鬼怒川温泉(京街坂)本町行灯通りから。電柱番号札に、「京町」の名。

温泉街の中心部からやや南にはずれた場所にある「本町行灯(あんどん)通り」。

本町行灯(あんどん)通りから「京街坂」と名付けられた坂道があります。

「全国女性街ガイド」によると、鬼怒川温泉には、京町と花の町の2か所に赤線がありました。*1
電柱番号札に、「京町」の名があります。この付近に赤線があったのかもしれません。

現在の京街坂に歓楽街の面影はありません。

「全国女性街ガイド」には、「赤線は、”暴力の街”、”ヤマの女”として有名で花の町<通称ヤマという>に16軒52名。町はずれの京町に11軒27名いる。二つとも暴力的に引っ張り、最近は川のたもとまで客呼びにきているから要心。泊は宿へ呼ぶと二千円に素泊まり五百円<万事思い上がった暴利>とられるが、押しかけると千円でオンの字。情緒なし。」と紹介されています。*1
【参考文献】
*1 渡辺寛:全国女性街・ガイド(季節風書店,1955)P.103

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鬼怒川温泉(ホテル廃墟)名物のかっぱ風呂。鬼怒川の流れやロープウェイなど一望。

今回は、鬼怒川温泉(栃木県日光市)の町並みと風俗を散歩します。
鬼怒川温泉は、東武鉄道鬼怒川線の鬼怒川温泉駅から鬼怒川公園駅に至る南北約2kmの範囲にあります。滝見橋から眺めると鬼怒川の両岸にホテル街を見ることができます。

道路の東側が旅館の入口です。この付近のホテルは鬼怒川温泉の中では古く、現在は廃業しているホテルがほとんどです。

名物の「かっぱ風呂」の看板。

かっぱ風呂は、円型の大浴場で、ここからは鬼怒川の流れやロープウェイなど一望できます。

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板橋(板橋遊廓跡地)中島楼、川越楼、武蔵楼。

板橋遊廓は、商店街の中に散在していました。現在、その面影を見ることはありません。
現在の板橋三丁目のりそな銀行の東隣あたりには、中島楼がありました。*1

当時のままの建物が残されている岡部医院(板橋三丁目)の対面あたりには、川越楼がありました。*1

王子新道に近いあたりには、武蔵楼がありました。*2

現在の靴屋の「きんぱや」の付近には、宿場一と言われた旅館「伊勢孫」がありました。*3

【参考文献】
*1 上村敏彦:花街・色街・艶な街(街と暮らし社,2008)P.40-P.43
*2 日本文芸社:荷風!Vol25(2010.7) P.48-P.53
*3 日本文芸社:荷風!Vol19(2009.3) P.84-P.86

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板橋(花の湯)立派な唐破風。石像と燈籠。

板橋の仲宿通りに、銭湯の花の湯があります。唐破風が前面に押し出されているので、すぐに見つけることができます。

唐破風の右側が入口になっています。

花の湯の煙突。

待合室には、布袋様?の石像と燈籠があります。

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板橋(観明寺)柏木楼、芸妓一同が寄進した玉垣。

観明寺は、板橋の仲宿の商店街に面した場所にあるお寺です。

境内に鎮座する稲荷神社。

遊廓の柏木楼が寄進した玉垣があります。

「芸妓一同」の名が刻まれた玉垣。

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板橋(遍照寺)遊女道中の扁額。商店街沿い。

板橋仲宿にある遍照寺。入口は商店街沿いにありますが、注意して見ないと通りすぎてしまいそうです。

板橋遊廓の千代本楼の遊女道中の扁額が納められています(案内板より)。

石畳の路地がしばらく続きます。

奥にはお堂がありますが、中の様子をうかがい知ることはできません。

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板橋(紙風船)コンクリート造りの3軒長屋。

板橋(板橋)区の名前になっている橋。明治時代と変わらぬ風景。

今回は、板橋(東京都板橋区)の町並みと風俗を散歩します。
板橋旧中山道が下り坂となり、石神井川をまたぐ小橋がありますが、これが区の名前にもなっている「板橋」です。

橋の右端にある日本橋からの距離表示だけが、明治時代と変わらぬ風景です。*1

石神井川の流れ。

現在の橋は、昭和47年に架け替えられたものです。*1

【参考文献】
*1 日本文芸社:荷風!Vol19(2009.3) P.86

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黒磯(丸大横丁)新地仲町通り。ビルが1棟だけの横丁。

黒磯遊廓に通じる新地通りは、現在は新地仲町通りと呼ばれています。

新地仲町通りに、丸大横丁と呼ばれる飲食店街があります。

ビルが1棟だけの横丁です。

スナックや飲食店が入居するビルです。

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黒磯(黒磯遊廓跡地)新地仲通り。十字路のところに遊廓。

今回は、黒磯(栃木県那須塩原市)の町並みと風俗を散歩します。
黒磯遊廓は、現在の新地仲通りにありました。警察署(現在の黒磯駅前交差点)から北西方向に「新地通り」が伸び、その先の十字路のところに遊廓がありました。*1

十字路付近のみ道路の幅が広くなっている場所があります。

「黒磯町地位等級略図」*1 によると、遊廓があった交差点付近は人家の密集地帯であった四等地に区分され、「新地通り」周辺は、空地が多く人家が点在する五等地に区分されていました。

「新地」と書かれた電柱番号札。

【参考文献】
*1 黒磯市誌編さん委員会:黒磯市誌(黒磯市,1980)P.675-P.676 「黒磯町地位等級略図」

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四日市(思案橋)徳川家康に由来。JR関西線の踏み切りを越えた浜町。

JR四日市駅の北側の国道164号を東に向かって、JR関西線の踏み切りを越えた浜町に「思案橋」があります。

日本中に「思案橋」と名づけられた橋は、多々ありますが、どれも遊廓と切っても切れない関係にあります。つまり、江戸吉原の思案橋をはじめとして、一般的には各地の遊里の入口近くに見られる橋を「思案橋」と称しています。それは、「遊廓へ行こうか戻ろうか思案を重ねて、そのあげくに渡らずにおれぬことから、この名がある。」と言われています。ところが、四日市「思案橋」については、遊廓との結びつきで考えると、遊廓があった場所と橋の場所が離れすぎていて、思案して決断する場所としては、不適当と言えます。*1

四日市「思案橋」は徳川家康に由来します。天正10年(1582)6月2日未明、本能寺に滞在していた織田信長が家臣の明智光秀による襲撃を受け50歳の生涯を終えた時、堺に滞在していた徳川家康は伊賀越によって伊勢に入り、海路にて駿河に逃げ帰る折に陸路で駿河に戻るか、もしくは海を渡るか「思案」したことが、その名の由来となっています。

現在は、橋のオブジェと碑があります。

【参考文献】
*1 四日市市港地区連合自治会:思案橋記念誌(四日市市港地区連合自治会,1988)P.16-P.39

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