人吉市街の大工町。旅館丸恵本館の近くに美容院のレトロな建物があります。
「美容院」と書かれたドア。
入口のタイルの装飾。
木製の窓。
人吉市街の大工町。旅館丸恵本館の近くに美容院のレトロな建物があります。
「美容院」と書かれたドア。
入口のタイルの装飾。
木製の窓。
人吉の中心街には、大衆食堂が派手さを競う軒を連ねます。
ラーメン、ギョーザ、ビール。
看板建築のホルモン店。
スナックのような佇まいの食堂。
人吉の市街の商店街。肉屋さんの隣に「スカイビル」があります。
人吉市街の中心部。漢字で「鶯温泉」と書かれた看板があります。
広い駐車場の奥に公民館のような建物があります。
建物の入口には、大きな赤い文字で「うぐいす温泉」と平仮名で書かれています。上部には、青地に赤色の温泉マーク。とにかく目立っています。
営業は1日おき。朝8時から12時までです。
共同浴場の新温泉の裏側に、雰囲気のある路地があります。
右に新温泉。左には小さな飲み屋街。昭和の雰囲気が残る一画です。
入浴後に立ち寄りたくなるような居酒屋さん。
飲み屋街の路地からは、新温泉の木造の建物の裏側(写真右側)が垣間見えます。
レトロ外観の新温泉ですが、脱衣所、浴室はさらにレトロな雰囲気が漂います。商店の名前の入った看板は、まるで博物館の展示物のようです。
脱衣場には、ぶら下がり健康器具と体重計。
年季の入ったマッサージチェア。脱衣所脇のスペースはくつろげるスペースがあります。
シンプルなコンクリート造りの浴槽が2つ。
今回は、人吉(熊本県人吉市)の町並みと風俗を散歩します。
人吉の球磨川沿いには温泉街が広がり、旅館や共同浴場が多数存在します。
その中でも新温泉は、国宝級とも言える歴史を感じさせる木造建築です。
静かな雰囲気の入口付近。
建物全体は大きな窓ガラスに囲まれています。
河童の起源には諸説ありますが、その一つは、「河童たちは中国の黄河上流から海を渡り、九州の八代の球磨川河口に上陸して棲みついた。」という渡来説です。*1*2
球磨川沿いには、「河童渡来碑」がありますが、さらに、町のいたるところに河童のオブジェなどがあります。
居酒屋の脇にある巨大な河童のオブジェ。
居酒屋の建物の壁面には、河童とともに人間の女性も描かれています。
何ともエロい姿です。
【参考文献】
*1 和田寛:河童伝承大事典(岩田書院,2005)P.605
*2 黄桜株式会社:黄桜ホームページ 黄桜ギャラリー「かっぱの起源」
八代市塩屋町の塩屋八幡宮の近く。
銭湯のちとせ湯があります。
2階部分はかなりボロボロです。
北西側の別棟。こちらの外観も凄いです。
八代市本町の繁華街。スナックなどの飲食店が建ち並んでいます。
ビルの1階にサウナがあります。
整体マッサージ。
絶妙の朽ち具合のネオン看板。
八代市本町の繁華街のはずれに、「キャバレー白馬」があります。
演歌歌手の八代亜紀さんは、熊本県八代市の出身ですが、16歳のデビュー前の初舞台の場所が、この「キャバレー白馬」だったそうです。*1
派手なデザインの屋上大看板。昭和の雰囲気を感じます。
ホステス募集です。
白馬専用。
【参考URL】
*1 asahi.com マイタウン 熊本 この人 八代亜紀さん(2005.6.6)
旧「黄金」の建物の南側の路地に、レンガの塀が残っています。
ほとんど荒廃していない綺麗なレンガ塀です。
このレンガの塀は、元八代券番の塀です。*1
元八代券番の土地は、旧「黄金」の建物に隣接しています。*1
【参考文献】
*1 田島 秀一:日本建築学会研究報告九州支部研究報告P.692「八代紺屋町の遊郭建築「黄金」について」
紺屋町の遊廓は、明治7年に設置が認められ、大正10年には、遊廓が19軒、料亭が20軒となり、活況を呈しました。戦後は特殊飲食店地区となり、昭和32年の売春防止法施行により転廃業しました。*1
「黄金」は、八代で唯一の遊廓建築の遺構で、建設年は明治期と考えられています。*1
軒下の透かし彫り。
建物の西側。
【参考文献】
*1 田島 秀一:日本建築学会研究報告九州支部研究報告P.689-P.692「八代紺屋町の遊郭建築「黄金」について」
