*3 樹林舎:四日市の昭和(樹林舎,2011)P.126
*4 善隣出版社:四日市市(南部)(善隣出版社,1970)P.12

参考文献

参考記事

四日市(大正館)塀で囲まれた広大な敷地を持つ老舗料亭旅館。

今回は、四日市(三重県四日市市)の町並みと風俗を散歩します。
四日市の歓楽街の中心部。諏訪公園の北側に塀で囲まれた広大な敷地を持つ老舗料亭旅館の「大正館」があります。

四日市の代表的な料亭と言えば大正館と松茂でした。戦前の四日市において、ダンナ衆は、しばしば大正館や松茂に芸妓を呼んで宴会を持ちました。*1

大正館の入口。

夜の様子。

【参考文献】
*1 四日市市:四日市市史 第5巻 史料編 民俗(四日市市,1995)P.747,P.749

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参考記事

瀬戸(喜楽)昭和2年に新開地に移転。現在は「喜楽梅むら」。

現在も新開地で営業中の「喜楽」は、元は深川神社の前に店を構え、旦那さんの遊興の場としての他、遠方から陶器の仕入に来た人との商談の場として不可欠な料理屋でした。「喜楽」は、昭和2年に新開地に移転し、黒塀に囲まれたたたずまいを持っていました。*1

現在は、「喜楽梅むら」*2 として、近代的なビルに建て替わっています。

この日は、ランチメニューは無しとのことなので、コース料理(3,500円)を注文。豪華な個室へ案内頂きました。写真は2品目の料理。この後、お刺身の盛り合わせが続きます。

シメのごはんと赤だし。この後、デザートのアイスクリームで終わりです。

【参考文献】
*1 瀬戸市史編纂委員会:瀬戸市史(愛知県瀬戸市,2006)P.415-P.417
【参考URL】
*2 喜楽梅むら:公式ホームページ

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参考記事

瀬戸(新開地)陶華園跡。敗戦後は進駐軍の慰安所。

瀬戸の新開地は、昭和初期、旧瀬戸町の西のはずれに新しくできた盛り場です。瀬戸の古くからの盛り場は、深川神社を中心とする一帯で、最盛期は200人ぐらいの芸者がいましたが、芸者置屋も統一して新開地に移転が行われました。*1

敗戦後、新開地は、進駐軍の慰安所となり、元の芸者置屋一帯が特殊飲食店街、いわゆる赤線となりました。赤線の店は一般には「パンパン屋」とか「女郎屋」と呼ばれ、十七、八軒ありました。*1

新開地の赤線は、売春防止法ができた昭和33年に廃止されました。*1

現在は、新開地商店街として、飲食店などが営業中です。

【参考文献】
*1 瀬戸市史編纂委員会:瀬戸市史(愛知県瀬戸市,2006)P.416-P.417

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瀬戸(日本鉱泉)玄関脇にどらえもん。太い煙突。

尾張瀬戸駅の南東側(銀杏木町)にある日本鉱泉。県道57号線沿いにある珍しい屋号の銭湯です。

玄関付近。

玄関脇には、どらえもん。

建物の背後から。太いコンクリートの煙突が突き出ています。

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瀬戸(中央館)商店街の映画館。

梁川神社から宮前橋を渡って、左へ行くと末広町です。商店街の入口に休業中の映画館の中央館があります。

「中央劇場」と「ロマン中央」の2軒が隣接しています。

映画のポスタが貼られていたと思われる場所。

商店街のアーケード上側の「映画は中央」と書かれた大看板。

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瀬戸(公衆トイレ)宮前地下街の北端の橋の下。

宮前地下街の北端の公衆トイレ。陸橋のように見えるのは、宮前地下街の屋根とほぼ同じ高さの駐車場の敷地の延長にある通路(橋)です。その橋の下に公衆トイレが設けられています。

丸窓が印象的です。

男子トイレの小便器。

レトロな手洗い場。

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瀬戸(宮前地下街)深川神社参道沿いの飲食街。

今回は、瀬戸(愛知県瀬戸市)の町並みと風俗を散歩します。
名鉄瀬戸線の終着駅の尾張瀬戸駅から東へ約500m。深川神社(写真左奥)の参道沿いに飲食街があります。

宮前地下街。地上にあるのですが、名前は「地下街」です。

繁盛店の焼きそば屋さん。

隣接する公園を地上とすれば、飲食街は地下街に位置します。

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那加(かつての料亭街)新興市街地那加駅前の当時の特色の一つ。

JR那加駅の南側は、かつては、芸妓置屋が散在する繁華街でした。昭和5年の市街図*1 によると、この通り沿いに、「一楽」「末廣」などの芸妓置屋がありました。
昭和15年当時の商業戸数は、第一位が物品販売業で約60%、これに次いで旅人宿・飲食店が約20%、第三位を芸妓場・遊技場等約13%で、第二位・三位を占める割合が他の県内市街地と比較して大きいことは新興市街地那加駅前の当時の特色の一つでした。*2

八百吉商店(現在の「フルーツやおきち」)の東側には、飲食店が連なっています。

昭和5年の市街図*1 によると、岩井酒店(現在の岩井商店)の東側には、「玉川」「美奈本」「〆乃家」「ぽんた」「静乃家」「春本」などの芸妓置屋が散在していました。

昭和20年(1945年)太平洋戦争が終わると、占領軍が各務原基地に進駐して来ます。占領軍将士およびその関係婦女を対象とする風俗営業場が多く出現し、特に昭和24年には、米軍増駐に伴って、那加駅前地区の市街地には米兵を迎え入れようとする横文字の看板が氾濫しました。*2
那加町の西野は、戦後、米軍にさらた岐阜キャンプ(基地)に隣接して形成された地区で、典型的な戦後型の集団売春街でした。*3
現在、那加西野町という地名が残っています。

【参考文献】
*1 東京交通社:大日本職業別明細図 岐阜懸第200號(東京交通社,1930)
*2 小林義徳:那加町史(小林義徳,1964)P.501
*3 加藤政洋:敗戦と赤線(光文社,2009)P.136-P.137

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