安浦(あずま通り)入口のアーチは無くなっています。

旧カフェー街のメインの通りだったあずま通りの入口。ここには、数年前まで飲み屋街の入口を示すアーチがありました。*1

現在アーチは、撤去されていますが、電柱のすぐ後ろにアーチのものと思われる支柱の跡が残っています。

現在は、住宅街となっていますが、1軒だけ歓楽街の痕跡と思われるスナックがあります。看板には、「AMERICAMS WELCOME」と書かれています。

カフェー街の東端。もう一つのアーチがあったと思われる場所から。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,2007)P.73

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安浦(安浦神社)玉垣にカフェーの屋号。

今回は、安浦(神奈川県横須賀市安浦町)の町並みと風俗を散歩します。

安浦神社を取り囲む玉垣。この玉垣に、かつての安浦のカフェーの屋号が刻まれています。

「甲子」、「日吉家」、「花の家」、「八千草」は、いずれも「特殊風俗業態(安浦カフェー街)分布図」*1 で確認できる屋号です。

「水明」はカフェー街の中ほどの海寄りの場所に、「蝶々」は北西端にありました。*1

【参考文献】
*1 横須賀警察署史発行委員会:横須賀警察署史(横須賀警察署,1977)P.121-P.150
「特殊風俗業態(安浦カフェー街)分布図」(P.123)をみると、北西側から南東側に向かって、蝶々、朝日、信濃家、久喜、みさき、みそら、田丸家、立花家、初音、浦島、岡本、浜の家、紅葉、みどり、吉野家、水明、甲子、羽衣、小島家、竹吉、千久代、川栄、松竹、花の家、菊の家、岡島家、春の家、八千草、笹本、富久実、清月、新駒、日吉家、双葉、武本、利久、三松、一松、みその、川柳、高砂、三浦家、花月、などの屋号が確認できます。

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吉野町(三業組合跡)隣に料亭「鈴本」。

日本橋花街の南側のエリア(現在の二葉町2丁目付近)にも料亭や置屋が密集していました。1957年の住宅地図を見ると、レストラン「モリヤ」は当時からこの場所で営業しており、その隣には、日本橋三業組合兼日本橋芸妓学校がありました。さらにその隣には、料亭「鈴本」があって、現在は屋号を受け継いだ鈴本ビル(写真右奥の工事中の建物)が建っています。*1

「日本橋三業組合」と思われる建物。

周囲は、マンションなどに建て替わっていますが、1軒だけ当時のままで残っています。

当時の様子が偲ばれます。

【参考文献】
*1 経済地図社:南区明細地図(経済地図社,1957)P.24

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吉野町(日本橋花街跡地)アーチがあった場所

今回は、吉野町(神奈川県横浜市南区)の町並みと風俗を散歩します。
現在の吉野町二丁目交差点に、花街だった頃の遺構と言える「日本橋」と書かれた花街の入口を示すアーチがありました(現在は、撤去されています)。*1
日本橋花街は、大正初年頃から市内各所に増えだした横浜の花街の一つでした。*2

「赤線跡を歩く」*1 に写真が掲載されていた旅館「明美」の建物はなくなり、現在は駐車場になっています。

料亭「みどり」があった付近。*3

「料理店」のプレート。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.71
*2 横浜市:横浜市史稿(臨川書店,1985)P.545
*3 経済地図社:南区明細地図(経済地図社,1957)P.22-P.24

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神楽坂(くらら劇場)ギンレイ劇場の建物の西側。

神楽坂の東隣。軽子坂(かるこざか)の坂の下にあるギンレイ劇場。

ギンレイ劇場の建物の西側は成人映画館の「くらら劇場」になっています。

入口へは、階段で地下1階に降ります。

近日上映のご案内。

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神楽坂(熱海湯)緑に囲まれた玄関。駐車場の奥に銭湯。

神楽坂の見番通りに面した駐車場の奥に銭湯の煙突が見えます。

路地の階段を下っていくと、銭湯の熱海湯があります。

緑に囲まれた玄関。

堂々とした木造建築です。

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神楽坂(兵庫横丁)「男はつらいよ」シリーズのシナリオ執筆場所。