今回は、八代(熊本県八代市)の町並みと風俗を散歩します。
八代は、球麿川下流にあって、港を中心に都市が発達してきました。住吉神社のある付近は、古くからの漁師町でした。
住吉神社は、海上の守護神として信仰を集めてきました。
玉垣には、漁業関係者の寄進者の名前が彫られています。*1
住吉神社の西の蛇篭町は港町で、天草の漁船が毎日着き、漁師が鰯や鯛を陸揚げすると、仲買人が荷車やリヤカーで市場まで持って行きました。市場でのセリが終われば、漁師たちは紺屋町の遊廓へ出かけていきました。*1
【参考文献】
*1 森栗茂一:河原町の歴史と都市民俗学(明石書店,2003)P.423-P.427
三角東港周辺の住宅街。
牛乳箱に出合いました。側面に、「ハネーヨーグルト」と書かれています。
明治牛乳と言えば、アサヒマークのロゴが有名ですが、この箱は「MEIJI」のロゴです。
比較的新しい牛乳箱のようです。
三角西港は、港湾だけでなく市街地も含めて造成されました。市街地水害から守るための排水路が整備され、主要な道路との交差部分には、石橋が架けられています。*1
「全国遊廓案内」には、三角町にも遊廓があり、貸座敷が6軒あったと記されています。*2
遊廓は、西排水路の上流のあたりにありました。*1
検番があったあたり。*1
当時の三角西港の様子は、紀行文「五足の靴」*4 にも登場します。三角町には、熊本県公認の遊廓というのが、熊本市内の二本木遊廓、八代町の紺屋町遊廓、牛深町の古久玉遊廓に次いで存在していました。「五足の靴」の作者の五人づれは、「遊廓らしい一部の二階三階の欄干には赤い夜着が痛いくらゐ光つてゐる」とその存在を確認しています。*3
【参考文献】
*1 遠藤徹也:Civil engineering consultant. (通号238,2008.1)特集 土木遺産Ⅵ日本の土木風土の原点 P.20-P.23 明治の近代港湾都市「三角西港」「明治・大正期の町の構成」
*2 南博:近代庶民生活誌 第14巻(三一書房,1993)「全国遊廓案内」P.152
*3 鶴田文史:天草五足の靴物語(近代文芸社,2007)P.119
【参考記事】
*4 風俗散歩(柳川)文学碑「五足の靴ゆかりの碑」
1887年(明治20年)の三角西港の開港により、税関、裁判所、役所などの公的な施設や倉庫や商店、宿屋、遊廓などが次々と設置され、町は活況を呈していきました。*1
三角西港の活況は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の「夏の日の夢」と題した作品に記されています。当時、熊本に住んでいたハーンは、長崎旅行の帰りに船で当地を訪れ、旅館「浦島屋」に宿泊しました。*1
「夏の日の夢」は、このときの様子と日本の昔話の「浦島太郎」と「若返りの水」の話を重ねた作品です。「その宿はさながらパラダイスで、女中さんたちはまるで天女のようだった。--中略--彼女(宿の女主人)は、とても若く、ほれぼれする美しさ―国貞が浮世絵に描いた我の娘、蝶の娘といった風情だった。」*2
復元された浦島屋の建物があります。
ハーンは、浦島屋での夢のような体験から、浦島太郎の物語を連想し、この作品を生み出したのでしょう。
【参考文献】
*1 遠藤徹也:Civil engineering consultant. (通号238,2008.1)特集 土木遺産Ⅵ日本の土木風土の原点 P.20-P.23 明治の近代港湾都市「三角西港」
*2 ラフカディオ・ハーン:雪女 夏の日の夢(岩波書店,2003)P.216-P.218
今回は、三角(熊本県宇城市)の町並みと風俗を散歩します。
三角西港(みすみにしこう)は、明治時代、当時の内務省が招いたオランダ人技師ムルドルの指導のもとで建設された近代港湾で、「九州・山口の近代化産業遺産群」として世界遺産登録を目指しています。*1
丸みを帯びた石積みの埠頭。
背後の山地にも石積みの環濠が築かれています。
【参考URL】
*1 「九州・山口の近代化産業遺産群」世界遺産登録推進協議会ホームページ:三角西港施設
