奈良(中野牛乳の牛乳箱)奈良でよく見かける牛乳箱です。

木辻遊廓跡。格子のある古い建物があります。

玄関に、中野牛乳の牛乳箱があります。

中野牛乳は、大正元年に大正牧場として創業。昭和28年に中野牧場に改称。個人経営の牛乳屋として続きましたが、平成3年に廃業しました。奈良町あたりの散策でよく見かける牛乳箱です。三重の中野牛乳*1 とは関係ありません。*2

箱の側面には、特徴のある行書体で「毎度有難う御座います」と書かれています。

【参考記事】
*1 風俗散歩(伊勢):中野牛乳の牛乳箱(2010.5)
*2 横溝健志:思い出牛乳箱(ビー・エヌ・エヌ新社,2008)P.171

参考文献

参考記事

奈良(称念寺)たくさんの無縁仏。木辻遊廓跡の近く。

木辻遊廓跡の近くにある称念寺。

称念寺の境内に、たくさんの無縁仏の墓石があります。

これらの墓石の中には、木辻遊廓の遊女たちのものが含まれていると言われています。

裏側。

【参考URL】
*1 奈良県ホームページ:「奈良県人権サイトガイドブック2」木辻遊郭跡と遊女の墓

参考文献

参考記事

奈良(静観荘)元遊廓の建物。本家岩谷楼。

元林院町の南側に位置する木辻町(きつじまち)には、遊廓がありました。昭和八年(1933年)発行の「大日本職業別明細図 第316号 奈良県」*1 には、木辻遊廓と思われる妓楼の屋号が記されています。
木辻遊廓は、養老2年(718年)に元興寺を建立する際、工人、人足等の足留め策として木辻の地に「奴婢(ぬひ)」(律令制における奴隷)を置いたことが起源で、わが国における最も古い遊廓の一つです。*2

現在、旅館として建物が残っている静観荘は、静観荘は本家岩谷楼です。*3

付近に遊廓の面影はほとんど残っていません。

玄関。

【参考文献】
*1 大日本職業別明細図(東京交通社,1937)
*2 松川二郎:全国花街めぐり(誠文堂,1929)p.535
【参考URL】
*3 Architectural Map「旅館静観荘

参考文献

参考記事

奈良(萬玉楼)往時の面影をとどめています。

元林院町の路地に「萬玉楼」の建物が、往時の面影をとどめています。

萬玉楼は、元林院町で広く名が知られた芸妓置屋の一つで、絹谷家五世代にわたって引き継がれました。伊藤博文ら政界人や文豪・志賀直哉ら多くの文化人がここで遊芸を楽しんでいます。*1

萬玉楼の基盤は、京都で周旋人から買い求め「歌鶴」と名付けた彦根藩士族の娘で財をなし、作られました。*1

奈良町で現存する最も古い町家の一つです。

【参考文献】
*1 勝部月子:奈良学研究.(8)(2006.1)「萬玉楼」P.107,P.112

参考文献

参考記事

奈良(元林院町)明治初期からの花街。料亭「明秀館」。

今回は、奈良(奈良県奈良市)の町並みと風俗を散歩します。
元林院町が花街として形づくられたのは、明治5年、元林院に芸妓置屋(後に娼妓も置く)開業の許可を得た頃からでした。明治維新後、生活困窮者が都市農村を問わずあふれ、それだけでなく、士族制度の崩壊による士族の妻子の身売りもありました。「大枚80両をはたいて買い、それも彦根の士族の娘であった。十八歳、美人。」という触れ込みは、当時の人々に大いなる興味を抱かせました。*1

明治創業の料亭、明秀館のたたずまいが町並みに彩りを添えます。

正面奥の建物は、猿沢池畔にある魚佐旅館ですが、現在は鉄筋コンクリートのホテルになっています。*3

町家の格子や白壁は当時のままです。*3

【参考文献】
*1 勝部月子:花街の成立-奈良元林院の事例を通して(日本文化史研究.通号31,1999)P.45.P.48
*2 学習研究社:週刊日本の町並みNo.7(学習研究社,2004.12)P.16
*3 奈良市今昔写真集(樹林舎,2008)P.95

参考文献

参考記事

大和西大寺(あやめ新地跡地)菖蒲池。北側にレジャーランド、南側に歓楽街。

大正15年に開園した菖蒲池遊園(あやめ池遊園地)*1 の特徴は、戦前「あやめ新地」という花街が隣接していたことです。場所は、菖蒲池駅の南側です。つまり、駅を挟んで、北側にレジャーランド、南側に歓楽街が立地していたわけです。*2

