吉祥寺(のれん小路)かつては小さな飲み屋が連なっていた横丁。

ハモニカ横丁は、右から「仲見世通り商店街」「中央通り商店街」「朝日通り商店街」と続き、最後に通りのサインのない「祥和会」と続きます。ただし、この「祥和会」の一部は、かつては小さな飲み屋が連なっていた横丁だったことから、「のれん小路」と称して、今のそのサインは残されたままです。*1

「のれん小路」の飲み屋連店は、新宿東口の和田組マーケットの建て方を参考にしているように見受けられます。間口一間、奥行1.5間の簡易なバラックは、L字型のカウンターの中におかみさんやご主人が一人入り、客は4~5人程度が座るサイズでした。*1

飲み屋が連なっていた頃の雰囲気が残っています。

「のれん小路」 と中央の通りが交差するあたり。

【参考文献】
*1 桑原才介:吉祥寺横丁の逆襲(言視舎,2011)P.35-P.36

参考文献

参考記事

吉祥寺(ハモニカ横丁)終戦直後の闇市の姿。

吉祥寺駅前のハモニカ横丁は、終戦直後の闇市の姿がそのまま残っている横丁です。

漬物屋の清水屋がある通り。

鮮魚店もあります。

ハモニカ横丁の周囲を高いビルが取り囲んでいます。

参考文献

参考記事

吉祥寺(客引き禁止看板)ピンクゾーンに近接した図書館。

「近鉄裏」がピンクゾーンというレッテルを貼られるのは、近鉄百貨店ができた1974年頃からで、たった1年間の間にピンクサロンが50軒ほど出現し、呼び込みが道をふさぎました。やがてその存在はl世界中に発信されるようになり、成田から「近鉄裏」に直行する外国人も増え、「近鉄裏」は世界のアンダーワルドの一つに数えられるようになりました*1

このような状況に対処するため、行政側では武蔵野市の土屋市長が先頭に立ち、ピンクゾーンに近接した所に図書館を設ける計画が実行されました。図書館から200メートルの範囲では、風俗営業ができないためです。*1

図書館のある通りには、客引き禁止の看板が建てられいます。

飲食店脇の客引き禁止看板。

【参考文献】
*1 桑原才介:吉祥寺横丁の逆襲(言視舎,2011)P.91,P.101

参考文献

参考記事

吉祥寺(よろづ湯)近鉄百貨店東側の銭湯。

近鉄百貨店(現在のヨドバシカメラ)の東側は、いわゆる「近鉄裏」と呼ばれるピンク街でした。

現在、近鉄裏のピンク街があった場所のほとんどは空地となり、銭湯の「よろづ湯」だけがぽつんと1軒営業中です。

昭和の雰囲気を今に伝える銭湯です。

高いビルに囲まれた銭湯の煙突。

参考文献

参考記事

この記事を参照している記事

吉祥寺(弁天湯)磨りガラスで描かれた裸婦。

吉祥寺(本町ビル飲食店街)1階部分に通路をとった飲み屋横丁。

吉祥寺の近鉄百貨店(現在のヨドバシカメラ)裏には、1960年代の再開発以前の時期から社交飲食店が集積していました。その姿は、「本町ビル飲食店街」という飲み屋横丁にみることができます。、「本町ビル飲食店街」の看板の下には、ビルの1階部分に通路をとった横丁が続いています。*1

奥行のある飲み屋横丁。

横丁の向こう側には、小路をはさんでさらに次のビルも同じように横丁が続いています。

向こう側のビルから本町ビル飲食店街を見たところ。
建物と建物を貫通してできた20世紀初頭のパリのパサージュ(路地)と仕組みは同じです。*1

【参考文献】
*1 桑原才介:吉祥寺横丁の逆襲(言視舎,2011)P.82-P.94

参考文献

参考記事

忠海(忠海遊廓跡地)「川下」の名の残る電柱番号札。

忠海村向町(現在の竹原市忠海中町2-4)にあった貸座敷は、忠海港に隣接する海岸脇の川下(かわしも)地区へ移転しました。

元旅館の建物。裏側から見ると大きさが実感できます。

海寄りの長屋の建物。

「川下」の名の残る電柱番号札。

参考文献

参考記事

忠海(旧向町の商店街)貸座敷営業許可地。

今回は、忠海(広島県竹原市)の町並みと風俗を散歩します。
忠海は、竹原市の東に位置し、瀬戸内海を結ぶ重要な港として発展しました。忠海駅前には、江戸時代の面影を残す商家が残っています。

明治17年示達の貸座敷営業許可地に、忠海村向町(現在の竹原市忠海中町2-4)が指定されましたが、街中であったため、川下地区へ移転となりました。

旅館の建物。

スナックが1軒あります。

参考文献

参考記事

呉(朝日遊廓跡地)日清・日露戦争後に発展しました。

明治30年、市街地の北部に後の朝日遊廓に発展する貸座敷の免許地指定されました。朝日遊廓の初期の営業者数は、12軒でしたが、日清・日露戦争後の明治43年には58軒と、十数年で5倍近くに増加しました。*1
写真のこのあたりには、遊廓の表門がありました。*2*3

裏門があったあたり。*2*3

遊廓の中心部。現在は病院が建っています。

遊廓の西側の通り。*2*3

【参考文献】
*1 加藤政洋:(朝日新聞社,2005)P.36-P.42
*2 呉市史編さん室:呉・戦災と復興(呉市,1997)付図「呉市街地復元図(昭和16年当時)」
*3 池田幸重:呉案内記(田島商店,1907)P.104

参考文献

参考記事

呉(有楽街)スナックやキャバレーが密集する歓楽街。

中通の歓楽街は、れんが通りと直行する数本の細街路で形成されています。麗女通の北東側には「有楽街」と名付けられたエリアがあって、ここにはスナックやキャバレーが密集しています。

今では珍しくなったグランドキャバレー。

夜になると艶めかしい雰囲気になります。

夜の有楽街。

参考文献

参考記事

呉(麗女通り)軍港内にあった麗女(うるめ)島にちなんで名付けられました。

今回は、呉(広島県呉市)の町並みと風俗を散歩します。
呉市は、明治後期を通じて軍港を有する都市としての性格を強めつつ都市化が進みました。「麗女通」と名付けられた通りは、「夜の歓楽郷」と呼ばれた「中通」のなかでも「カフェー喫茶店街」を形づくっていた通りで、作家の菊池寛が遊んだことでも知られています。*1

「麗女通」は「うるめどおり」と読みます。
軍港内にあった麗女(うるめ)島にちなんで名付けられました。1
麗女(うるめ)島は、神話に登場する市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、紫式部(源氏物語の著者)、弁天様(七福神の一つで海辺や水辺にまつられる美しい女神)などのうるわしい女性がかかわり持った島で、このことが、「うるめ島」の地名の由来であるとされています。
2
現在は、海上保安大学校の沖合に、大麗女島と小麗女島があります。

現在の麗女通は風俗店や飲食店が密集する歓楽街の中心地になっています。

麗女通はれんが通りと交差し、東側へ続いています。

【参考文献】
*1 加藤政洋:(朝日新聞社,2005)P.36-P.42
*2 久保田利數:川原石ものがたり(呉尚古の会,1972)P.1-P.10

参考文献

参考記事