倉吉(木製消火器箱)めずらしい黄色の箱。倉吉の旧市街。

倉吉の旧市街。湊町のあたり。

消火器箱が2つ。郵便受け、電気メータ..いろいろなものが貼りついています。

その中でも黄色の消火器箱が目につきます。

黄色の消火器箱はめずらしいと思います。

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倉吉(大社湯)「レート白粉」の琺瑯看板。四つ角に面した木造家屋。

倉吉市新町3丁目に銭湯の大社湯があります。

裏側から見ると、四つ角に面した普通の木造家屋ですが、下部に煉瓦が使われています。

ガラス窓に、女湯、男湯の文字。あいにく本日は定休日でした。

「レート白粉」の琺瑯看板。

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倉吉(倉吉遊廓跡)店の屋号が残っています。越殿町。

越殿町の倉吉新地跡に、遊廓であったと思われる建物があります。

独得の装飾があります。

建物の側面部分。

玄関に店の屋号が残っています。

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倉吉(倉吉遊廓跡)越殿町。遊廓時代の雰囲気を伝えています。

倉吉の遊廓は越殿町にあって、最も多い時で80人もの女性がいました。彼女達は、倉吉や東伯出身の人は少なく、多くは県外者でした。公認の遊廓でないので遊興費は僅かで済み、親切で純朴な美人が多いのがこの廓の面白さでした。*1

倉吉考*1 に写真が掲載されている建物。遊廓時代の雰囲気を伝えています。

建具の格子は美しく見事です。

この場所だけが道路の幅が広くなっています。

【参考文献】
*1 生田昭夫:倉吉考(堂設計室,1980)P.58

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倉吉(岩倉町通り)旧料亭街。残る礎石は料亭の建物が建っていた名残。

倉吉の旧市街の岩倉町は、料亭などの商店が立ち並ぶ賑やかな通りでした。

案内板によると、この通りは、昔からの町人町で、江戸時代には大店も多く、一時期は料亭もたくさんあって、戦前この町の若いもんが出征する時は芸者衆が三味・太鼓で見送ってくれたそうです。

地元の方の話によると、西岩倉町の通りには花街の名残と思われる旅館の建物が最近まで残っていたそうですが、現在はその面影はありません。
大正3年の「倉吉案内記」によると、芸妓検番事務所が越中町(西岩倉町の西隣)にあり、芸妓の総数は42名だったと記されています。*1

東岩倉町の倉吉淀屋の前に駐車場になっている空き地があります。地元の方の話によると、ここに残る礎石は料亭の建物が建っていた名残だそうです。また、この料亭の隣には遊廓があって、格子がついている建物が最近まで残っていたそうです。

【参考文献】
*1 柴田文次郎:倉吉案内記(桑田書店,1928)P.71

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倉吉(パチンコ店)昭和の郷愁が漂っています。

倉吉駅前の商店街にレトロなパチンコ店があります。

「パチンコ銀河」の看板。

「華麗に変身!」「新装大開店」の看板。

昭和にタイムスリップ したような郷愁が漂っています。

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倉吉(まあじゃん屋跡)倉吉駅前の商店街。麻雀フレンド。

今回は、倉吉(鳥取県倉吉市)の町並みと風俗を散歩します。
明治末期、山陰本線が延伸し、倉吉駅(後に上井駅と改称)が開業すると、上井を通過して人々と荷物が出入りするようになりました。上井は、町の中心部から竹田川を隔てた位置関係にあったので、倉吉の町は上井と旧市街地が別々に都市計画が進められました。上井駅前には、商店や飲食店が形成されましたが、上井への対抗意識からか旧市街周辺の事業が繰り返されました。*1
古い案内板には、「パチンコ銀河」、「麻雀フレンド」などの名前があります。

1階に飲食店が入る木造家屋。旧「麻雀フレンド」。

料亭のような建物です。

「まあじゃん屋」のプレートがあります。

【参考文献】
*1 生田昭夫:倉吉考(堂設計室,1980)P.54-P.56

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美保関(美保館)交通公社の旅館クーポン。青石畳通りに面した老舗旅館。

