すべてのジャンル > 娯楽・レジャー > 行楽・観光 浅草公園 観光旅館 1旅館 2白川郷 3外国人用ゲストハウス 4旅館大宗 5ビジネス旅館 6割烹旅館玉川 7船橋漁港近くのホテル 8横浜中華街 遊園地 9ビルの屋上 10荒川遊園 11本牧十二天緑地 12屋上観覧車 13花やしき 14閉園した屋上遊園地 15ヘルスセンター跡 16屋上遊園地 展望塔 17凌雲閣 18三愛ビル 車・ドライブ 19幕張メッセ 繁華街(観光地) 20仲見世 都市公園 21「含翠楼」跡 22高級料亭「萬松楼」跡
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銘酒屋の誕生

銘酒屋の誕生は、十二階の開場よりも以前に遡る。明治18年(1885年)に奥山の見世物小屋や料理屋が六区へ移されたとき、奥山に8軒の銘酒屋が出現した。この銘酒屋は明治24、5年頃には発展の翼を東京市中へ広げていき、音羽の護国寺、谷中の寺町、深川、本所、本郷の丸山福山町、などに撒き散らされた。これら東京市中に散在していた銘酒屋は、明治30年ごろには浅草へ集められ、浅草の銘酒屋は70数件に増えた。そのあと、明治34年から40年頃にかけて銘酒屋普及時代で、100軒以下だったものが、わずか5、6年のうちに一躍数百件の多きに達した。東町の両側までのほとんどが私娼の巣窟で満たされるにいたり、さらに明治末から大正6年、7年の好況時代にかけて、魔窟の拡大はよりわら遊廓を圧倒する勢いを示した。最盛期の大正5年には、「浅草公園には870何軒かの淫売屋が密集し、1700人の私娼群が北東京の一Ⅰ中心を作って、五区の観音裏、六区の活動裏、十二階下の千束町一帯の、陰惨な路地の両側には、世を忍ぶ新聞縦覧所、和洋銘酒の軒灯が、トンネルのようにずらりと並んでいた。」(浜本浩二「浅草の灯」)。この最盛期には、「浅草区役所の収入の大部分が、彼女達の納むる税金で持っていた。」(夢野久作「東京人の墜落時代」)ともいう。十二階下の銘酒屋は、「六区といえば銘酒屋」といわれたくらい、日本全国津々浦々まで知れ渡っていた。

公園制度の誕生

1873年(明治6年)、政府(太政官)から出された布告(「府県は公園に見合う土地を選定して申し出よ」という通達)が公園制度の発祥である。これに従って、東京府は太政官に対して、浅草寺(浅草公園)、寛永寺(上野公園)、増上寺(芝公園)、富岡八幡宮(深川公園)、飛鳥山(飛鳥山公園)の5カ所を公園として伺い出、同様に各府県からも伺いが出された。その公園とは、開国にともない、横浜や神戸などの居留地に外国人が設置を求めた公園(野外レクレーションの場)やいくつかの使節団が見聞した海外の情報から得られた西欧の公園がモデルになったとみられている。しかし、布告の本質的なねらいは、明治6年7月から始まる地租改正にともなう官民の土地所有の峻別化(土地所有者が不明確であった社寺境内地に公園という土地種目を設定することにより、官有ながら社寺の経営を認め、土地を貸して借地料・地方税をとることにできる地目とすること)にあった。たとえば、「浅草公園」では、仲見世などから得た借地料が、東京市の重要な財源となった。

凌雲閣(十二階)開場

凌雲閣(十二階)は,明治22年(1889年)10月に建設計画が発表され、十二階は、明治23年の4月から7月にかけて上野公園で開催された第三回内国勧業博覧会の遊覧客をあてこんで同年の1月に建設が始められていたが、予定より大幅に遅れて、博覧会が終わってから4か月後の同年11月に、ようやく開場に漕ぎつけた。そのかわり、遅れた分、十二階の内部デザインには博覧会のレトリックが大幅に取り入れられることになった。十二階は、上野の「博覧会の祝祭的な部分だけをきりはなして常設化した巨大なあアソビの空間」(前田愛「塔の思想」)であったのだ。

