神楽坂(寺内公園)神楽坂花街発祥の地。

今回は、神楽坂(東京都新宿区)の町並みと風俗を散歩します。
神楽坂を登ると毘沙門天(善国寺)の斜め右側に、平安時代初期から明治の終わり頃まで続く行元寺という由緒ある寺がありました。行元寺の門前町には、岡場所があって、売女は「山猫」と呼ばれ江戸市中に知られていました。神楽坂に花柳界ができたのは、幕末に近い安政4年で、場所はこの行元寺門前町と伝えられていますが、神楽坂芸者の発祥が山猫であったかどうか詳しいことは分かりません。*1

2000年頃、行元寺跡地に超高層マンションを建設する話が持ち上がり、反対運動が起きましたが、結局マンションは計画通り完成しました。*2

この場所には、行元寺が武家地として借地していた時の路地が区道として生きていましたが、マンションの建設により、区道(路地裏)はまとめて消失し、マンション脇に新しい区道が付け替えられました。区道の付け替えで生まれたささやかな新宿区立公園を地元民たちは、行元寺にちなみ「寺内公園」と命名しました。*3

寺内公園には、その由来を記した案内板が設置されています。明治33年、寺内(じない)公園あたりに待合の「吾妻屋」が開業し、これをさかいに、寺内の貸武家地跡は置屋、料理屋、待合ができ花柳界が形成されていきました。*3

【参考文献】
*1 西村和夫:雑学神楽坂(角川学芸出版,2010)P.111-P.113
*2 松井 大輔,窪田 亜矢:日本建築学会計画系論文集(2012.10)P.2407-P.2414 「神楽坂花街における町並み景観の変容と計画的課題」
*3 渡辺功一:神楽坂がまるごとわかる本(展望社,2007)P.54-P.55,P.69,P.211-P.213

参考文献

参考記事

渋谷(恋文横丁跡)多くの女性が国籍を超えて結ばれました。

渋谷の道玄坂(東急本店へ向かう道)は、若者で賑わう通りです。

現在のヤマダ電機裏には、恋文横丁と呼ばれた路地がありました。

飲食店とヤマダ電機の建物の間が恋文横丁の入口だった場所で、「恋文横丁 此処にあり き」と書かれた木柱が設置されています。

戦後、代々木にワシントンハイツ(在日米軍施設)ができた時、渋谷の街でアメリカ兵と日本人女性が恋仲になることも少なくありませんでした。しかし、そこには、言葉の壁があり、ラブレターを書こうにも、当時の多くの日本人女性は英文が書けませんでした。そこでこの横丁にあった小さな商店主の菅谷さんという男性が代筆していました。この手紙がもとになり、多くの女性が国籍を超えて結ばれました。史実がもとになって物語ができたのは、1953年。丹波文雄が小説「恋文」を新聞に連載したことが最初でした。のちに、田中絹代監督によって映画化されたことで、話は全国に広まりました。*1

【参考文献】
*1 村松伸,東京大学生産技術研究所村松研究室:シブヤ遺産(バジリコ,2010)P.156-P.157

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参考記事

渋谷(弘法湯跡地)江戸時代の文献にも出てくる古い共同浴場。

検番(渋谷三業会館)があった円山町の坂道から神泉駅へ向か下り坂が分岐しています。
円山町の背後は急な坂道になっていて渋谷の深い谷底に続いています。かつて、そこに「新泉」という泉が湧いていました。この谷の全域がかつての火葬場で、人を葬ることを仕事とする人々が多数住み着いていました。彼らは泉の湯をわかして「弘法湯」という癒しの湯を提供していました。*1

「弘法湯」は、江戸時代の文献にも出てくる古い共同浴場で、明治18年に佐藤豊蔵という人が経営権を譲りうけ、本格的なお風呂屋として機能し始めました。佐藤家は、のちに弘法湯の近隣地に神泉館という料理旅館を開業しました。料亭ができることによって芸妓屋が開業し、それから円山の花街が広く世間に知られるようになりました。神泉館は空襲で消失し、廃業。その後は銭湯としての「弘法湯」の営業となりました。*2
火災保険地図*3 によると、この駐車場の奥のあたりに銭湯の建物がありました。

道路沿いに、「弘法大師 右 神泉湯道」と書かれた道標のような石碑が残っています。

「明治19年」と刻まれています。

【参考文献】
*1 中沢新一:アースダイバー(講談社,2005)P.64-P.65
*2 倉石忠彦:渋谷をくらす(雄山閣,2010)P.214-P.216
*3 都市整図社:火災保険特殊地図 渋谷区(3)道玄坂方面(都市整図社,1955-1958)

