長洲(ラブホテル)ホテルの直下は、急峻な崖。「ホテル」の看板。

駅館川から豊前長洲駅方面へは丘陵になっていて、丘の上にはラブホテルが建っています。

ホテルの看板。

ホテルの直下は、急峻な崖になっています。

登りきると、ホテルの入口です。

参考文献

参考記事

長洲(川岸の花街跡)通称「十二軒長屋」と呼ばれていました。

今回は、長洲(大分県宇佐市)の町並みと風俗を散歩します。
駅館川の川岸。日豊本線(写真右奥)の鉄橋の近くの長洲には、通称「十二軒長屋」と呼ばれた花街がありました。*1

現在は、数えるほどの飲食店が残るのみです。

料理屋(飲食店)だったと思われる建物。

現在は、スナック店が数店舗営業中です。

【参考文献】
*1 郷土出版社:中津・宇佐・豊後高田今昔写真帖(郷土出版社,2009)P.62-P.63

参考文献

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日奈久(ストリップ劇場跡)「ショー劇場」があった場所。

日奈久には、ストリップ劇場がありました。路上の案内看板に「ショー劇場」の記載があります。数年前まで営業していたようです。

現在は、建物だけが残されています。上部には、「ショー劇場」と書かれた看板が取り付けられていたのだと思います。

「本日の出演者」の看板。

入口に残されていた貼り紙。

参考文献

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日奈久(鍼灸院)マッサージクラブ。建物は風情があります。

日奈久温泉街には、鍼灸院があって、良いお湯と針灸の両方を受けることが出来ます。

温泉街に数軒の鍼灸院がありますが、その中でこちらの鍼灸院の建物は風情があります。

歴史を感じさせる「マッサージクラブ」の看板。

鍼灸マッサージ師会員章。

参考文献

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日奈久(温泉街のスナック店)昭和レトロな建物。料理屋やスナックが密集。

温泉街の中心部には、料理屋やスナックが密集していて昭和レトロな雰囲気です。

休業中のようですが、スナック店だったと思われる建物。

夜のスナック街。

温泉街中心部の案内図。スナック「栄子」の近くには、「男性天国クリニック」という店があった模様です。

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日奈久(金波楼)登録有形文化財。創業100周年を迎える老舗旅館。

今回は、日奈久(熊本県八代市)の町並みと風俗を散歩します。
日奈久温泉は、今から600年ほど前、1409年(応永16年)に発見された熊本県最古の湯治場です。
江戸時代の末には温泉町につきものの花街もありました。*1

金波楼は、創業100周年を迎える老舗旅館で、国の登録有形文化財(建築物)として登録されています。

広々とした玄関。

夜の金波楼。

【参考URL】
*1 八代地域振興局:八代歴史物語「日奈久物語

参考文献

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牛深(マキューン橋)マキュンが寄付した橋。

牛深の久玉町内ノ原(バス停「うしぶか温泉前」のすぐ近く)に、「マキュン橋」という名前の橋があります。上海公安局警視総監をしていたイギリス人、ケネス・ジョン・マキュンは、現地で結婚した夫人の小田ミキさんの故郷に昭和2年(1927年)以来住んでいました。マキュン橋は、そのマキュンが寄付した橋です。*1

小田ミキさんは、決して妾でも「からゆきさん」でもなく、上海への出稼ぎ人で、たまたま外国人と結婚して故郷へ帰ってきました。*1

カタカナで「マキューン橋」と書かれています。

ひらがなでは、「まきゅうんはし」。

こうした奉公は、商品経済の浸透した天草地方によくある出稼ぎの展開の一部でした。
【参考文献】
*1 森栗茂一:夜這いと近代買春(明石書店,1995)P.90-P.91

参考文献

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牛深(堀田牛乳の牛乳箱)ハイ牛乳。牛深市街の商店街。

牛深市街。商店街が続きます。

堀田牛乳の牛乳箱。天草の乳業メーカーのようです。

箱の側面には、「堀田ハイ牛乳」と書かれています。

上蓋が開いたままの状態になっていました。

参考文献

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牛深(旅館「宝洋館」)狭い路地が海に向かって延びています。

