羽原清雅「門司港」発展と栄光の軌跡夢を追った人・街・港書肆侃侃房2011
P.49 二葉券番
P.48-P.49 いまの三宜楼の建物からごく近くに錦町公民館があるが、ここはかつて二葉券番があったどころだ。この二葉券番は、1937(昭和12)年に、錦町、仲町、馬場などの券番が合併して開設されたという(角川日本地名大辞典・福岡県編)。ただ、90歳を超えるまで、門司芸者のナンバーワンだった西村二三子(芸妓名 小玉)の書き残したものには、「明治時代に町券番と門司券番があり、大正三年になり両券番が合併して双葉(二葉)券番となった」とある。角川本のいう「昭和12年」は、芸者たちの長屋があったところに、新しく券番の建物を立ち上げた年であり、合併はそれ以前だったことの方が正しい。西村によると、この券番に所属していた芸妓は、「大正時代に約100名、昭和時代の最盛期には200名以上おりました。」という賑わいだった。
P.41-P.92 三宜楼周辺
P.43-P.50 1906年(明治39年)6月16日付の門司新報の紙面に「三宜楼」(さんきろう)の記事。 「門司郷土叢書 楠村志」(第109巻)を見ると、「門司最初の料亭」としてあげられているのは、清滝の海に面した「速門楼」と山に向かう「不老園」である。1893年(明治26)10月17日の開店、とある。門司は繁盛しはじめており、十か月後には、日清戦争が始まるころだった。 明治39年ごろには、三宜楼は、5年ほどで手狭なために同じ清滝に新築・移転した。 P.51-P.53 昭和初期、門司の花柳界は、純日本式料亭で百人、二百人を収容できる三階建ての豪華な高楼が概ね次の通りであった。  対潮楼(広石電停上の中腹)  速門楼(清滝区役所裏 門司倶楽部途中)  三笠(清滝で後の料亭「松尾」)  三宜楼(清滝で建物現存)  菊の家(錦町 ダイヤモンドホテルの位置)  金龍亭(港町の現料亭「にしき」所在地)  群芳閣(ぐんぽうかく)(桟橋通り、建物は戦災後、縮小再建したもの)<注:2016年売却され、オフィスビルに>  萬檣楼(ばんしょうろう)(国道トンネル右上 現隆文堂所在地)  芳翠園(現山田氏邸) この外に、公認の馬場遊廓に娼妓の外、芸妓十数名がいた。さらに、非公認の私娼は、恵比寿町、川端町、大阪町などに多数存在して船員や労働者を相手にしていた。 P.70-P.73 三宜楼は、五メートルほどの高い石垣の上に築かれた木造三階建ての和風建築である。港に近く、かつては門司港を眼下に見下ろす眺望が売り物でもあった。「門司港地区の歴史的木造建造物に関する実態調査報告書(2005年3月)」によると、建物の外観の特徴は寺院や城郭などに見られる入母屋の屋根と外壁の堅板張りにある。瓦葺きの屋根は、二階の大広間の大屋根と、縁部分の一段下がった屋根の二重構造で、これが重厚さを醸し出している。