湊新地には、当時の面影を残す古い建物が残っています。
遊廓の北東部の奥の満月楼のあったあたり。
この通りの両側には、宮島楼、芦北屋、平野屋、喜楽亭などの妓楼が建ち並んでいました。
遊廓の東側の通り。萬松楼があったあたり。
【参考文献】
*1 鶴田文史:五足の靴(長崎文献社,2006)P.110-P.145
島原の船津新地と湊新地は、2つともその名の通り沿岸より築地した新しい造成地であるため、そこに橋がかけられ、その新地内に各々の遊廓ができました。*1
島原の地の入江は、古くから地形的に最適な港として交易が盛んとなって、港町として発展しました。同時に人の出入りが多い港町特有の遊廓の前身が、はじめは散在して成立していましたが、やがて、沿岸より築地した新しい造成地の船津新地と湊新地の2ヶ所に遊廓が成立しました。*1
船津新地が成立したのは、明治30年頃で、道の両側に遊廓の軒並みがありました。*1
「舟津新地」と書かれた電柱のプレート。
船津新地は、昭和19年の大火により全焼し、その後は復興しませんでした。*1
【参考文献】
*1 鶴田文史:五足の靴(長崎文献社,2006)P.110-P.145
今回は、島原の町並みと風俗散歩します。
島原鉄道の島原駅の改札口を出ると、「島原の子守唄像」の後姿が目に飛び込んできます。
西鉄柳川駅前。
駅前のロータリーの隅に、白ポストがあります。
色は白ですが、外観は郵便ポストに似ています。
間違って郵便物を投函する人がいてもおかしくないと思います。
松月文人館に「立秋詩碑」があります。この碑には、北原白秋の詩集「思ひ出」の中の詩「立秋」の一節*1 が刻まれています。この詩に出てくる懐月楼跡は現在の松月文人館の建物です。
「立秋」*1 の中に出てくる、NOSKAI(ノスカイ)とは、方言で遊女のことです。*2
松月文人館の裏手に、もうひとつの別の文学碑「『五足の靴』ゆかりの碑」があります。
「五足の靴」は、与謝野寛(鉄幹)が、まだ学生の身分だった北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里の4人を連れて旅した記録、紀行文で、明治40年に「東京二六新聞」に連載されました。「五足の靴」とは、旅をした「五人づれ」のことを表しています。*3
「五足の靴」は、南蛮文化探訪が第一の目的でしたが、「遊廓情緒探訪」という従属的な目的もありました。「五足の靴」の探訪地全体の中では、博多の柳町、長崎の稲佐・丸山、牛深の遊女町、三角の遊廓、島原の新地、熊本の二本木等の遊廓散歩について触れられています。佐賀の室園、呼子の殿之浦、佐世保の勝冨については触れられていませんが、その夜の散歩が想像されます。*3
柳川の遊女屋「懐月楼」跡については、「五足の靴」第二十三章で触れられています。
----「五足の靴」第二十三章(抜粋)----
表門に抜けると太鼓橋が架してある。橋の下は又例の川の一つだ。(中略)橋の詰(つめ)に大きな三階造の家がある。近年まで遊女屋であったが、田舎も人智の進んだ影響で流行らなく成り、他に引越してしまった後は構造が遊女屋式だけに借る人が無いので、持主も次第に頽廃して行くに任せて置く。その一部をこの夏借受けて氷店を開いた者がある。
【参考URL】
*1 北原白秋記念館ホームページ:文学碑「立秋詩碑」碑文
【参考文献】
*2 北原白秋:北原白秋詩集.上(岩波書店,2007)P.291-P.292
*3 鶴田文史:五足の靴(長崎文献社,2006)P.12-P.13,P.132
*4 五人づれ:五足の靴(岩波書店,2007)P.92-P.93
今回は、柳川(福岡県柳川市)の町並みと風俗を散歩します。
柳川は水郷の町と言われ、市中に掘割が巡らされています。
三柱神社の参道の朱塗りの橋のたもとに松月文人館があります。
この建物は、明治時代に建てられた遊女屋「懐月楼」の建物でした。
松月文人館の2階と3階は、北原白秋など文学者たちの資料館になっています。*1
【参考URL】
*1 柳川観光開発株式会社:公式ホームページ「松月文人館」