七戸(さかた温泉)源泉かけ流しの温泉銭湯。

七戸市街の南西部にある「さかた温泉」。

源泉かけ流しの温泉銭湯です。

館内は、広くてくつろげます。

青森県の銭湯でよく見かける券売機。年中無休。朝5時から夜10時までで、入浴料は良心的な値段(270円)です。

参考文献

参考記事

七戸(スナック熱海)2階への階段を上ります。

スナック熱海の建物。1階には、別のスナックが3店舗ほど。

スナック熱海(2階)への入口。

階段を上るとスナック熱海です。

大型の店舗です。

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七戸(ふれあい横丁)スナックが密集。入口のゲート。

七戸町の遊廓跡地の近くにある「ふれあい横丁」。

スナックが密集しています。

夜になると、ネオン看板が灯ります。

入口のゲート。

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七戸(七戸遊廓跡地)戦後は赤線区域。現在の東大町。

七戸の遊廓(新地)は、現在の東大町にあり、戦後は赤線区域となりました。*1

西側に、開新楼、半月楼、八幡楼、朝日楼、新月楼、東側に、常磐楼、長谷川カフェー、第二四ツ目屋、清月楼、高栄楼がありました。*2

1937年(昭和12年)の日中戦争の頃に、新地に大火があり、大部分が焼失しました。その中で、清月楼の建物は昭和14年に新築され、最後まで残りました。*1

七戸町市街案内俯瞰図*3 に「新地遊廓」の記載があるあたり。

【参考文献】
*1 奥山由蔵:七戸町営業写真家のあゆみ(奥山由蔵,1991)P.7-P.8
*2 大日本職業別明細図
【参考記事】
*3 風俗散歩(七戸):七戸町市街案内俯瞰図

参考文献

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七戸(七戸町市街案内俯瞰図)七戸町観光交流センター。

今回は、七戸(青森県上北郡七戸町)の町並みと風俗を散歩します。
JR七戸十和田駅に併設の七戸町観光交流センターには、大正天皇が皇太子時代に同町を訪れた時に使われたとされる「高等官馬車」が展示されています。

他にも、当時の写真や市街の鳥瞰図が展示されています。

七戸町市街案内俯瞰図。大正8年当時の市街の様子が示されています。

町の東側のはずれに、「新地遊廓」の記載があります。

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三戸(理容室・美容室)塔のような形のデザイン。

三戸の市街には、古い建物が多く残っています。塔のような形のデザインを持つ建物の隣には、洋風の理容室があります。

長屋風の建物。鮮魚店の隣に美容室。

カラフルなデザインの理容室。

モダンな美容室。

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三戸(金勢様の碑)松月旅館の脇。金勢大明神。

松月旅館の脇。

祠の隣に、碑が立っています。

明治10年に立てられたもので、金勢大明神と書かれています。*1

桐萩に女郎屋ができた頃に立てられたものです。*1

【参考文献】
*1 三戸町史編集委員会:三戸町史 中巻(三戸町,1997)P.384-P.385

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三戸(松月旅館)かつての遊廓、後に旅館。

現在、桐萩にある「松月」は、かつて遊廓であり、後には旅館を営み今日では貸屋となっています。*1

遊廓があった頃、検査所と呼ばれる性病検査の場所は、「松月」の向かいにありました。*1

松月旅館だった頃は、料理屋兼旅館だったのだと思います。

松月旅館は、現在は売物件になっています。

【参考文献】
*1 三戸町史編集委員会:三戸町史 中巻(三戸町,1997)P.384,P.390

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三戸(スナック「ともこ」)桐萩の赤線跡の建物。

明治後半から大正にかけては、女郎屋も増え、桐萩の名は広汎な地域で語られてきました。昭和に入り、戦争が激しくなると、桐萩は衰退し、終戦直後の女郎屋は、「よか樓」「松月」「福徳」「旭樓」の4軒だけとなりましたが、戦後は「赤線」として再び隆盛を極め、昭和33年まで続きました。この時期は、飲食店も充実し、ダンスホールも作られました。*1

昭和33年に売春防止法が実施されましたが、それ以後も料理屋やバー・キャバレーの名で私娼は生き残りました。昭和40年代に入ると、桐萩は次第に振るわなくなり、「函館屋」「カトレア」「ぜん」「とも子」「黒猫」「タンポポ」など、いろいろに工夫された店ができては消えていきました。*1
この頃の住宅地図*2 に、「スナックゼン」「やきとりたんぽぽ」「スナックともこ」などの名を確認できます。
当時の赤線(もしくは青線)の流れを受け継いだと思われる「スナックともこ」の建物が残っています。

スナックともこの看板。女性の笑顔が印象的です。

店の前に横たわる看板。

【参考文献】
*1 三戸町史編集委員会:三戸町史 中巻(三戸町,1997)P.387-P.390
*2 日本住宅地図出版:三戸郡三戸町(日本住宅地図出版,1983)P.18

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三戸(桐萩)名前の由来となった切通し。遊廓ができてからつけられた名前。

今回は、三戸(青森県三戸郡三戸町)の町並みを風俗を散歩します。
三戸の町並みについて述べる時、どうしても外すことのできないのは、紅灯の巷といわれた「桐萩」です。「桐萩」は、公娼の街として開かれ、昭和33年までは、女郎屋、飲食店などが多くあり、「不夜城」を思わせるものがありました。「桐萩」という名前は、遊廓ができてからつけられたものであるといわれています。「三戸城」築城時の永禄年間(1560年頃)に、今の「城山」を削り、梅内、泉山方面に通れるようにした切通しを「切接ぎ」と呼んだといわれています。*1
写真の左奥が城山。写真右側の道が「桐萩」への入口です。

三戸町通史(1979年)*2 に、「遊廓があった桐萩は、今は二、三の飲食店、食料品店があり、そのほか三戸印刷社があって他はほとんど住宅街となっている。」との記述があります。
城山(写真左奥)の急斜面が迫っています。

同じ頃の住宅地図*3 には、スナックゼン、やきとりたんぽぽ、スナックともこ、酒場しろやま、沖田商店、中村商店、三戸印刷社、などの記載がありますが、今は、三戸印刷社が現存する以外は住宅街になっています。

城山から桐萩を見下ろすと、かなりの急斜面であることを実感できます。

【参考文献】
*1 三戸町史編集委員会:三戸町史 中巻(三戸町,1997)P.383,P.385
*2 三戸町史編纂委員会:三戸町通史(三戸町,1979)
*3 日本住宅地図出版:三戸郡三戸町(日本住宅地図出版,1983)P.18

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