牛深港前の県道35号線沿いに、旅館「宝洋館」の看板があります。

看板に導かれて路地を進むと、旅館の入口が見えてきます。世浦地区の「せどわ」のように、狭い路地が海の方向へ向かって伸びています(写真奥は牛深港)。

旅館の入口。

海側から見た路地。

参考文献

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牛深(世浦地区のせどわ)昔の面影を色濃く残しています。

牛深の加世浦地区では、「せどわ」と呼ばれる昔の家並みが残っています。

「せどわ」は、山と入江が多く、平坦地が少ない牛深に特有のもので、瀬戸(裏口)が語源で、狭い場所という意味も含まれたこの言葉通りに、細い路地に沿って何軒もの家が軒を連ねています。同じ船に乗る人たちが近くに集まって住んでいたため、船頭さんが肥えで出漁の合図をすると数分で船に集まることができました。(うしぶか海彩館の案内板より)

「せどわ」の路地は、住宅と住宅の隙間を縫うように分布し、海に向かって内部から多くの「せどわ」が伸びているのが特徴です。*1

漁村の民家。昔の面影を色濃く残しています。

【参考文献】
*1 荒武賢一朗:天草諸島の歴史と現在( 関西大学文化交渉学教育研究拠点)P.235-P.237 張麗山 漁村における民間調査

参考文献

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牛深(三浦屋跡)「五足の靴」で描かれた遊廓の跡。

古久玉に残されている遊廓跡としては、もう1軒「三浦屋」があります。*1*2*3

明治40年(1907年)8月10日、五足の靴一行(与謝野寛が、北原白秋、木下杢太郎、平野万里、吉井勇)は、牛深町の今津屋本店(現在、この場所には、「五足の靴文学碑」が設置されています。)に宿泊し、夜は牛深の街を散策して、翌日三角港へ旅立ちました。

「五足の靴」第13章には、「夜街を散歩して漁師町の芬々(ふんぷん)たる異臭、はた暗い海浜を通って、終に土地の遊女町に出た。ただ三軒のみで、暗き灯、疎なる垣、転(うた)た荒涼の感に堪えなかった。上の家に桔槹(はねつるべ:井戸水を汲み上げるための用具)の音が聞こえて、足下に蟋蟀(こおろぎ)が鳴くなどは真に寂しい。」と当時の様子が描写されています。*1

「三浦屋」の母屋裏。「五足の靴」にも書かれた外井戸があります。*1*4

【参考文献】
*1 鶴田文史:天草潮深のふるさと(牛深歴史文化遺産の会,2007)P.332-P.341
*2 牛深観光ボランティアガイド:牛深浦周辺ガイド
*3 荒武賢一朗:天草諸島の歴史と現在( 関西大学文化交渉学教育研究拠点)P.217-P.232 亀井拓 牛深と遊廓
*4 五人づれ:五足の靴(岩波書店,2007)P.55

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牛深(紅裙亭跡)牛深遊廓跡。戦後は、赤線に移行。

牛深の遊廓は、古久玉(こくたま)に存在しました。明治7年に牛深に熊本県から遊廓の設置が許可され、それ以後、徐々に遊廓数は増え続けました。*1*2*3
戦後は、赤線に移行したと思われ、「全国女性街めぐり」*4 には、「天草南端、ここまでくるとまったく孤島の感じ。8軒の旅館に女が入る。赤線は7軒で、この種の女は35名ほど。本島人が行くと猛烈によろこぶ。その慕わしそうに見る瞳の色は行かないとわからない。」との記載があります。

現在も紅裙亭の建物が残っています。

玄関の看板。

建物の東側。

【参考文献】
*1 鶴田文史:天草潮深のふるさと(牛深歴史文化遺産の会,2007)P.332-P.341
*2 牛深観光ボランティアガイド:牛深浦周辺ガイド
*3 荒武賢一朗:天草諸島の歴史と現在( 関西大学文化交渉学教育研究拠点)P.217-P.232 亀井拓 牛深と遊廓
*4 渡辺寛:全国女性街・ガイド(季節風書店,1955)P.194

