網走神社の境内社である網走護国神社。

網走護国神社の敷地の中に中川稲荷があります。

中川稲荷は、網走の女傑、中川イセに因んだ稲荷です。
中川イセは、1901年(明治34年)山形県天童市生まれで、網走の遊廓「金松楼」にいましたが、戦後、網走市議に当選し、その後連続7回当選。網走監獄保存財団理事長を務めました。*1

現在でも山形県人会の人たちが参拝されているようです。

【参考文献】
*1 山谷一郎:岬を駈ける女(はたもと出版,1992)P.270
網走神社の境内社である網走護国神社。

網走護国神社の敷地の中に中川稲荷があります。

中川稲荷は、網走の女傑、中川イセに因んだ稲荷です。
中川イセは、1901年(明治34年)山形県天童市生まれで、網走の遊廓「金松楼」にいましたが、戦後、網走市議に当選し、その後連続7回当選。網走監獄保存財団理事長を務めました。*1

現在でも山形県人会の人たちが参拝されているようです。

【参考文献】
*1 山谷一郎:岬を駈ける女(はたもと出版,1992)P.270
網走市街の南四条。銭湯の一ノ湯があります。

昭和3年の「網走市街明細図」*1 にも記載されている銭湯です。
立派なビル型の銭湯ですが、現在は休業中です。

入口は、男湯と女湯で分かれています。

コンクリート製の四角い煙突。

【参考文献】
*1 昭和3年(1928)発行の『網走市街明細図』(復刻版)
道路沿いに残る古い飲み屋街。

「男専ロマン書房」。大人向けの書店のようです。

建物の裏側は空地になっています。

「ロマン書房」の看板。ロの字は、ハートマークでデザインされています。大人のおもちゃやアダルトビデオも取り扱っている模様です。

網走市南五条西に、楽天地と呼ばれる飲食ビルがあります。

横丁の奥には、「楽天地組合」と書かれた看板があります。

夜の様子。

スナック、居酒屋がびっしり。

夜になると、網走の歓楽街は、賑わいを見せます。

ネオン看板が煌々と輝きます。

魅惑的な店構え。

レトロなスナック店もあります。

網走に遊廓ができたのは明治25年頃で、当時の網走村の人口は、わずかに600人。それが遊廓ができることによって、2年後には人口1700人に増えました。網走に遊廓ができた理由は、網走刑務所という国家機関ができたことによって、先行き必ず発展するであろうという思惑があったことの他に、刑期を終えて監獄から放免された者が、町に入って婦女子に対しの性犯罪を防止する、防波堤として認可されたという説もありました。*1

「網走市街明細図」によると、網走遊廓は、現在の網走市南三条西にありました。

この付近(写真左の交差点の角)には、金松楼がありました。*2

越中楼があったあたり(写真左奥)。*2

今回は、網走(北海道網走市)の町並みと風俗を散歩します。
網走駅の駅名看板は、横書き駅名表示が多い中で、あえて縦書き表示になっています。旧国鉄時代、網走刑務所で刑を終えた元受刑者のほとんどが、この網走駅から列車で故郷等を向かいました。「この縦書き看板のように横道にそれることなく、まっすぐに歩んで生きていって欲しい。」という願いが込められて縦書きになっていると伝えられています(駅の案内板より)。

駅前に白ポストが設置されています。

珍しい丸い屋根の白ポスト。

台座部分は、独特の造りになっています。

築港寄せ場は、1950年代初頭に形成されはじめました。寄せ場とは、路上労働市場(タチンボ)とそれを取り囲む日雇い労働者相手の簡易宿や食堂などからなる空間のことです。*1

このあたりに、築港寄せ場がありました。*1
現在は、それらしい施設は見あたりません。

信号より手前で港湾労働者の手配が、信号より奥で土木・建設労働者の手配がそれぞれ行われていました。*1

「タチンボ」付近。*1
現在は、コンビニの駐車場になっています。

*1 島村恭則:〈生きる方法〉の民俗誌(関西学院大学出版会,2010)P.227-P.239
大浜三丁目の住宅街。

駐車場裏に、タイルで装飾された小さな2階建ての建物があります。

美しい茶色のタイル。

統一感のある落ち着いた色調です。

大浜には、タイルで装飾された建物が数多く残っています。

1階部分には、色鮮やかなタイルの装飾が施されています。

建物の角に張り出したオブジェ。*1

玄関前の美しいタイルの装飾。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.36