青石畳通りに面した老舗旅館の美保館。

数奇屋風建築。

美保館の内部。

「交通公社の旅館クーポン」の琺瑯看板。

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美保関(青石畳通り)風待ち潮待ちのための港。

美保関の繁栄を物語るのが町並みを貫く青石畳通りです。 美保関では、ローカル船から上方の回船へ、またその逆の荷の積み替えが大量に行われました。(当時の荷物の運搬は大八車で行われていたたため)その作業を効率よく行うために石畳が敷かれました。*1

水に濡れると石畳は青く美しく光ります。

古い旅館の二階からは、三味線の音、女中の声、戦場のようなにぎやかさが、今でも聞こえてくるような気がします。*2

青石畳通りには、美保関にちなんだ文学の案内板があちこちに設置されています。司馬遼太郎さんの「街道をゆく」*3 の中に美保関が登場します。「美保神社の境内にのぼった。(中略)階段を降りて左側が、ふるい遊廓の通りである。」

美保関港は、帆船時代には、風待ち、潮待ちのために停泊する船が絶えませんでした。船宿では船員達が酒を酌みかわし、町には置屋業が出来て、遊女がたくさんいるようになりました。明治末期になると帆船は次第に減りましたが、代わりに汽船が運行され美保神社に参拝するお客が増えました。いわゆる「関まいり」のお客が多くなったのも芸者・娼妓がいたのが一因でした。*4
【参考文献】
*1 加藤貞仁:北前船(無明舎出版,2002)P.64-P.65
*2 美保関町教育委員会:島根半島散歩(美保関町教育委員会,1991)P.34
*3 司馬遼太郎:街道をゆく27 新装版(朝日新聞出版,2009)P.204
*4 美保関町老人クラブ連合会:ふるさとを語り継ぐ(美保関町老人クラブ連合会,1987)P.157-P.160

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美保関(美保関港)イカの天日干し。港の周辺には旅館。

今回は、美保関(島根県松江市)の町並みと風俗を散歩します。
島根半島の東端に半島の陰に隠れるように位置している美保関は、波穏やかな良港で、中海を通って松江に至る要衝の地でもありました。*1

19世紀頃、美保関は荷物の積荷を行うために寄港する船で賑わいました。*1

美保神社への参拝客も多く、港の周辺には旅館などが建ち並びました。

イカを天日干しする姿は美保関の日常的風景です。

【参考文献】
*1 加藤貞仁:北前船(無明舎出版,2002)P.64

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戸塚(踊り場)猫の供養のための碑。猫の踊り場伝説。

戸塚駅からバスに乗って約5分。「踊り場」というバス停があります。同じ場所に地下鉄の「踊り場」駅もあります。「踊り場」というと階段の踊り場を連想しますが、ここは「猫の踊り場伝説」のある場所です。

地下鉄踊場駅の脇には猫の供養のための碑が建っています。

昔、この場所で猫が集まって踊ったという伝承があります。
民間伝承の世界では、猫は人間と同じような独立社会を別に持っているのではないかと考えられていました。猫と人間の関係は古くから持ちつ持たれつでした。猫と仲良く暮らしながら、人間は、猫の秘密というものをいつも想像していたわけです。猫と同様に狐や狸など日本に群棲していた動物たちと人間の間は、非常にうまくいっていた時期があったことを物語っています。*1

猫の置物やキャットフードなどが供えられています。

-------- 猫の踊り場伝説 --------
昔、戸塚に水本という醤油屋がありました。ある日、家の手ぬぐいが一本ずつなくなるのに気づいた主人は、その晩、手ぬぐいに紐をつけ、手に結んで寝ました。手を引っ張られて目を覚ました主人が見たのは、手ぬぐいをくわえて外に出かけて行く自分の家の飼い猫の三毛猫の姿でした。その後を追っていくと、丘の頂きに何千匹もの猫が集まって踊りまくっているという場面に遭遇しました。その中に自分の家の三毛猫が頭に手ぬぐいをまいて踊っていました。帰宅して家内を探すといつも囲炉裏端で三毛猫が寝ているはずなのに、その夜だけはやはり見えない。それっきり、三毛猫は戻らなくなりました。*1
【参考文献】
*1 宮田登:都市とフォークロア(御茶の水書房,1999)P.16-P.18

