四日市(思案橋)徳川家康に由来。JR関西線の踏み切りを越えた浜町。

JR四日市駅の北側の国道164号を東に向かって、JR関西線の踏み切りを越えた浜町に「思案橋」があります。

日本中に「思案橋」と名づけられた橋は、多々ありますが、どれも遊廓と切っても切れない関係にあります。つまり、江戸吉原の思案橋をはじめとして、一般的には各地の遊里の入口近くに見られる橋を「思案橋」と称しています。それは、「遊廓へ行こうか戻ろうか思案を重ねて、そのあげくに渡らずにおれぬことから、この名がある。」と言われています。ところが、四日市「思案橋」については、遊廓との結びつきで考えると、遊廓があった場所と橋の場所が離れすぎていて、思案して決断する場所としては、不適当と言えます。*1

四日市「思案橋」は徳川家康に由来します。天正10年(1582)6月2日未明、本能寺に滞在していた織田信長が家臣の明智光秀による襲撃を受け50歳の生涯を終えた時、堺に滞在していた徳川家康は伊賀越によって伊勢に入り、海路にて駿河に逃げ帰る折に陸路で駿河に戻るか、もしくは海を渡るか「思案」したことが、その名の由来となっています。

現在は、橋のオブジェと碑があります。

【参考文献】
*1 四日市市港地区連合自治会:思案橋記念誌(四日市市港地区連合自治会,1988)P.16-P.39

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四日市(三和商店街)飲み屋の看板

三和商店街には、たくさんの出入口があります。食堂の看板がある路地のような通路も入口の一つです。

商店街の天井部分には、屋根の骨組の構造が見えます。

古い商店の看板。

夜になると飲み屋の看板に明かりが灯ります。

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四日市(三和商店街)かつてのマーケット。商店が集まる長屋があります。

JR四日市駅の北側に、商店が集まる長屋があります。

東側に、商店街の入口があります。

明るい商店街。「三和商店街」と書かれた錆びた看板。地元の方の話によると、三和商店街は、かつてのマーケットで、商店などが集まっていたそうです。

西側の入口。

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四日市(にっかつロッポニカ)成人映画館。雑居ビルの3階。

諏訪栄町商店街と隣接する繁華街にある雑居ビルの3階に、「ロッポニカ」の看板を掲げる成人映画館があります。

成人映画2本立てです。

歴史を感じる「にっかつロッポニカ」の看板。

3階の入口まで階段を登る途中にポスターが貼られています。

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四日市(客引き禁止看板)西新地。中国語、韓国語、英語。

四日市の歓楽街は、近鉄四日市駅周辺に立地する二番街や西新地がそのの代表です。風俗店や飲食店が密集する通りには、客引き禁止看板が設置されています。

外国語(中国語、韓国語、英語)の客引き禁止看板。

歓楽街の中心的位置にある諏訪公園の前。

歓楽街の北側のはずれ(西新地4丁目)に隣接する住宅街にも客引き禁止看板が設置されています。

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四日市(貸座敷跡地)北町。旧東海道の街道筋。

今回は、四日市(三重県四日市市)の町並みと風俗を散歩します。
現在の四日市北町は、旧東海道の街道筋であった場所で、遊廓街であり活気がありました。*1

当時からの商店の建物などが、往時の街道筋の雰囲気を伝えています。

貸座敷「いろは」があったあたり。向かい側(写真左手前)には、銭湯の桜湯がありました。*1*2

三滝橋から見た北町。

【参考文献】
*1 旧四日市を語る会:旧四日市を語る第17集(旧四日市を語る会,2006)P.83-P.90
*2 旧四日市を語る会 編. 旧四日市を語る第1集(旧四日市を語る会,1991)附図

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一身田(三階建て)美しい黒塗りの板壁。かつての遊廓街の通り。

かつての遊廓街の通りに、木造三階建ての建物があります。

細い路地を入ると、3階建ての部分が現れます。

美しい黒塗りの板壁。

逆方向から見ると、三階建て部分が天守閣のようにそびえ立っているのが解ります。

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一身田(遊廓跡地)旧大勢楼。現在の一身田大古曽。

橋向の旧遊廓地帯の南側(現在の一身田大古曽)。

この付近にも水茶屋だった建物がありました。*1 現在は、駐車場になっています。

この付近には、古い町並みが残っています。

地元の方の話によると、この付近には、旧遊廓の大勢楼があったそうです。

【参考文献】
*1 津市教育委員会:一身田寺内町 町並み調査報告書(津市教育委員会,1989)P.86-P.87,P.102-P.104

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一身田(一身田遊廓跡)水茶屋だった建物。伝統的な形態を保持している民家。

寺内町一身田には、伝統的な形態を保持している民家が割合多く存在しています。

こちらの建物は、明治の初め頃、水茶屋として建築されて営業していたものを明治25年にうなぎ屋に改造したもので、現在は住居として使われています。*1

こちらの建物も元水茶屋で、(写真の奥にもう1軒の小型の家があって、2軒合わせて1棟になっています。

古い建物が連なっています。

【参考文献】
*1 津市教育委員会:一身田寺内町 町並み調査報告書(津市教育委員会,1989)P.86-P.87,P.102-P.104

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一身田(黒門)黒門の南側に遊廓街がありました。

今回は、一身田(いしんでん、三重県津市一身田町)の町並みと風俗を散歩します。
この町は、弥生時代から続く農業集落でしたが、15世紀に専修寺が建てられると、それを中心に町が発展し、16世紀には町の周囲に壕が作られ、宗教都市(一般に寺内町と呼ばれます。)の様相を呈するようになりました。壕で囲まれた町への入口は3つしかなく、橋のたもとには、それぞれ、「黒門」「赤門」「桜門」と 呼ばれる門があって、夜は閉じられて不審者の侵入を許しませんでした。壕の外には、橋向と呼ばれる遊廓地域も生まれました(案内看板より)。

3つあった門のうち、南東側にあった黒門の跡。

黒門跡にあった「橋向通」の案内看板。遊廓街があったことが説明されています。

黒門の南側が遊廓街があった橋向と呼ばれた地域でした。

参考文献

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