堀切直人 浅草 大正篇 右文書院 2005.7

十二階と十二階下

P.35 凌雲閣(十二階)は,明治22年10月に建設計画が発表され、十二階は、明治23年の4月から7月にかけて上野公園で開催された第三回内国勧業博覧会の遊覧客をあてこんで同年の1月に建設が始められていたが、予定より大幅に遅れて、博覧会が終わってから4か月後の同年11月に、ようやく開場に漕ぎつけた。そのかわり、遅れた分、十二階の内部デザインには博覧会のレトリックが大幅に取り入れられることになった。十二階は、上野の「博覧会の祝祭的な部分だけをきりはなして常設化した巨大なあアソビの空間」(前田愛「塔の思想」)であったのだ。 P.42 銘酒屋の誕生は、十二階の開場よりも以前に遡る。明治18年に奥山の見世物小屋や料理屋が六区へ移されたとき、奥山に8軒の銘酒屋が出現した。この銘酒屋は明治24、5年頃には発展の翼を東京市中へ広げていき、音羽の護国寺、谷中の寺町、深川、本所、本郷の丸山福山町、などに撒き散らされた。これら東京市中に散在していた銘酒屋は、明治30年ごろには浅草へ集められ、浅草の銘酒屋は70数件に増えた。そのあと、明治34年から40年頃にかけて銘酒屋普及時代で、100軒以下だったものが、わずか5、6年のうちに一躍数百件の多きに達した。東町の両側までのほとんどが私娼の巣窟で満たされるにいたり、さらに明治末から大正6年、7年の好況時代にかけて、魔窟の拡大はよりわら遊廓を圧倒する勢いを示した。最盛期の大正5年には、「浅草公園には870何軒かの淫売屋が密集し、1700人の私娼群が北東京の一Ⅰ中心を作って、五区の観音裏、六区の活動裏、十二階下の千束町一帯の、陰惨な路地の両側には、世を忍ぶ新聞縦覧所、和洋銘酒の軒灯が、トンネルのようにずらりと並んでいた。」(浜本浩二「浅草の灯」)。この最盛期には、「浅草区役所の収入の大部分が、彼女達の納むる税金で持っていた。」(夢野久作「東京人の墜落時代」)ともいう。十二階下の銘酒屋は、「六区といえば銘酒屋」といわれたくらい、日本全国津々浦々まで知れ渡っていた。

六区の活動写真街を行く

P.19 明治36年には六区に、日本最初の活動写真の常設館として、「電器館」が開設された。電器館は、電気知識の普及という名目で、電気仕掛けの器具類を応用した見世物を並べた小屋であったが、やがて経営が行きづまって、経営者が夜逃げした。そこで、後に残った事務員が吉沢商店へ頼み込んでフィルムの配給受け、歩合で活動写真の上映を始めた。最初は、経営困難だったが、日露戦争が始まると、戦況を知らせる実写映画が毎週、新たに打てるようになって客足が伸び、明治38年からは吉沢商店の直営館となった。「日本映画発達史・第一巻」に載っている映画技師の談話によれば、「見物人は腰掛もない土間に立たされて、下駄ばきで、人の肩越しにのぞくという、乱暴な開業ぶりだった。」もっとも、逆に、履物を下駄番に預ける面倒がなく、下駄履きのままで見られる気軽さと、入場料の安さが、電器館を成功させたものでもあった。