現在、花街の面影はありませんが、昭和4年に開業したあやめ池温泉の跡地*1 のすぐ隣に古い建物が残っています。

料亭か旅館だったのかもしれません。

1階は改装されて医院になっています。

【参考記事】
*1 風俗散歩(大和西大寺):あやめ池遊園地(2010.6)
【参考文献】
*2 奈良女子大学文学部なら学プロジェクト:大学的奈良ガイド(昭和堂,2009)P.240-P.243

参考文献

参考記事

大和西大寺(あやめ池遊園地跡)平成16年、惜しまれながら閉園。

大和西大寺から一駅隣の菖蒲池駅の北側に、大正15年あやめ池遊園地が開園しました。大軌(現在の近鉄)が線路買収時に購入した土地を利用したもので、現在の東京ディズニーランドの敷地よりも広大でした。(約50万㎡)*1*2

開園当初の遊園地は、上池と下池の周辺に娯楽施設がつくられました。子どもの汽車、魔法の島、ウォーターシュート、野外劇場などはその代表的なものでしたが、平成16年、惜しまれながら閉園しました。*1

現在の上池周辺。現在、再開発中です。

昭和4年、あやめ池遊園地の拡張計画の一環として、遊園地の南側にあやめ池温泉が開業しました。男女大浴場のほか、娯楽室、小劇場、食堂がありました。あやめ池温泉は、昭和32年頃に廃業し、その後大阪松竹歌劇団(OSK)の学校となり、現在はマンションになっています。*1

*1 奈良市今昔写真集(樹林舎,2008)P.53-P.54
*2 奈良女子大学文学部なら学プロジェクト:大学的奈良ガイド(昭和堂,2009)P.241-P.243

参考文献

参考記事

大和西大寺(RRセンター跡地)平城京址に出現した「西部の街」。

今回は、大和西大寺~菖蒲池(奈良県奈良市)の町並みと風俗を散歩します。
今年は、平城遷都1300年にあたりますが、戦後、この古都奈良の平城京址に突然「西部の街」が出現した時期がありました。
昭和25年、朝鮮戦争が始まると、日米協定に基づく施設「奈良RRセンター(NARA Rest And Recuperation Center)と呼ばれる米軍の慰安施設が建設されました。*1

奈良RRセンターが建設された場所は、旧尼ヶ辻町出屋敷三条通(現在の三条大路三・四・五丁目から尼ヶ辻にかけて)で、RRセンターの中央門は、現在のセキスイの南門あたりにありました。*1

RRセンターの東西300mにわたって、またたく間にカフエ。バー、ギフトショップ、飲食店(パンパン、ポン引き用)キャバレー、写真店、洋服店、ストリップショウ店、靴屋、美容室、射的など、ほとんどがベニヤづくり、しかも毒々しい原色の80軒あまりが並びました。その店のほとんどが「元気回復の狂宴」へのつなぎ役となりました。*1

パンパンと言われた売春婦は、3000人に上り、ほとんどの帰休兵がこの店で商談しました。商談成立後は店の裏に急遽建てられた「パンパンハウス」に迎えられました。「時間」、「一夜」のパンパン商売だけでなく、オンリーと呼ばれる「5日間専属オンリー」の契約をする者も多く、付近だけでなく、奈良市内に多くの「オンリー部屋」での売春も行われました。彼らの「狂宴」は、室内に止まらず、地域の神社の森や物陰が売春の場となり、避妊具が醜く散乱することが常態化する始末でした。*1

【参考文献】
*1 大阪奈良戦争遺跡ガイドマップ2 P.56,P.76-P.78

参考文献

参考記事

洞川(下渕マーケット)味わい深いアーケード。下市口駅に近く。

近鉄線下市口駅に近い商店街に、古い小路があります。小路の入口では居酒屋の店舗が営業中です。

この一画は「下渕マーケット」と呼ばれていたようです。薄暗いアーケードになっていて奥へ続いています。ほとんどの店舗は休業中のようです。

味わい深いアーケード。

小路はL字型に曲がって、もう一方の出口とつながっています。

参考文献

参考記事

洞川(日の出湯)玄関周辺のモダンな意匠が目を引きます。

大峯山の登山口にあたる下市は、かつては吉野郡最大の商都でした。下市市街から洞川方面へ向かう国道309号線を20分ほど歩くと、川沿いに、銭湯の「日の出湯」が見えてきます。

現在の建物は、昭和元年に建てられたもので、玄関周辺のモダンな意匠が目を引きます。*1

残念ながら、この日は臨時休業でした。

日の出湯の前の橋から川辺の町並み。

【参考文献】
*1 松本康治:関西のレトロ銭湯(戎光祥出版,2009)P.88-P.89

参考文献

参考記事