「公園出稼仮条例」布達

(戊辰戦争時の)上野の戦争で山下(上野山の東側の麓一帯)を追われた諸興行場が奥山にながれこみ、浅草公園の奥山の出店・小屋掛けの総数は250を超えていた。(やむなく、現状を認めるかたちで、)明治11年10月12日に「公園出稼仮条例」が布達され、従来の奥山の門限(午後6時)の延長(午後12時)が規定されたが、これは、楊弓場(ようきゆうば)や水茶屋などの”今日でいう風俗営業”に属する者には口実を与えたことになり、深夜営業のその結果は、後年の浅草公園が背負う暗影の一因となった。

大宮(高級料亭「萬松楼」跡)現在は動物園・遊園地。

大宮公園の園内にある動物園・遊園地。

遊園地(児童スポーツランド)。

動物園が隣接しています。

現在の動物園から遊園地にかけての一帯は、高級料亭「萬松楼」があった場所です(案内板より)。
萬松楼は、敷地内に鉱泉を掘り当てたことから明治二十一年に開業した料亭・旅館です。明治二十四年十月には正岡子規と夏目漱石が滞在しました。*1

参考文献

*1 沼田尚道 「青年」に描かれた大宮公園 森鴎外記念会 鴎外(97) 2015.7
六 萬松楼と八重垣
P.59 萬松楼は、敷地内に鉱泉を掘り当てたことから明治二十一年に開業した料亭・旅館で、大宮公園内に在…

大宮(「含翠楼」跡)建築は、機密費により賄われました。

「大宮公園」は大宮駅の東北、約1.5kmに位置しています。明治6年の太政官布達を受け、明治18年に氷川公園の名称で誕生しました。*1

木々に囲まれた美しい公園です。

「ブラタモリ」でも放映された料亭跡の庭石。
明治四十三年に、大宮公園に三業組合が組織されました。*2

「含翠楼(がんすいろう)」は、氷川公園開設当初(明治18年)に建設されました。
含翠楼の建築費は、吉田県令の機密費(本庄、深谷の遊廓から徴収された税金)により賄われました(案内板より)。

参考文献

*1 大宮公園 大宮公園 公式ホームページ リンク
施設概要 「大宮公園」は大宮駅の東北、約1.5kmに位置しています。明治6年の太政官布達を受け、明治18年…
*2 沼田尚道 「青年」に描かれた大宮公園 森鴎外記念会 鴎外(97) 2015.7
七 含翠楼からする三味線の音
P.61 「青年」が「昴」に連載開始された明治四十三年は、大宮公園に三業組合を組織された年でもある。時…

船橋(割烹旅館玉川)大正10年に営業を開始。国登録有形文化財。

今回は、船橋(千葉県船橋市)の町並みを散歩します。
船橋駅の南側。国道14号線(旧道)沿いから少し南は入ったところに、割烹旅館玉川があります。

風情のある和風旅館の建築です。

玄関付近。

割烹旅館玉川は、大正10年に営業を開始。内部は意匠の凝った小部屋が迷路のように配されています。かつて、この付近は埋め立てが行われる以前は海岸線であったことを偲ばせてくれる建物です。現在は、国登録有形文化財になっています(案内板より)。

銀座(三愛ビル)1963年開業の銀座のランドマーク。

1963年開業の三愛ドリームセンターは、現在も銀座のランドマークとして君臨しています。

2階の喫茶店の窓際席からは、銀座の景色を楽しめます。

3階のビルからは下着姿の女性が交差点を見下ろしています。

2階の喫茶店からの眺める銀座の風景。

蒲田(屋上遊園地)観覧車は1968年開園当初から営業。

蒲田駅前の東急プラザ蒲田店には、屋上遊園地があります。

蒲田に屋上遊園地が出来たのは1968年。開園当初から観覧車が営業していました。その後2014年に、「かまたえん」としてリニューアルオープンしました(案内板より)。

