堀切直人 浅草 大正篇 右文書院 2005.7

銘酒屋の誕生

銘酒屋の誕生は、十二階の開場よりも以前に遡る。明治18年(1885年)に奥山の見世物小屋や料理屋が六区へ移されたとき、奥山に8軒の銘酒屋が出現した。この銘酒屋は明治24、5年頃には発展の翼を東京市中へ広げていき、音羽の護国寺、谷中の寺町、深川、本所、本郷の丸山福山町、などに撒き散らされた。これら東京市中に散在していた銘酒屋は、明治30年ごろには浅草へ集められ、浅草の銘酒屋は70数件に増えた。そのあと、明治34年から40年頃にかけて銘酒屋普及時代で、100軒以下だったものが、わずか5、6年のうちに一躍数百件の多きに達した。東町の両側までのほとんどが私娼の巣窟で満たされるにいたり、さらに明治末から大正6年、7年の好況時代にかけて、魔窟の拡大は吉原遊廓を圧倒する勢いを示した。最盛期の大正5年には、「浅草公園には870何軒かの淫売屋が密集し、1700人の私娼群が北東京の一中心を作って、五区の観音裏、六区の活動裏、十二階下の千束町一帯の、陰惨な路地の両側には、世を忍ぶ新聞縦覧所、和洋銘酒の軒灯が、トンネルのようにずらりと並んでいた。」(浜本浩二「浅草の灯」)。この最盛期には、「浅草区役所の収入の大部分が、彼女達の納むる税金で持っていた。」(夢野久作「東京人の墜落時代」)ともいう。十二階下の銘酒屋は、「六区といえば銘酒屋」といわれたくらい、日本全国津々浦々まで知れ渡っていた。