高瀬川沿いに、旧五條楽園の代表的な建物である洋館があります。

京都でよく見られる角石。黄色にペイントされています。

建物の南側から。

円型の窓など、モダンなデザインです。

高瀬川沿いに、旧五條楽園の代表的な建物である洋館があります。
京都でよく見られる角石。黄色にペイントされています。
建物の南側から。
円型の窓など、モダンなデザインです。
今回は、五条(京都市下京区)の町並みと風俗を散歩します。
旧五条楽園の中心部に残る三友楼。前回*1 も訪れた妓楼の風情を残す建物です。
鬼瓦に刻まれた「三友楼」の文字。
美しい格子。
高瀬川畔に和風の建物が映えます。
【参考記事】
*1 風俗散歩:五条(2006.5)三友楼
桜湯は、丸太町橋の近くにあるレトロな銭湯です。
大正末以降に全盛となる派手な銭湯建築の様式(唐破風や格天井)とは異なり、大正8年に建てられた桜湯の建物は貴重なものです。*1
入口には大きな暖簾。
脱衣場のロッカーと柳行李。かなり使いこまれた感じです。*1
【参考文献】
*1 林宏樹:京都極楽銭湯案内(淡交社,2004)P.46-P.47
京都御所の南東側。丸太町橋西詰め南側。
ここに女紅場跡の石碑があります。
「女紅場」には、二つの意味があって、一つは遊所の系統、一つは一般「良家の子女」を対象とする教育機関です。前者は、「遊所女紅場」と通称され、後者は、のちの高等女学校に発展します。現在の京都府立鴨沂(おうき)高等学校の前身である京都都府立京都第一高等女学校は、明治5年4月、丸太町の旧岩倉邸内に開設された英語、数学、化学などを教授する「女紅場」が発展したものです。*1
「遊所女紅場」の前身は、明治5年の芸娼妓解放令のおかげで、帰るに家なく働くに技能なしの芸娼妓の実態を収拾するための施策として考え出された「婦女職工引立会社」で、明治7年に「女紅場」と改められました。*1
【参考文献】
*1 明田鉄男:日本花街史(雄山閣出版,1990)P.146-P.150
河原町通りの今出川から南二筋目を西へ行く道筋。この先には、京都御所があります。*1
現在は住宅街ですが、この御所に近い場所に白梅図子遊廓がありました。*1
通りの南側は、本禅寺です。
通りの中間あたりの本禅寺の北側の土地が新夷町、すなわち白梅図子遊廓の跡です。*1
【参考文献】
*1 明田鉄男:日本花街史(雄山閣出版,1990)P.119-P.121
三本木の遊所は、京都では珍しい、遊女(娼婦)のいない、芸者ばかりの花街でした。その芸者たちは、豊臣秀吉の未亡人、北政所が慶長11年(1606年)に高台寺を建立、入居したころ、しばしば寺に出入りしていた舞、芸子(のちの下河原芸者)の流れを汲んでいるともいわれています。遊所の場所は、京都市上京区東三本木で、鴨川にかかる丸太町橋西詰を北へ200mの間でした。*1
三本木が有名になったのは、幕末で、芸者の質がよかったのが特徴でした。桂小五郎の妻となった「幾松」、近藤勇の情婦の一人の「駒野」、などの名が歴史に残っています。*1
現在、住宅街となっている三本木に、料亭「吉田屋」跡の碑が建っています。
「吉田屋」は、桂小五郎ら討幕の志士たちが密会をしたとされる料亭です(案内板より)。
1900年(明治33年)に設立された立命館大学は、三本木通にあった料理屋の清輝楼の二階を間借りして授業を行っていました(案内板より)。
【参考文献】
*1 明田鉄男:日本花街史(雄山閣出版,1990)P.105-P.107
今回は、烏丸(京都府京都市)の町並みと風俗を散歩します。
天正17年、柳馬場(やなぎのばんば)通りと二条通りとの道筋に、豊臣秀吉の肝いりで、「二条柳町」という遊里が作られました。遊里のまわりには、きれいな柳の並木が形成されていました。*1
路上の案内板にも、遊里のことが書かれています。
柳馬場通りと二条通りが交差するあたり。 現在は、遊里の面影はありません。
二条通り。
*1 小学館:ビジュアル・ワイド京都の大路小路(小学館,2003)P.35
勝富遊廓跡の近くにある須佐神社。
須佐神社本殿へ登る長い石段。
石段を登り切ったところの玉垣に「勝富楽園」の名があります。
玉垣は、左右にあって、反対側にも「勝富楽園」の名があります。
勝富遊廓跡地の東側は急な斜面になっています(写真は東側から見たところ)。
坂道の途中にラブホテルがあります。
高台にあるホテルの入口。
「VODシアター 1000タイトル」。
勝富遊廓跡の北側の通り。
当時の風情を偲ぶことが出来る建物があります。
洋風の彫り物細工が施された窓。
現在は、アパートとして使われています。