観覧車からの眺め。以前と比べ遊具が少なくなりましたが、蒲田の憩いの場として営業中です。

観覧車の頂上付近からの遠望。

築地(旅館大宗)純和風。周囲は、高層ビルが建ちち並びます。

築地7丁目のアパホテルのある通り。

純和風の旅館があります。

周囲は、高層ビルが建ちち並びます。

丸い竹に書かれた「旅館大宗」

本牧(本牧十二天緑地)戦後は米軍が接収。

今回は、本牧(神奈川県横浜市)の町並みと風俗を散歩します。本牧十二天緑地は、横浜開港以来、外国人が訪れるようになった風光明媚な浜辺です。現在、その場所は公園になっていて、案内板が建っています。

戦後は、米軍に接収され、十二天山の上部には、給水タンクが設置されました。

案内板に掲示されていた「横浜全図(明治3年)」。
横浜開港は、本牧にも大きな変化をもたらしました。本牧の八王子山と十二天山は、沿岸防備のために熊本藩が、後に鳥取藩が守りを固める場所になりました。開港後、十二天の地には遊歩道が通じ、外国人がピクニックや海水浴に訪れるようになりました。*2

十二天山の遠望。
本牧の海は、かつては十二天の海とも呼ばれ、外国人居留民は、この海で海水浴を楽しみました。それが次第に日本人の間にも伝わり、海辺には、茶店や脱衣場が開かれるようになりました。やがては酒と女が入り込むようになり、〇〇屋、△△楼と呼ばれていた屋号が、〇〇ホテル、△△ハウスと洋風に改められ、風俗営業へと移行し、明治の中頃に「チャブ屋」と呼ばれるようになりました。*2

【参考文献】
*2 重富昭夫:横浜「チャブ屋」物語(センチュリー,1995)

参考文献

*1 横浜市 本牧十二天緑地 案内板
黒船来航と横浜開港 2015

嘉永六(1853)年の黒船の来航と、それに続く安政六(1859)年の横浜開港は、…

栄(屋上観覧車)現存する日本最古。

栄町交差点の南東の角にある名古屋栄三越。

屋上に遊園地があります。

屋上遊園地には、小さな観覧車があります。

現存する日本最古の屋上観覧車で、2007年に登録有形文化財に指定されました。高さ12m、直径が9.5m。2005年7月に営業を終了しました。*1

【参考文献】
*1 福井優子:ニッポンの観覧車(イカロス出版,2009)P.78

浅草(浅草寺の公衆トイレ)夜間専用。美しい石に放尿。

浅草寺の公衆トイレ。利用時間は、6:00~20:00。夜間は利用できません。

公衆トイレの建屋の脇に設置されている夜間専用トイレ。

箱庭のような美しさです。

立小便専用の男子トイレで、庭石のように美しい石に向かって気持ちよく放尿できます。

浅草(花やしき)日本最古の遊園地。150年以上前に植物園として誕生。

浅草五区にある遊園地の「花やしき」。
花やしき(花屋敷)は、150年以上も前に、楽しむための植物園として誕生したものでした。*1

「Beeタワー」「ヘリコプター」「スカイシップ」など、レトロな雰囲気を味わえる遊園地として存続しています。

花屋敷は、嘉永6年(1853年)に向島百花園の例にならって開園し、園内には「新登亭」という料理屋もありました。広重もこの花屋敷を画材としてとりあげています。*2

明治時代、花屋敷の新たな経営者となった山本金蔵は、明治20年、本所の材木商が所有する木造瓦葺き五階屋を一棟買収し、花やしきへ移築、「奥山閣」として公開し、凌雲閣(浅草十二階)*4 と人気を二分する浅草の新名所となりました。*1
明治30年刊行の「新撰東京名所図会」*3 によれば、「室内には、唐草模様を染めなせし紅の毛氈 (もうせん)一面に敷詰め、左右紫壇の床柱には、巖に瀧、松に雲を彫刻...」とあり、外観だけでなく内部も壮麗だったようです。

