全国>東京都>港区>芝浦3丁目>/ジャンル>遊興>花街・カフェー>花街>/全年代>現代>戦中・戦後>1950年代>/

芝浦(協働会館)戦前の和風建築が残っています。

芝浦が花街として発達を見たのは、明治時代からでした。昭和の初期には、芸者屋74軒、待合73軒、がありました。*1
JR田町駅から徒歩約10分、ヤナセ本社ビル近くに、芝浦花街の見番として使用されていた協働会館の建物があります。現在は、保存のため、建物全体にネットがかけられています。

協働会館は、当時の三業組合長であった細川力蔵氏が大半を出資し、三業組合に寄付したものといわれています。細川氏は、目黒雅叙園を築き上げた人です。
太平洋戦争が苛烈になるにしたがい、東京港付近に重要な倉庫が密集し、空襲の中心になる恐れから、芝浦花街は、疎開、移転し、三業組合も解散しました。*2

昭和20年に戦争が終わりましたが、協働会館の周辺は、幸運なことに空襲の被害から免れました。元の見番の建物は、東京都港湾局の所轄になり、港湾労働者の宿泊施設として管理され、「協働会館」と名付けられました。
この頃から、芝浦は花街ではなく港町の産業(倉庫・運輸など)・住宅地へと性格を変えていきました。*2

この建物の所有者である東京都港湾局は、一時期、解体計画を発表しましたが、地元の住民がこれに反対し、現在では保存運動が展開されています。*3
東京都では、小金井市の江戸東京たてもの園に移築保存することなども検討しましたが、敷地や予算などの問題で実現していません。*4

【参考文献】
*1 東都芸妓名鑑(南桜社,1930)
*2芝浦・協働会館を活かす会:「協働会館 華やかなりし花柳界の面影を伝える近代和風建築」(芝浦・協働会館を活かす会,1999)P.8-P.28
*3 THEMIS(2005.12)P.90-P.91「三信ビル、協働会館など 建物を守らない日本の建築文化を問う」
*4 東京人(2003.3)P.89「特集 たてもの保存再生物語」

参考文献

参考記事

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