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渋谷(芸妓置屋跡)玄関先に庭園。円山町のラブホテル街。

かつて花街であった円山町一帯は、現在はラブホテル街となっていて古い建物はほとんど残っていません。

ラビホテル街に、唯一1軒だけ当時の頃からの建物と思われる民家があります。

風情のある木造建物です。
火災保険地図*1 に「春富久井」という屋号が記載されている場所に残る建物。

玄関先には、庭園があります。

【参考文献】
*1 都市整図社:火災保険特殊地図 渋谷区(3)道玄坂方面(都市整図社,1955-1958)

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渋谷(検番(渋谷三業会館)跡地)現在はマンションが建っています。

渋谷の道元坂上付近は、かつては置屋や料亭が建ち並ぶ花街でした。花街の中心となる検番は、道玄坂上の路地を入った場所にありました。
写真の右手前は、戦後からあった氷屋さんです。*1

検番(渋谷三業会館)があった場所には、現在はマンションが建っています。*1

その隣の松木屋は、当時から営業している割烹料亭です。*1

花街らしい雰囲気が残る「万安」。

*1 都市整図社:火災保険特殊地図 渋谷区(3)道玄坂方面(都市整図社,1955-1958)

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渋谷(風俗案内所)道玄坂付近に多く密集。

道玄坂の周辺には、ここ数年で多くの風俗案内所ができました。特に道玄坂小路周辺に密集しています。

1階には、出会いカフェが併設されています。

渋谷最大の案内所。

ビルの地下の案内所。

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渋谷(道玄坂小路)飲食店や風俗店が密集。

文化村通りから道玄坂に抜ける「道玄坂小路」には飲食店や風俗店が密集しています。

老舗の台湾料理店「麗郷」。ここから登る坂道の途中にもヘルス店がありあす。

「麗郷」脇の坂道を登ると老舗のヘルス店の入口があります。

坂の上から見たところ、写真の左手前がヘルス店の入口です。

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渋谷(閉園した屋上遊園地)東急東横店東館。

今回は、渋谷(東京都渋谷区)の町並みと風俗を散歩します。
戦後も落ち着きを見せ始めた昭和26年、東横百貨店屋上(現在の東館、写真左)と現在の西館(写真右)の位置にあった玉電ビル(当時4階建て)の屋上との間に、都会では珍しいロープウェイが出現しました。「ひばり」号と名付けられたこのロープウェイは、もともとは東横百貨店屋上の遊園地の遊戯物の一つで、子供たちには大変な人気でした。「ひばり号」は、認可がおりるまでに時間を要したため、開業時には、玉電ビルの所に新館(現在の西館)を建設することが決まっていたたため、昭和28年に運休し、短命に終わってしまいました。*1

それから60年が経過した現在、渋谷駅周辺は大規模な都市開発が進行しています。渋谷ヒカリエからは、東急百貨店東館の屋上遊園地が見えます。東館が閉館する3月31日、屋上遊園地も閉園となりました。

閉園した屋上遊園地(アスレチック広場「わんぱく島」のあたり)。

屋上遊園地「ちびっ子プレイランド」の様子(最終日の3月31日に撮影)。写真手前は、レール走行乗り物遊具の「機関車トーマス」。

【参考文献】
*1 宮田道一,林順信:鉄道と街・渋谷駅(大正出版,1985)P.138-P.139

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滝野(社町の琺瑯看板)冷暖房完備のホテル。塩田温泉。

加古川線、滝野の隣の社駅近くの道路沿い。社町の市街地からは3kmぐらい離れた場所です。

道路沿いに琺瑯看板がたくさん取り付けられた木造母屋があります。

加西市和泉町のホテルの看板。冷暖房完備が一般的でなかった頃のホテルのPRだと思われます。

塩田温泉(姫路)の看板もあります。

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滝野(花街跡地)名勝「闘竜灘」。江戸期・大正期は、加古川舟運で栄えた町。

今回は、滝野(兵庫県加東市)の町並みと風俗を散歩します。
滝野は、JR加古川線で加古川から約40分の場所にあって、江戸期・大正期は、加古川舟運で栄えた町です。

旧道沿いのこの付近には、芸妓置屋がありました。*1

近年まで割烹旅館として営業していた水月楼の建物。

近くには、名勝「闘竜灘」があります。

【参考文献】
*1 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)兵庫県No.167 瀧野町

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