*千葉雄: *扇田酒屋物語 (比内町教育委員会,1986)P.17-P.18

P.17-P.18
元禄宝永の頃といえば今から300年近い以前のころとなる。両鉱山(尾去沢鉱山、大葛金山)が栄え、それに伴った人の往来、人口の増加は自動的に消費を生み経済の活性化につながるのは昔も今も同じであろう。そして商業が栄え、同時に料理屋、茶屋などの飲食店が軒を並べたものと推定される。もともと扇田には料理屋、料亭、茶屋の類が多かった。旦那衆は料亭に上がったが、大衆は茶屋が一般向き。ともに繁盛した。
明治23以降、裏通り、新丁他に散在していた料理屋を文教上、風紀上の理由から県の指示で米代河畔に移転させ、これが第一新開地となり、のち20数年たった昭和4年頃に第二料理屋指定地問題が起こり、町議会で審議、のち道路整備の上曙町、現在の上扇田に二つ目の遊里が誕生するのである。この遊興の里は、第一新開地、第二新開地の呼称で東西に分かれ、その盛衰は第二新開地は新興地として伸び、反対に第一新開地は衰微のパターンを辿るのであるが、その全盛期は昭和8ね前後だったという。この頃は大変な不景気だったが・・・。当時各料理屋は東西に対立して客の吸収、美妓の雇い入れにしのぎを削り遊客の流れが第一から第二へ第二から第一へとハイヤーを利用した往来が激しかったそうである。これがまた絶えず紛糾の種となったとも言われている。芸妓は料理屋の内芸者として何人かいたが、酌婦が主で50人ぐらいはいたという。