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戸塚(心中の碑)遊女ヤマと清三郎の許されぬ愛の証。

遊廓の入口に清源院。

遊女ヤマと若い町人清三郎が、許されぬ愛の証を立てるため、天神塚の井戸にそろって身を投げる。まるで「曾根崎心中」さながらの事件が、幕末の戸塚宿で起こりました。愛を貫くため死を選んだ若者たちに、町の人々が心を動かされ、文久3年(1863年)、清源院の境内に、二人の句碑が建てられました。*1

「井にうかぶ番ひの果てや秋の蝶」

清源院から見た戸塚駅付近。駅周辺の再開発により、かつての戸塚宿の面影は失われつつあります。

【参考URL】
*1 戸塚区ホームページ

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戸塚(スナック街)商店街の中心部の四つ角付近。。

遊廓があったサクラス戸塚付近を矢沢方面へ進むと、商店街の中心部です。スナックが数軒あります。

四つ角付近。

5軒のスナックや居酒屋が住宅街のの中に散在しています。

商店街から遊廓があった方向を見たところ。

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戸塚(遊廓跡地)旧戸塚宿。料亭「丁字屋」跡地。

今回は、戸塚(横浜市戸塚区)の町並みと風俗を散歩します。

戸塚の遊廓は、現在の紀久薬局と川辺電気商会(現在は空き地になっています。)の間の道を入って矢沢へ抜ける道の中ほど(現在のサクラス戸塚近く)に明治前期にすでに遊廓が大門(黒門)に仕切られて5軒(角倉(かどくら)、松月(しょうげつ)、沢辺本陣付近より移転してきた巴楼(ともえろう)、笹谷、江戸屋)ありました。*1*2

鉄道電化工事のころ、二十人たらずであった芸妓も、赤坂、新橋から鞍替えしてきた人達を含めて百名近くにふくれあがり、遊廓とともに、料亭も盛況を示していました。*1
料亭の「丁字屋」は、近年までこの付近に建物が残されていましたが解体され、「丁字屋」のそば屋だけが営業していましたが、その「丁字屋生そば」も無くなって現在は更地になっています。

現在、この界隈は商店街となっていますが、商店街の入口付近(「丁字屋」があった場所)が立体交差工事に伴う道路の拡幅工事のルートにあたっていて、戸塚宿時代の町並みは一変しようとしています。

【参考文献】
*1 郷土戸塚区歴史の会:ふるさと戸塚(戸塚区老人クラブ連合会,1979)P.39
*2 林美一:東海道売色考(三樹書房,1979)P.86

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目黒(かむろ坂)少女の銅像。遊女・小紫の物語。

目黒不動交差点から武蔵小山方面へと抜けるゆるやかな坂道は、「かむろ坂通り」と呼ばれています。

江戸前期の延宝7年(1679年)、浪人・平井権八が辻斬り強盗の罪で鈴ケ森刑場において処刑されましたが、権八と恋仲となっていた遊女・小紫は、これを悲しんで自害しました。このとき、帰らない小紫を心配した「かむろ」がその帰り道にならずものに襲われそうになり、桐ケ谷二つ池に飛び込み自害しました。これを近くの人があわれんだことから「かむろ坂」の名称がつきました。

坂の途中にある公園は、かむろ坂公園と名づけられています。

「かむろ」にちなんだものでしょうか。少女の銅像があります。

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目黒(不動湯)目黒不動尊の近くにあります。

銭湯の「不動湯」。その名の通り、目黒不動尊の近くにあります。

鬼瓦には「不動」の文字。

堂々とした建物です。

天井が高く、柱も立派です。

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目黒(目黒競馬場跡地)競馬場の外周だったカーブを切る道。

目黒競馬場は、明治40年に開設され、昭和7年に第一回日本ダービーが開催されました。昭和8年に府中に移転しましたが、現在も競馬場の外周だったゆるやかなカーブを切る道が残されています。*1

バックストレッチ部分の直線を抜けたあたりに大きな桜の木のある公園があります。

この桜の木は、競馬場があった頃から生えていた木だそうです。当時の面影をしのぶことができます。

桜の由来。

【参考文献】
*1 赤岩州五:昭和・大正・明治の地図でいく東京懐かし散歩(交通新聞社,2009)P.44-P.47

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目黒(寄生虫館)巨大なサナダムシの標本。

目黒通りを大鳥神社から多摩大学目黒高等学校方面へ向かう坂道(金毘羅坂)を上る途中に、「目黒寄生虫館」があります。「目黒寄生虫館」は、昭和28年、亀谷了博士が開設した世界でただ一つの寄生虫の博物館です。