神楽坂の魅力は、石畳と黒塀にあります。兵庫横丁は、神楽坂情緒を醸し出す通りです。

旅館「和可菜」。山田洋次監督の「男はつらいよ」シリーズのシナリオ執筆場所として知られる、往年の名女優小暮実千代が経営していた旅館です。

現在でも芸者さんが出てきそうな路地です。

人がすれ違うのがやっとという石畳の階段。

【参考文献】
*1 西村和夫:雑学神楽坂(角川学芸出版角川出版企画センター ,2010)P.202

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神楽坂(稲荷神社)当時の栄華が偲ばれます。

神楽坂通り(早稲田通り)から見番横丁へ向かう通りの途中に伏見火伏稲荷があります。このあたりは、本多横丁界隈の牛込花柳街とともに、毘沙門天裏の神楽坂花柳街として賑わいを見せていた地域です。

現在も、賽銭と花、そして油揚げが供えられています。

玉垣の料亭や芸者置屋、待合の名前に、当時の栄華が偲ばれます。

田中角栄元首相がいくつかのエピソードを残した料亭「松ヶ枝」の名が彫られた玉垣があります。

参考文献

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神楽坂(見番横丁)昭和24年に東京神楽坂組合に統合。

神楽坂通り(早稲田通り)から、南側に路地を入ったところに、見番横丁があります。

神楽坂の三業組合は、新検(牛込三業会)と旧検(神楽坂検番)に分かれていました。両検番は戦後に統合して、昭和24年(1949年)に東京神楽坂組合となりました。*1

東京神楽坂組合の建物。

かつては、この道の両側に置屋や料理屋が建ち並んでいました。

【参考文献】
*1 渡辺功一:神楽坂がまるごとわかる本(展望社,2007)P.68

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神楽坂(寺内公園)神楽坂花街発祥の地。

今回は、神楽坂(東京都新宿区)の町並みと風俗を散歩します。
神楽坂を登ると毘沙門天(善国寺)の斜め右側に、平安時代初期から明治の終わり頃まで続く行元寺という由緒ある寺がありました。行元寺の門前町には、岡場所があって、売女は「山猫」と呼ばれ江戸市中に知られていました。神楽坂に花柳界ができたのは、幕末に近い安政4年で、場所はこの行元寺門前町と伝えられていますが、神楽坂芸者の発祥が山猫であったかどうか詳しいことは分かりません。*1

2000年頃、行元寺跡地に超高層マンションを建設する話が持ち上がり、反対運動が起きましたが、結局マンションは計画通り完成しました。*2

この場所には、行元寺が武家地として借地していた時の路地が区道として生きていましたが、マンションの建設により、区道(路地裏)はまとめて消失し、マンション脇に新しい区道が付け替えられました。区道の付け替えで生まれたささやかな新宿区立公園を地元民たちは、行元寺にちなみ「寺内公園」と命名しました。*3

寺内公園には、その由来を記した案内板が設置されています。明治33年、寺内(じない)公園あたりに待合の「吾妻屋」が開業し、これをさかいに、寺内の貸武家地跡は置屋、料理屋、待合ができ花柳界が形成されていきました。*3

【参考文献】
*1 西村和夫:雑学神楽坂(角川学芸出版,2010)P.111-P.113
*2 松井 大輔,窪田 亜矢:日本建築学会計画系論文集(2012.10)P.2407-P.2414 「神楽坂花街における町並み景観の変容と計画的課題」
*3 渡辺功一:神楽坂がまるごとわかる本(展望社,2007)P.54-P.55,P.69,P.211-P.213

参考文献

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