棚尾(花街跡)料理屋や旅館などが集まる繁華街でした。

今回は、棚尾(愛知県碧南市)の町並みと風俗を散歩します。
名鉄三河線の碧南駅の南東の棚尾の本通りから南へ一歩入った通りから八柱神社の北側周辺は、かつては料理屋や旅館などが集まる繁華街でした。

棚尾本通りに面した「太郎吉饅頭屋」の向かい側には、料理旅館の「大坂屋」がありました。

「太郎吉饅頭屋」手前の道を左折したあたりには、銭湯の「栄湯」がありました。

「栄湯」の前の路地を一本入ったところに「芸奴組合」がありました。

【参考文献】
*1 日本住宅地図出版:碧南市・高浜市(日本住宅地図出版,1977)P.73-P.74

参考文献

参考記事

衣浦(成人向け雑誌自販機)18歳未満の方お断り。

新川町駅前の商店の脇に、古い自動販売機があります。

ボタンで商品を選ぶ方式です。

週刊誌の自動販売機。

「18歳未満の方は、この雑誌を読むことはできません。」と書かれていることから、成人向けの週刊誌が販売されていた自販機であると考えられます。

参考文献

参考記事

衣浦(長屋の大衆食堂)ユニークな看板建築。

名鉄三河線の新川町駅前の商店街に、飲食店が入る長屋の建物があります。

大衆食堂の建物。

物干し台のような形状のユニークな看板建築です。

丼物一式、うどん、そば。

参考文献

参考記事

衣浦(ラブホテル)旧湯本本館跡地。階段の左側。

崖上にある吉文旅館から下るコンクリート階段の左側は、湯本旅館があった場所です。

現在、この場所には大きなラブホテルがあります。

かつての絶景の地「衣浦温泉」は、住宅とラブホテルが混在する町並みに変貌しています。

建物の裏側(崖上側)。こちらにもホテルの入口があります。

参考文献

参考記事

衣浦(旅館「吉文」跡)青色のタイルの円柱。

崖上から旅館「吉文」跡の建物を眺めます。建物の裏側に装飾はなく、黒塗りの板壁がむき出しの状態です。

側面の壁に「吉文」の「吉」と思われる文字が確認できます。

周囲の電柱の番号札には、「吉文」と書かれています。施設の名前(屋号)が電柱番号札に記載されるのは、珍しいケースです。

建物裏側にある青いタイルの円柱。

参考文献

参考記事

衣浦(旅館「吉文」跡)鱗のようなガラス窓。

旧海岸線であった低地から登るコンクリートの階段。その崖の上に、旅館「吉文」の建物が残っています。
古い住宅地図1 によると、旅館「吉文」は、湯本旅館の南隣とこの場所の2か所に記載があります。片方が本館で片方が別館だったのかもしれません。
料理旅館「吉文」は、昭和29年12月に開業しました。
2

旅館の東側の端に円筒状の部分を持つ特異な建造物です。

鱗のようなガラス窓の並びは当時としては、奇抜なデザインだったに違いありません。

建物は、崖の上に南向きに建っています。

【参考文献】
*1 善隣出版社:碧南市・高浜市(善隣出版社,1971)P.14
*2 碧南市史編纂委員会:碧南市史(碧南市,1974)P.952

参考文献

参考記事

衣浦(旧「八千草」)旅館だった建物。

衣浦温泉の旧旅館街には、昔の面影が残る建物がいくつかあります。

旧「八千草」。旅館だった建物です。

南西方向から見た外観。

2階部分は、窓が二段になっています。

参考文献

参考記事

衣浦(温泉街の痕跡)現在も残る「衣浦温泉組合」の行灯。

今回は、衣浦(愛知県碧南市)の町並みと風俗を散歩します。
第二次世界大戦の頃、山神町に、東端の海軍航空隊兵士の慰安所設置が要望され、昭和19年に15業者によって、特殊飲食店街が作られ、一時は、市内の一大歓楽街でした。終戦後の昭和29年頃から料理旅館への転業を計画した業者たちが昭和30年に温泉開発を計画してボーリングを行いました。昭和31年に温泉が認可され、温泉街として再スタートしました。当時は、湯本本館が各旅館に配湯していましたが、昭和60頃には湯量も減り、配湯は中止となりました。*1

現在も「衣浦温泉組合」と書かれた行灯が残り、温泉街の名残が見られます。

「寸楽」という屋号が書かれた行灯。

衣浦温泉の名が残る駐車場の看板。

【参考文献】
*1 碧南事典編さん会:碧南事典(碧南市,1993)P.81-P.82

参考文献

参考記事

余市~積丹(女郎小岩)女性の姿・形によく似た岩。

「島武意海岸入口」のバス停で下車し、駐車場があるところから分岐する「積丹岬自然遊歩道」を歩きます。

積丹出岬灯台まで、0.3Km、今回の目的地である「女郎小岩」までは、1.9Kmです。

積丹出岬灯台を過ぎると、道は本格的な登山道となり、「熊出没注意」の看板などもあって、緊張が走ります。

約1時間ほどで、「女郎小岩」に到着。
今回、「女郎」→「遊女」というインスピレーションで散歩しましたが、「女郎小岩」は、遊女とは関係が無く、北海道各地に伝わる義経伝説(奥州、平泉で討たれて亡くなったはずの義経が実は生き延びており、蝦夷地へ逃れ、更に大陸へ渡りチンギス・ハーンに成ったというお話)の中の一つ「シララ姫の悲恋物語」に基づくものです。「女郎小岩」は、シララ姫の化身と信じられ、義経を恋い慕うかのように立っています。
女性の姿・形によく似た岩です。写真左下の船と比べると、かなり大きな岩であることがわかります。

参考文献

参考記事

余市~積丹(神威岬)女人禁制。昔から海の難所。

積丹半島の神威岬周辺は、昔から海の難所とされていて、女人を乗せた船の通行が禁じられていました。*1

開拓時代の北海道において、出稼人の多く集まるところに、それを相手とする遊里が生まれるのは常で、松前、江差をはじめ各漁場には、娘子軍(遊女)が集まり、性の安売りが開始されていました。ところが、小樽においては例外で、漁場に次第に滞在者が多くなっても、久しく娘子軍(遊女)が姿を見せませんでした。これには、「神威岬から北へ(小樽も含まれる)女人が渡れなかったこと。=女人禁制という歴史の壁」が原因していたと考えられています。*2

神威岬の突端までは遊歩道が整備されています。

神威岬の先にある「神威岩」。その特異な形から、チャレンカの化身と言われています。

【参考文献】
*1 野中長平:風土記稚内百年史(野中長平,1977)P.47-P.48
*2 小寺平吉:北海道遊里史考(北書房,1974)P.123-P.125

参考文献

参考記事