隠れたデートスポットとしても有名です。

2階の展示室の正面の壁には、巨大なサナダムシの標本(長さ8.8m)が展示してあります。このダナダムシの正式名称は日本海裂頭条虫といい、マス、サケ、ヤマメ類などを生に近い形で食べることによってそれらの魚にいる幼虫が人間の体内に入り、成長していくものです。*1

圧巻は、肥大した象皮病患者の陰嚢の写真です。象皮病はフィラリアという寄生虫が寄生することによって発症する病気で、江戸時代には全国的に分布し、葛飾北斎の版画や十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも登場します。西郷隆盛もこの病気にかかり、彼の陰嚢は大きかったといいます。*1

【参考文献】
*1 亀谷了:寄生虫館物語(ネスコ,1994)P.16-P.19,P.155-P.160

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目黒(エンペラー)ラブホテル史を塗り替えたホテル。

JR目黒駅から急な下り坂の行人坂を下ると、急坂が目黒雅叙園の入り口で終わって太鼓橋に出ます。目の前を流れる目黒川沿いには、桜並木の続く遊歩道が整備されていて、桜のシーズンには多くの見物客で賑わいます。
目黒川のほとりに、中世の城郭建築を模したラブホテルの「目黒エンペラー」があります。

昭和49年、「目黒エンペラー」の出現は、ラブホテル史を大きく塗り替えました。「目黒エンペラー」は、ラブホテルの代名詞となる画期的なラブホテルでした。外観だけでなく、内装もまた金をふんだんに使ったと言われ、仕掛け小道具も時代の先端をいくものでした。*1

当時の週刊誌やテレビは、競ってこのめずらしい豪華ラブホテルについて報じました。*1

ピンク映画もこのホテルを舞台に撮影され、また、テレビコマーシャルを行ったのもこの「目黒エンペラー」が最初でした。*1

【参考文献】
*1 保田一章:ラブホテル学入門(晩声社,1983)P.77-P.81

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目黒(テレクラ)乱立する看板。2階はマッサージ店。

今回は、目黒(東京都目黒区)の町並みと風俗を散歩します。

駅の北側に向かうとテレクラの看板が目に入ります。

1階のハンバーガーショップの入口の真横にテレクラの看板があります。テレクラは、会話を楽しむ場所として発祥しました。

2階はマッサージ店。飲食店などの看板が乱立しています。テレクラの入口は、このビルの左奥にあるようです。

参考文献

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大洗(白ポスト)貼り紙が前面に貼られているのみ。

ひたちなか海浜鉄道の那珂湊駅。

駅前に白ポストがあります。

「白ポスト」と書かれた貼り紙が前面に貼られているのみです。

側面も裏面も真っ白。塗装を塗り替えた後、何らかの都合で文字が書けない状況となり、やむなく貼り紙をはったのでしょうか。

参考文献

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大洗(スナック街)天満宮近く。カラフルな洋風の建物。

大洗の北側、那珂川を挟んだ対岸に位置する那珂湊。天満宮の近くにスナックの看板があります。

和風の佇まい。

対照的に、左側には、洋風のスナックが並んでいます。

赤、青、黄、カラフルです。

参考文献

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大洗(祝町遊廓跡地)妓楼の「鹿島屋」跡地。

かつて祝町遊廓があった場所は、現在は住宅地となっていて当時の面影は残っていません。

祝町小学校(写真奥)の北側の十字路。この付近には、昭和3年頃に廃業した大和楼がありました。*1

元住吉楼(現在は空き地)と祝楼(写真奥の道路の向こう側)があったあたり。*1

力士の「鹿ヶ島」が創業した妓楼の「鹿島屋」は、現在の「シーサイドミニー」付近にありました。写真奥に見えるのは海門橋(かいもんばし)。

【参考文献】
*1 山形雄三:祝町昔がたり(山形雄三,1981)P.66-P.67

参考文献

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大洗(鹿島屋大吉の墓)妓楼「鹿島屋」創建につながる相撲力士の立志伝。