参考文献

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牛深(古久玉の小路)かつてこの近くに遊廓がありました。

牛深市街の北側の古久玉。道幅の狭い小路の入口にスナックの見えます。

古久玉は、かつて遊廓があった場所ですが、その周辺にスナック店が密集する一画があります。

現在は、住宅街となっている通りに、モダンな建物が建ち並んでいます。

逆方向から見たところ。ゆるやかな坂道になっています。

参考文献

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牛深(ハイヤ節の碑)全国に広まりました。

今回は、牛深(熊本県天草市)の町並みと風俗を散歩します。
牛深は、ハイヤ節発祥の地です。

牛深港には、牛深ハイヤ節の碑があります。
ハイヤ節とは、港町の酒宴の騒ぎ唄として全国に分布しているもので、牛深港で生まれたものです。*1

大正時代、牛深は、「牛深三度行きゃ三度裸、鍋釜売っても酒盛して来い」という俗謡(ハイヤ節)でその名を知られた女の評判な所で、お客と女との関係は、夫婦関係(同じ客を争奪しない)同然で、長逗留の客は自宅へ連れられ、花婿のように歓迎されました。町はずれの久玉(くたま)というところには、待合(遊廓)があって、待合以外の場所で寝泊まりすることはご法度となっていました。*2

牛深ハイヤ節は、その南国的陽気さが人気を呼び全国に広まりました。越後のオケサ節(佐渡オケサが有名)、津軽アイヤ節などの分派を生み、川を遡っては山村の盆踊り唄ともなりました。*1

【参考文献】
*1 大塚民俗学会:日本民俗事典(弘文堂,1994)P.560
*2 宮武省三:習俗雑記(坂本書店,1927)P.24-P.31 「牛深女と其俗謡に就いて」

参考文献

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勝山(スナック店)旧遊廓街の周辺に点在。

勝山の旧遊廓街の周辺には、スナックが点在しています。

旧遊廓街の北側。

スナックの案内看板。

1階が和風パブに改装されている建物。

参考文献

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勝山(花街跡)タイルの装飾。屋根の部分の装飾。

花街の南端にある木造の建物。

屋根の部分の装飾。

赤線跡を歩く.完結編*1 に掲載されてるタイルの装飾。

建物の下部全体が黄色のタイルで装飾されています。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く.完結編(自由国民社,2007)P.24

参考文献

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勝山(花街跡)川原通りの南端

川原通りの南端にある料理店。

地元の方の話によると、花街だった頃の名残を残す建物だそうです。

丸窓まどの外観に特徴があります。

重厚な木造の建物です。

参考文献

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勝山(勝山遊廓跡地)当時の名残をとどめる建物。

今回は、勝山(福井県勝山市)の町並みと風俗を散歩します。
勝山市街の河原通りは、明治時代より栄え、料亭、貸席、遊廓や置屋などが並び賑わいをみせていた勝山唯一の花街でした(写真右手前の案内板より)。

現在も遊廓の名残をとどめる建物が残されています。

名残をとどめる建物は、通りの片側に集中していますが、地元の方の話によると、当時は通りの反対側(写真奥)にも料亭などが建ち並んでいたそうです。

大半の建物は改築されていて、当時の面影は少なくなりつつあります。

参考文献

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三国(山田牧場の牛乳箱)ひらがなで「やまだ」。

山田牧場の牛乳箱。古い町並みに、木製の牛乳箱が似合います。

上から見たところ。

住宅地にあった山田牧場の牛乳箱。

側面には、ひらがなで「やまだ」と書かれています。

参考文献

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三国(白ポスト)キンダーホール三国玄関脇。南本町三丁目。

