尾久から田端駅へ向かう途中(東田端1丁目)に東灌森稲荷神社(とうかんもりいなりじんじゃ)があります。
案内板によると、手水台は、新吉原の関係者が奉納したもので、手水台の裏面に寄進者の名前がきざまれているそうです。

鳥居の柱部分には、「新吉原江戸町壹丁目 尾張屋彦太郎」と刻まれています。

手水台の裏面を見ると、「新吉原仲町…」と書かれているのが、かろうじて判読できます。

玉垣に田端のカフエーの名があります。

尾久から田端駅へ向かう途中(東田端1丁目)に東灌森稲荷神社(とうかんもりいなりじんじゃ)があります。
案内板によると、手水台は、新吉原の関係者が奉納したもので、手水台の裏面に寄進者の名前がきざまれているそうです。

鳥居の柱部分には、「新吉原江戸町壹丁目 尾張屋彦太郎」と刻まれています。

手水台の裏面を見ると、「新吉原仲町…」と書かれているのが、かろうじて判読できます。

玉垣に田端のカフエーの名があります。

尾久は質屋が多い街です。

こちらの質屋さんは、高い塀で囲まれいます。

塀に書かれた質屋の名。

表通りには、人目を引く大きな看板があります。

かつて待合などがあったあたりは、現在は住宅地になっていますが、ところどころにスナックの建物があって、花街の風情がわずかに感じられます。

寿司屋とカラオケスナック。昭和の雰囲気が残っています。

商店街にある「喫茶&スナック」。

演歌歌手のポスターが所狭しと貼られています。

尾久の東京女子医科大学く。周囲は、商店街と住宅地です。

このあたりは、尾久三業の待合などがあったエリアです。

待合の「満佐喜」があったあたり。阿部定事件の舞台となった場所です。阿部定事件とは、昭和11年、阿部定という31歳の女性が、待合「満佐喜」で男と一週間もいつづけた末にその男を絞殺し、さらに、その股間のイチモツを根元から切り落として懐に携え逃亡したという事件です。*1

現在は、このような事件があった現場とは思えない閑静な住宅街となっています。

【参考文献】
*1 壬生篤:荷風!vol.2(日本文芸社,2004)P.75-P.79 阿部定事件の現場をゆく
あらかわ遊園は、大正11年に開園した遊園地です。
当時のあらかわ遊園の案内には、「東京に最も近き避暑地」と紹介されています。*1

大正時代に開設された遊園地の中には、多摩川遊園地、本牧花屋敷、など付近に寺社が多く集まる地域があり、遊園地の開園と同時期にニ業地あるいは三業地が立地する場合がありましたが、あらかわ遊園の場合も同様で、近くに尾久三業が立地していました。

「遊園地」と書かれた電柱番号札。

墨田川からのあらかわ遊園の遠望。

【参考URL】
*1 あらかわ遊園ホームページ
*2 安野 彰,篠野 志郎:日本建築学会計画系論文集(1998)「遊園地取締規則」にみる明治・大正期の東京近郊の遊園地の概念–都市娯楽施設の史的研究 P.165
今回は、尾久(おぐ、東京都荒川区)の町並みと風俗を散歩します。
尾久は、明治時代以前は農村(ムラ)でしたが、大正時代に急速にマチ化が進行しました。そのきっかけとなったのが、大正2年の王子電車(現、都電荒川線)の開通と翌3年に開業した「寺の湯」でした。*1

寺の湯は、碩運寺の住職松岡大機が鉱泉を掘り当て、「寺の湯」と称した温泉を開業したもので、のちに、「不老閣」として独立しました。やがてその人気にあやかるようにして、この地にいくつもの温泉旅館が開業し、このことが尾久三業の礎となりました。*1

こうして登場した花街・尾久産業地を中心に、その後は尾久地区の商店街が発展しました。*1

付近の電柱番号札には、「新地」の名が見られます。

【参考文献】
*1 八木橋伸浩:都市周縁の考現学(言叢社,1995)P.166-P.167
新橋駅のガード下。

文化劇場の隣にロマン劇場があります。

3本立てです。

ガード下のポスター。

ニュー新橋ビルの建物の壁面に、アダルトビデオ店の看板が埋め込まれています。

マッサージ店が密集する2階の商店街に、十字路にあるアダルトビデオ店。

通路に面しているアダルトビデオの棚。

成人向けのガチャポン。「オナガチャ」と呼ばれているようです。

今回は、新橋(東京都港区)の町並みと風俗を散歩します。
JR新橋駅の西口には、ニュー新橋ビルという巨大な雑居ビルが存在します。ここには、かつて1960年代まで、闇市に起源を持つ東京でも最大規模のバラック飲み屋街が存在しましたが、1961年から71年にかけて市街地改造法に基づく再開発が行われ、ニュー新橋ビルが誕生しました。*1

ビル内には、間口の狭い飲食店やチケットショップが立ち並んでいます。

2階の商店街には、マッサージ店やアダルトビデオショップ、ファッションヘルスなどが建ち並びます。
ニュー新橋ビルができる前にあったバラック飲み屋街は、一般飲食店159軒の他、風俗店(バー、キャバレー、スナックなど)が66軒と飲食・娯楽関係の業態が大半を占めていました。*1
現在も当時のバラック飲み屋街の業態を継承していると言えそうです。

2階には、マッサージ店が乱立しています。店員のほとんどはアジア系です。

【参考文献】
*1 初田香成:都市の戦後(東京大学出版会,2011)P.361-P.383
丸瀬布へ通じる道と遠軽への道の分岐点の先に、かつて繁華街があった昭和区がありました。

昭和区の最盛期の1936年(昭和11年)頃には、ここに11軒のカフェーと称する遊廓が軒を連ねていました。鉱山街の最南端の泉町から民間の昭和区に入る所には、見張り所があって検問していたので、鉱山街から来る人は川を越えて隠れながら通う人もいました。しかし検問は名ばかりで見ぬふりをしていました。*1

地図によると、藻別川が蛇行して道路に接近するあたりが、昭和区があった場所です。
遊廓は、「花月」、「三日月」、「銀座」などという名で、特に「花月」は、二階建てで一番大きい店でした。客は、まず一階で飲み、気に入った遊女と室内階段を使って二階は上がりました。遊廓は、戦争が勃発した1941年には皆無くなりました。「花月」は、紋別市街に出て、遊廓で儲けたカネで駅前に近い土地を買い占めました。*1

旧昭和区からは、「元山大露頭」が見えます。「元山大露頭」は、金山発見の発端となった大鉱脈で、ここには樹木が生えていないため、遠くから眺めても確認できます。

【参考文献】
*1 黒沼秀一:望郷の鴻之舞(黒沼秀一事務所,2012)P.178-P.179
*2 黒沼秀一:鴻之舞北深く(黒沼秀一事務所,2012)P.32