祝町遊廓の有名な話の一つとして、妓楼の鹿島屋創建につながる一人の相撲力士の立志伝があります。寛政年間、那珂湊で相撲の巡業が開かれましたある日、会場に那珂湊の「樫村屋小重」というやくざの親分が会場に木戸銭も払わずに入場してきましたので、これを防ごうと鹿島出身の幕下力士「鹿ヶ島(鹿島屋大吉)」が大手を広げて立ちふさがり、力士対やくざの大喧嘩が始まりそうになりました。そこに那珂湊の廻船問屋の主人が仲裁に入り、大事には至らずにすみました。「鹿ヶ島」は十両まで昇進し引退しましたが、引退後は祝町にやってきて、喧嘩の仲裁に入ってくれた廻船問屋の主人を訪ね、資金を借りて当時売りに出されていた遊廓を買い取り、「鹿島屋」として創業しました。この鹿島屋大吉の墓は、現在、願入寺の本堂の右側にあります。*1

鹿島屋大吉の墓は、無縁仏の供養塔として利用されています。*1

墓の周りには多くの無縁仏の墓石が積まれています。

よくみると、「玄桃」、「紅葉」など、遊女や芸者の名が刻まれていることがわかります。*2

【参考文献】
*1 山形雄三:祝町昔がたり(山形雄三,1981)P.54-P.57
*2 大洗町史編さん委員会:大洗町史. 通史編(大洗町,1986)P.340-P.341

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大洗(竹楽房翁銅像)磯節に唱われた祝町遊廓。

祝町にある願入寺。

願入寺の入口に、「竹楽房翁銅像入口」と書かれた石柱があります。

明治時代、祝町遊廓の引手茶屋の主人だった渡辺精作は「竹楽房」と称し、磯節の作者として知られています。竹楽房は、遊女たちに文芸の趣味を与え、都々逸を作らせたりしました。*1

「磯で曲松、湊で女松、中の祝町、男まつ」と祝町遊廓は、磯節に唱われました。*2

【参考文献】
*1 山形雄三:祝町昔がたり(山形雄三,1981)P.74
*2 伊藤純郎:三浜漁民生活誌(崙書房,1990)P.51

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大洗(者楽亭跡)黄門様のお気に入り。隠居の茶室。

今回は、大洗(茨城県東茨城郡)の町並みと風俗を散歩します。
元禄8年(1695年)、徳川光圀(水戸黄門)は、水戸城下である祝町に遊廓を設置しました。祝い町に隣接する那珂湊は、当時水戸藩35万石の要港として栄えていて、旅客や海の男達の娯楽に遊廓設置が必要と考えられました。光圀は、祝町が特にお気に入りで、願入寺の裏山に設けた「者楽亭」を「隠居の茶室」と名づけ、祝町遊廓を「隠居の郭(さと)」と愛称し、自らも「洗濯屋」と号してご満悦であったといいます。*1

現在、願入寺の北側にある「者楽亭跡の碑」は雑木林の中に埋もれてしまっていますが、祝町を気に入っていた黄門様の遺構の一つです。

願入寺裏の涸沼川と那珂川が合流する地点、崖の上からの眺めは、水戸八景の「巖船の夕照」と名づけられています。

崖下のあたりの「呼ばり塚」と称される場所(写真左側のあたりと思われます)には、光圀にまつわる伝説があります。それは或る夏の日のこと。光圀は願入寺を訪れた際、あまりに暑いので、近くの那珂川で水中にもぐったところ、水底には絢爛豪華な屋敷がありました。大きな門をたたくと中から美しい女が現れましたが、「ここはお前たちの来るところではない。」と言われたので、やむを得ず帰ろうとすると、大アワビが門に密着して門をあけることができない。供の者がアワビを退治すると今度は、巨大なワカメにがんじがらめにされました。再び供の者が太刀でワカメを切り払い、九死に一生を得て岸にあがることができました。大アワビは遊女をさし、ワカメは彼女らの執拗な誘惑と解釈され、足しげく遊廓に通う侍達への警告であったと考えられています。*1

【参考文献】
*1 山形雄三:祝町昔がたり(山形雄三,1981)P.41-P.49

参考文献

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