: *扇田酒屋物語 (*扇田酒屋物語,1986)P.17-P.18

ここで、扇田の料理屋として、かつて最も古く長い歴史を保持した菅岩(菅岩倶楽部)について触れてみたいと思う。 創業者は、菅原喜之助、千葉県天津町の漁師の家に生まれ、若い頃外人の昆虫採取に雇われ天草や横浜で働いていた。明治30年頃か外人の依頼をうけ砂金と蝶々採取の仕事のため各地を訪ね歩き扇田ににも寄る。しかしこの仕事は失敗に終わり、町の有力者の後援を得て餅屋を開業する。これが菅岩の前身となるのである。明治44年に建築、菅岩倶楽部として創業、のち昭和5年創業20周年を記念して菅岩倶楽部を扇田倶楽部と改称、一般に広く集会、貸席に切り替え営業した。創業時の建物は昭和20年前後に解体、その後建てたものが昭和59年まで現存していたが、現在は生協の駐車場となっている。

P.17-P.18 明治から、大正、昭和(33年頃)の間、扇田にあった料理屋、カフェー、茶屋は次の通りである。 (※大日本職業別明細図と照合すると、本書で記載されている「第一新開地」「第二新開地」の屋号は、「第二新開地」と「第一新開地」の屋号と入れ替わっていると思われ、記載を変更して掲載しています。) 第一新開地 竹廻家、琴富貴亭、瓢家、藤家、永平亭(朝鮮料理屋)、ひさご屋(のちの八郷倶楽部)、松月、スピートカフェ、ことぶき、料亭あけぼの、羽州屋、食堂カフェー八郷、松川亭、カフェー菊水(藤家跡)、クラブ茶月、カフェー鈴蘭、扇の家、三日月亭(旧松月)、清喜亭、アイコクカフェ岩木家、若松屋、田美屋(清喜亭)、美吉家(竹の家跡) 第二新開地 末廣家、いろはや、カフェー喜楽、山田屋、白川屋、大正亭、一二三屋、吉乃屋、清水亭、昭和館、アカツキ(喜楽跡)、カフェー暁、モダンカフェー朝日亭(山田屋跡) 新丁、裏通り 花月亭、菅岩倶楽部(のちの扇田倶楽部、菅岩)、カフェー昭和軒 茶屋 永田、佐々木、万田、小松、日沼、村上、乳井、西島、他数軒

P.17-P.18 元禄宝永の頃といえば今から300年近い以前のころとなる。両鉱山(尾去沢鉱山、大葛金山)が栄え、それに伴った人の往来、人口の増加は自動的に消費を生み経済の活性化につながるのは昔も今も同じであろう。そして商業が栄え、同時に料理屋、茶屋などの飲食店が軒を並べたものと推定される。もともと扇田には料理屋、料亭、茶屋の類が多かった。旦那衆は料亭に上がったが、大衆は茶屋が一般向き。ともに繁盛した。 明治23以降、裏通り、新丁他に散在していた料理屋を文教上、風紀上の理由から県の指示で米代河畔に移転させ、これが第一新開地となり、のち20数年たった昭和4年頃に第二料理屋指定地問題が起こり、町議会で審議、のち道路整備の上曙町、現在の上扇田に二つ目の遊里が誕生するのである。この遊興の里は、第一新開地、第二新開地の呼称で東西に分かれ、その盛衰は第二新開地は新興地として伸び、反対に第一新開地は衰微のパターンを辿るのであるが、その全盛期は昭和8ね前後だったという。この頃は大変な不景気だったが・・・。当時各料理屋は東西に対立して客の吸収、美妓の雇い入れにしのぎを削り遊客の流れが第一から第二へ第二から第一へとハイヤーを利用した往来が激しかったそうである。これがまた絶えず紛糾の種となったとも言われている。芸妓は料理屋の内芸者として何人かいたが、酌婦が主で50人ぐらいはいたという。