【参考文献】
*1 小沢詠美子:江戸ッ子と浅草花屋敷(小学館,2006)口絵,P.170-P.173
*2 内山正雄,蓑茂寿太郎:東京の遊園地(郷学舎,1981)P.3-P.5
*3 宮尾しげを:新撰東京名所図会 浅草公園・新吉原之部(睦書房,1968)P.83
【参考記事】
*4 風俗散歩(浅草):凌雲閣(浅草十二階)

浅草(フランス座)浅草六区。元ストリップ劇場。

今回は、浅草(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
浅草六区の交差点の角に「浅草東洋館」と「浅草演芸ホール」が併設された建物(写真左側)が建ちます。

渥美清やビートたけしなど、数多くの役者や芸人を輩出した「浅草フランス座」が平成12年より「浅草東洋館」として生まれ変わりました。(案内板より)
フランス座は、昭和26年にオープン。昭和34年に東洋劇場として、軽演劇とショーとストリップとなりましたが、昭和39年、寄席とストリップとなりました。*1

浅草フランス座出身の芸人。

昭和23年以来、浅草ロック座の楽屋へ通い続けた永井荷風は、昭和28年にフランス座の楽屋を初めて訪れています。*2

【参考文献】
*1 佐藤洋一:あの日の浅草(武揚堂,2007)附図
*2 堀切直人:浅草 戦後篇(右文書院,2005)P.232

浅草(古物商店)モガモボ御用達。大正ロマン。

浅草寺の西側に、「モボモガ御用達」と書かれた看板があります。

路地を進んだ先に古物商店の入口。

大正ロマンを切り口にした骨董店です。*1
店内は写真撮影OKとのことです。

地下の売り場にある白黒テレビ。

【参考文献】
*1 東京蛍堂ホームページ

綱島(ビジネス旅館)温泉街の名残

今回は、綱島(神奈川県横浜市港北区)の町並みと風俗を散歩します。
綱島温泉は、かつては大きな温泉街でしたが、現在は、数軒あるビジネスホテルにわずかにその名残をみることができます。

レトロな雰囲気の残る看板。当時は割烹旅館だったようです。

街道から奥へ入ったところにあるビジネスホテルの看板。

かなり大きな店構えです。

渋谷(閉園した屋上遊園地)東急東横店東館。

今回は、渋谷(東京都渋谷区)の町並みと風俗を散歩します。
戦後も落ち着きを見せ始めた昭和26年、東横百貨店屋上(現在の東館、写真左)と現在の西館(写真右)の位置にあった玉電ビル(当時4階建て)の屋上との間に、都会では珍しいロープウェイが出現しました。「ひばり」号と名付けられたこのロープウェイは、もともとは東横百貨店屋上の遊園地の遊戯物の一つで、子供たちには大変な人気でした。「ひばり号」は、認可がおりるまでに時間を要したため、開業時には、玉電ビルの所に新館(現在の西館)を建設することが決まっていたたため、昭和28年に運休し、短命に終わってしまいました。*1

それから60年が経過した現在、渋谷駅周辺は大規模な都市開発が進行しています。渋谷ヒカリエからは、東急百貨店東館の屋上遊園地が見えます。東館が閉館する3月31日、屋上遊園地も閉園となりました。

閉園した屋上遊園地(アスレチック広場「わんぱく島」のあたり)。

屋上遊園地「ちびっ子プレイランド」の様子(最終日の3月31日に撮影)。写真手前は、レール走行乗り物遊具の「機関車トーマス」。

【参考文献】
*1 宮田道一,林順信:鉄道と街・渋谷駅(大正出版,1985)P.138-P.139

尾久(荒川遊園)尾久三業近くの遊園地。

あらかわ遊園は、大正11年に開園した遊園地です。
当時のあらかわ遊園の案内には、「東京に最も近き避暑地」と紹介されています。*1

大正時代に開設された遊園地の中には、多摩川遊園地、本牧花屋敷、など付近に寺社が多く集まる地域があり、遊園地の開園と同時期にニ業地あるいは三業地が立地する場合がありましたが、あらかわ遊園の場合も同様で、近くに尾久三業が立地していました。