三国町南本町三丁目。ここに、坂井市の「キンダーホール三国」があります。

「キンダーホール三国」は、児童、生徒の健全育成を図るため、坂井市教育委員会が運営している施設です。

施設の玄関脇に白ポストがあります。

白ポストの側面には、「青少年愛護センター」と書かれています。

参考文献

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三国(出村遊廓跡)かつての華やかな時代の名残。

松ヶ下から上ハ町の地に移った遊廓は、鉄道開通後は駅前となったので、現在の出村に移りました。*1

三国は、遊廓の町並みが保存された数少ない町です。

かつての華やかな時代の名残が残っています。

腰廻りに石材が配置された店。

【参考文献】
*1 岡本文弥:遊里新内考(同成社,1967)P.13-P.15

参考文献

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三国(見返り橋)最近、案内板が建てられたました。

三国町神明3丁目に、「見返り橋」があります。最近設定されたと思われる案内板があります。

「三国節」の歌詞に、”唄の上ハ町 情けの出村 わずか隔てて地蔵坂”とありあます。三国には、福井藩領の「上ハ町(うわまち)」と丸岡藩領の「出村(でむら)」に遊廓があって、二つの遊廓を繋ぐ坂道が地蔵坂(じぞうざか)でした(案内板の説明より)。
写真の奥が地蔵坂です。その名の通り、坂を登ったところに地蔵があります。

案内板に江戸時代の絵図に「見返り橋」の場所が記されています。有名な思案橋は、同じ辰巳川の川下側にあります。

現在の辰巳川。一部は暗渠になっています。

参考文献

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三国(豊田屋歌川の句碑)妙海寺。三国の遊女にして俳人。

三国町山王にある妙海寺。ここに、豊田屋歌川の句碑があります。

「豊田屋歌川(とよだやかせん)」は、三国の遊女にして俳人(俳号を哥川)のことで、江戸時代中後期に活躍しました。*1

歌川の代表作「奥底の知れぬ寒さや海の音」。心にしみる名句です。*1

歌川の墓とされる豊田屋の墓。歌川の法名とされる「釈尼妙春」が刻まれています。

【参考文献】
*1 久保悌二郎 :遊女・豊田屋歌川(無明舎出版,2011)P.7,P.83,P.103-P.109

参考文献

参考記事

三国(松ヶ下)三国の新地は、最初は西光寺付近、松ヶ下一帯にありました。

三国の新地は、最初は西光寺付近、松ヶ下一帯にありました。*1

三国祭の山車格納庫の壁面に、松ヶ下に関する案内板があります。それによると、遊廓が上新町に移転された後は、松ヶ下は商人街となり、繁栄しました。

現在も商人街の名残が、残されています。

旅館の建物。

【参考文献】
*1 岡本文弥:遊里新内考(同成社,1967)P.13

参考文献

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三国(遊女の墓の玉垣)松ケ下西光寺。遊廓関係者の寄進者の名前

西光寺の遊女の墓の周囲の玉垣には、芸妓組合など、遊廓関係者の寄進者の名前があります。

料理屋組合。

遊廓三業組合。

「貸」以下の文字が削り取られた玉垣。

参考文献

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三国(松ケ下西光寺)三国小女郎の墓。三国で最も古い遊里として賑わいました。

今回は、三国(福井県坂井市)の町並みと風俗を散歩します。
松ヶ下一帯(西光寺付近)は、古くからの船着場で、三国で最も古い遊里として賑わいました。この遊里には、三国小女郎や歌川などの名妓が出ました。*1
宝永8年(1680年)に編さんされた「色道大鏡」*2 の中に、「三国の傾城は、松が下と上新町にあたりにあり、此内揚屋がある出村は竪町と地蔵町とに有。」と記されていて、三国における遊廓の発展ぶりがうかがえます。

西光寺の境内には、当時の遊女の墓が残されています。

三国小女郎(袋屋春路)のものとされる墓。春路は小女郎の本名です。*1

一番奥の墓石の正面は、文字が削られていて判別できませんが、側面には「女郎」とかろうじて判読できそうな文字が刻まれています。

【参考文献】
*1 岡本文弥:遊里新内考(同成社,1967)P.13
*2 藤本箕山,新版色道大鏡刊行会編:色道大鏡.新版(八木書店,2006)P.378

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