宮津~伊根(四軒町)花街時代の面影が残っています。

新浜通りの和風スナックのトンネル路地(ろーじ)。四軒町と呼ばれています。

入口を逆方向から見たところ。

宮津ぴんと館は、当時の建物が再現されています。

木格子窓に当時の面影が残っています。*1*2

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.98-P.99
【参考URL】
*2 丹後広域観光キャンペーン協議会:のんびりぶらぶらホームページ 宮津市街地

参考文献

参考記事

宮津~伊根(新浜通り)千本格子の花街の風情が残る通り。

新浜通りは、千本格子の花街の風情が今も残る通りです。
「全国女性街ガイド」*1 によると、新浜の遊廓は(京都の)島原遊廓そのままの遊廓であったと描写されています。

花街のメインストリート。*2

古い建物が軒をつらねます。*2

このあたりには、検番(新浜歌舞練場)がありました。

【参考文献】
*1 渡辺寛:全国女性街・ガイド(季節風書店)P.176
*2 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.98-P.99

参考文献

参考記事

宮津~伊根(宮津節の碑)縞の財布が空となる。海からも陸からも多くの遊客。

今回は、宮津(京都府宮津市)の町並みと風俗を散歩します。
「丹後の宮津」は、日本三景の「天橋立(あまのはしだて)」にむすばれ、情緒の港町ともいわれました。また、色町のさかんであることも有名で、天保13年(1842年)に魚屋町海岸に「新浜廓」をひらいたことから、一段と幕末の「丹後の宮津」を売り出し、当時流行の「縞の財布」の底をはたこうと、海からも陸からも多くの遊客が集まりました。*1

宮津桟橋近くの国道176号線沿いに、宮津節の碑があります。
♪二度と行こまい丹後の宮津
♪縞の財布が空となる
♪丹後の宮津でピンとだした

宮津節の碑のある場所のすぐ隣の波止場児童遊園に「見返り柳」があります。

当時を偲ぶよすがとなっています。

【参考文献】
*1 岩崎英精:丹後の宮津(天橋立観光協会,1963)P.4-P.5

参考文献

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新富町(正金アパート)昭和の初期からあるアパート。

新富一丁目の新大橋通り沿いに、正金アパートがあります。

昭和の初期からあるアパートです。*1

玄関付近。

1階には、飲食店がはいっています。

*1 中央区火災保険特殊地図(戦後)新富町方面(1950,都市整図社)

参考文献

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新富町(路地)昔ながらの路地。飲食店の看板。

新富町には、昔ながらの路地が残されています(新富一丁目)。

鰻屋のある路地の入口。以前はこの付近に待合がありました。*1

飲食店の看板のある路地。

風情のある木造母屋。

【参考文献】
*1 中央区火災保険特殊地図(戦後)新富町方面(1950,都市整図社)

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新富町(花街跡)新富座の開業とともに芸妓、置屋が増加。

新島原遊廓が廃止となった後もこの地に踏みとどまる芸妓や置屋があり、引手茶屋で残った者たちは旅館を開業したので芸妓の出先となりました。やがて新富座の開業とともに芸妓、置屋が増え、花街は脚光を浴びました。*1

現在も花街時代の名残の料亭「躍金楼(てっきんろう)」が営業中です。

料亭「松し満 」。

見番があったあたり。*2

【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.111
*2 中央区火災保険特殊地図(戦後)新富町方面(1950,都市整図社)

参考文献

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新富町(新島原遊廓跡地)外国人のための遊廓。

今回は、新富町(東京都中央区)の町並みと風俗を散歩します。
新富町の地名の由来は、明治維新後、この地に出来た新島原遊廓が3年後に廃止となった後、西側にあった大富町に対して名付けられました。*1

新島原遊廓は、明治維新後、築地の外国人居留地の中に作られた「外国人のための遊廓」で、3年ほどの短い命でした。「新島原」の名は、京都の島原遊廓に由来しています。*2

新富町にある東京都中央都税事務所は、芝居小屋の新富座があった場所です。新島原遊廓が引き払って、町名が新富町と改められた後も「新島原」の名は後年まで俗称として使われました。新富座の芝居は、島原の芝居と呼ばれ、島原へ行くと言えば新富座へ行くことでした。*3

新富座の全盛時には、五丁目に市川左団次、七丁目に尾上菊五郎、坂東彦三郎、中村芝翫(しかん)が住んでいました。*4

【参考文献】
*1 竹内誠:東京の地名由来辞典(東京堂出版,2006)P.204-P.205
*2 塩見鮮一郎:吉原という異界(現代書館,2008)P.189
*3 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.111
*4 北村一夫:江戸東京地名辞典(講談社,2008)P.288-P.289

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笠間(第一御神燈)新吉原京壱、吉六。笠間簡易裁判所近。

笠間駅近くに、笠間稲荷神社の御神燈があります。地震で崩壊してしまったのでしょうか。台座だけが残っています。場所は、笠間簡易裁判所近くのさくらガス(株)の隣の敷地です。

「第一御神燈」と書かれた台座には、寄進者の名が刻まれています。

新吉原京壱、吉六と刻まれています。

吉原、土手、いろは、と読み取れます。

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笠間(笠間稲荷神社の奉納額)吉原講。五拾軒、仲の町、の茶屋の名前。

笠間稲荷神社の講(こう=同一の信仰を持つ人々による結社)は、江戸時代から盛んでした。講は、いずれも商売繁盛を主な信仰としたもので、明治時代になるとさらに発展し、講の周期が満期となったり祈願成就すると額を奉納する場合もありました。*1
境内の絵馬殿に、これらの奉納額が納められています。

「吉原講」の奉納額

五拾軒、仲の町、の茶屋の名前が確認できます。

別の場所にあった向島の関係者の奉納額。

【参考文献】
*1 笠間市史編さん委員会:図説笠間市史(笠間市,1988)P.165

参考文献

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笠間(荒町の飲み屋街)古びた看板が連なり、場末感が漂います。

笠間稲荷神社のある町の中心部から南西方向に離れた場所に飲み屋街が密集する一画があります。
この付近は、旧町名で「荒町」と呼ばれていました。*1
古びた看板が連なり、場末感が漂います。

個性ある装飾の店舗が並んでいます。

飲み屋街の中心部。両側に平屋建ての飲み屋街が続きます。

西側の通り。

【参考文献】
*1 郵政省:笠間局郵便区全図(郵政省,1951)

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