木造モルタルの母屋を改造した「スナック貴子」

「スナック貴子」の正面は一見何の変哲も無い木造モルタルの建物ですが、裏側へ回るとレトロ感がアップします。

奥まったところになるスナック。

夜の「スナック貴子」。

木造モルタルの母屋を改造した「スナック貴子」
「スナック貴子」の正面は一見何の変哲も無い木造モルタルの建物ですが、裏側へ回るとレトロ感がアップします。
奥まったところになるスナック。
夜の「スナック貴子」。
路地裏の飲み屋街。飲み屋の看板に混じって風俗店の看板が見えます。
焼酎の広告のある横丁の入口。右隣に風俗店の募集看板。
反対側から見たところ。建物の側面に風俗店の入口があります。
お座敷サロン。
宮崎の歓楽街の中央通り。
宮崎で随一のラウンジキャバレーがあります。
ピンクではありません。
玄関上の看板。
今回は、宮崎(宮崎県宮崎市)の町並みを散歩します。
歓楽街の中心部にある「人情横丁」。横丁の入口で、女将さんが三味線を演奏していました。
風情のある看板。
黄色い提灯が特徴です。酔客で毎晩賑わいます。
昼間は、一転して静かな通りです。
石堂川沿いには、戦後、大規模なバラック群がありました。*1
「電柱歴史案内」によると、第二次大戦敗戦直後、大陸へ帰ろうとする人々が続々と博多港へ終結してきました。ところが、米国とロシアによって二つの祖国(韓国と北朝鮮)が成立。それに続く朝鮮戦争の混乱によって帰国を諦めた人々は、再び日本各地へ散っていきましが、そのままこの地に残った集団もあって、昭和30年代まで巨大な難民キャンプの様相を呈していました。この石堂川を挟んで、西岸に韓国系、東岸に北朝鮮系と一応のすみわけがありました。
石堂川東岸に隣接して、大津町商店街という日本人商店街がありましたが、商店街の中には、朝鮮系食材を扱う店が数軒ありました。大津町商店街は、その後再開発により「博多せんしょう」という商業施設に移転しましたが、その際、いくつかの店舗は「博多せんしょう」前の道路に面したところに店舗を構えました。*1
闇市時代からある飲食店。*1
【参考文献】
*1 島村恭則:〈生きる方法〉の民俗誌(関西学院大学出版会,2010.3)P.61,P.66,P.125-P.128
博多の祇園町の万行寺。
ここに、遊女の名月の墓があります。
門をくぐったすぐ右側の奥まった場所。
信仰深かった遊女・明月の初七日に墓から蓮の花が咲いたという伝説が残っています。
須崎町の須崎問屋街周辺には、古い商業ビルが残っています。その中で、茶色のタイルの円柱を持つ建物は、異彩を放っています。
かなり太い円柱です。問屋を営んでいた建物でしょうか。
こちらは、ゲストハウスを営む店舗。茶色の円柱が見えます。
飲食店の建物の玄関部分の装飾。
今回は、博多(福岡県博多区)の町並みと風俗を散歩します。
前回*1 訪問した「大浜」の赤線跡を再び散歩します。
繊細なタイル使いをとどめるお宅。両隣はマンションです。*2
玄関部分の装飾
タイルで装飾された丸窓。
建物の細部にわたって、タイルの装飾が施されています。
【参考記事】
*1 風俗散歩(博多):大浜の赤線跡(2012.11)
【参考文献】
*2 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.37
中洲の人形小路。
狭い路地に飲み屋が密集しています。
2階部分に看板が取り付けられています。
T字路になっているあたり。
中洲の繁華街の「さつま富士」の大看板。「多門通り」の入口です。
居酒屋やスナックが建ち並ぶ通りです。
ビルの2階から。
反対側(中洲大通りに面した側)の入口。