清水克志銚子における紀州移民の定着と港町形成に果たした役割:とくに興野地区の特徴形成と大新旅館を例として歴史地理学調査報告 第12号筑波大学歴史・人類学系歴史地理学研究室2006.03 リンク

紀州移民の定着

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正保2年(1645)、広屋儀兵衛(浜口家、ヤマサ)が、宝永5年(1708)には広屋重次郎(岩崎家、ヤマジュウ)が紀伊国有田郡広村から荒野村へ移住し醤油醸造業を開始した。宝暦4年(1754)には、飯沼村の有力商家でもあった田中玄蕃(ヒゲタ醤油)を筆頭とし、11軒の醤油醸道家によって銚子醤油組が結成された。銚子における醤油醸造業が荒野村を核心地域として展開し、そこに紀州移民が深く関わっていたことがうかがえる。

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また、紀伊国有田郡殿付から荒野村へ移住し、納屋場に屠を構えて宿屋業に携わった大坂屋新六・新兵衛(垣内家、大新)など、紀州移民が醤油醸造業だけでなく、多様な業種に携わっていたことを示している。垣内家の初代大坂屋新六(明和元~寛政9年(1764~87))は,屋号を「大新」とした。

木国会の活動

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明治31年(1898)、銚子における紀州移民が先祖を礼拝し、「お互に親睦、業を励ます」目的で、紀州移民の同郷会組織である木国会が結成され、明治36(1903)年には、旧紀州藩主徳川茂承に揮毫を依頼し、「紀国人移住碑」を建立した。碑文の概要は、以下の通りである。
僻遠の地であった銚子へ、紀州人の崎山某らが寛永・正保期にやってきて漁場を開くことに成功し、その後紀州から銚子へ移住する人が増加した。これをきっかけとして商工業者が各地から集任した結果、銚子港は関東屈指の要港となった。

近代における大新旅館の経営

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大新旅館の7代目政次は、大新旅館を発展させた人物であった。7代目政次の時代には、小松宮殿下や開院宮殿下、徳川慶喜といった皇族や華族、伊藤博文・山牌有朋・大山巌・西郷従道・大隈重信・後藤新平など中央政府の要人、島崎藤村や竹久夢二・黒田清輝・徳富麗花といった文人など、著名な人物が大新旅館へ多数来泊した。
第二次世界大戦以前の大新旅館では、料理人や女中、下足番などを含め40人ほどの便周人を雇用していた。当時の大新旅館は、銚子の外からの要人を迎える「迎賓館」であり、銚子の旦那衆の「社交場」としての役割を果たしていた。

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大新旅館は、昭和20年(1945)の空襲によって、その大部分を消失した。昭和23年(1948)頃には現在本館と呼ばれている部分を再建した。これによって、玄関の向きも、戦前の西向きから南向きへと変わり、玄関の脇にはサロンを設け、外国人を雇って営業した。

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大新旅館の経営者である垣内家も、紀州移民を先祖とする家のひとつである。垣内家の祖先は、紀州から移住して荒野村に居を構えた当初は酒造業を営み、後に旅館業ないし料理業に転業したと
いう伝承をもつ、銚子における紀州移民の典型的な事例のひとつである。

この文献を参照している記事

銚子(大新旅館)360年の伝統。銚子の旦那衆の「社交場」。
銚子(移住碑)漁場を開くことに成功した紀州移民。