印西市別所の地蔵寺の仁王門のそばに手水石が奉納されています。*1
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瞽女が願主となって造立した石造物は現在のところ、これが唯一基で、希少価値があります。*1
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享和3年(1803)、別所村の瞽女キヨと若者中が願主となり、有力者などの賛同を得て奉納されたものです。*1
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瞽女(ごぜ)とは室町時代以降に現れた三味線を弾き、歌をうたって渡世する盲女のことですが、しだいに、祈祷などの宗教的な要素はなくなり、単なる遊芸人に変わっていきました。江戸時代になると、瞽女仲間を作ったりして集団化され、各地を遍歴することが定着し、昼は門付(かどづけ:日本の大道芸の一種で、門口に立ち行い金品を受け取る形式の芸能のおよびそれを行う者の総称)、夜は宿で「よせ」を行って娯楽の少ない農山村の人々を楽しませました。こうした風習も昭和の戦争期を境にぱったりと途絶えてしまいました。
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