「遊園地」と書かれた電柱番号札。

墨田川からのあらかわ遊園の遠望。

【参考URL】
*1 あらかわ遊園ホームページ
*2 安野 彰,篠野 志郎:日本建築学会計画系論文集(1998)「遊園地取締規則」にみる明治・大正期の東京近郊の遊園地の概念–都市娯楽施設の史的研究 P.165

浅草(ロック座)昭和22年にオープン。初代座長は伴淳三郎。

ロック座は、昭和22年にオープンし、23年よりストリップを開始し、昭和58年に休館となりますが、その後復活しました。*1

経営母体を替えながら、今でも同じ場所場所で営業を続けているストリップ劇場です。*1
昭和20年代に次々と造られた浅草のストリップ劇場は、浅草座や美人座などストリップ専門の小屋もありましたが、ロック座は、ストリップショー1時間半に軽演劇1時間という時間割を定めて演劇に力を入れていました。ロック座の初代軽演劇部門の初代座長は伴淳三郎でした。*2

女性は、割引です。

懐かしいアイスキャンディー売りの自転車がとまっていました。

【参考文献】
*1 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の浅草(武揚堂,2007)P.37,付録地図
*2 堀切直人:浅草 戦後篇(右文書院,2005)P.207

浅草(外国人用ゲストハウス)ホテルの大看板。

「食道街」は、浅草の中でも、飲食街が中心となった繁華街です。

スカイツリーの方角に「ホテル」と書かれた大看板があるのが気になります。

外国人用のゲストハウスのようです。

建物の屋上に設置された広告大看板。

歌舞伎町(白川郷)岐阜県出身

歌舞伎町の繁華街の中心部。

「白川郷」という屋号の旅館があります。

ホテル白川郷の前身は、1958年に、岐阜県白川郷の「合掌造 り」を新宿歌舞伎町に移築し復元した「割烹白川郷」です。1992年に「ホテル白川郷」として生まれ変わりました。*1

歌舞伎町には、「春秋会」と呼ばれるホテル経営者のグループがあって、グループのメンバーは、すべて岐阜県大野郡荘川村中野から移り住んだ人たちでした。川村中野は、合掌づくりで有名な白川郷と境を接した集落で、昭和35年の御母衣(みほろ)ダムの完成により、現在は、ほぼ全域が水の底に沈んでいます。*2

【参考URL】
*1 有限会社白川郷:「ホテル白川郷」公式ホームページ「白川郷名称の由来
【参考文献】
*2 朝倉喬司:ヤクザ・風俗・都市(現代書館,2003)P.68-P.70

この記事を参照している記事

歌舞伎町(三経ビル)ポストモダン建築。

横浜(旅館)鶴のマーク。工事用コーン。

横浜駅西口の繁華街に鶴のマークの旅館があります。

石材と瓦でできている塀は日本的です。

入口付近。

工事用コーン。

浅草(浅草世界館)顔ハメ看板。本日オールナイト。

浅草の六区ブロードウエイ商店街にあるアダルト映画館の浅草世界館。

入口には、映画のポスタが並べられています。

ちょうど、アダルト映画のポスタがバックに入るアングルに、記念撮影用の顔ハメ看板が設置されています。

「本日オールナイト」の看板。

浅草(初音小路)藤棚は瓢箪池の名残。長屋の飲み屋街。

凌雲閣(浅草十二階)があった時代、塔に登ると南東方向にはひょうたん池が見えました。現在のJAウィンズのあたりがひょうたんの頭で、六区交番あたりがひょうたんの胴にあたりました。頭と胴のあいだはくびれていて、そこに紐をかけるようにぎざぎざと橋が渡され、結び目のような浮島につながっていました。浮島には茶屋があって、島に渡された橋には藤棚がありました。*1

現在、ひょうたん池のあった場所は、初音小路と呼ばれる飲み屋街になっていています。

長屋に飲み屋が建ち並んでいます。

現在の初音小路の藤棚は、ひょうたん池があった頃の藤棚の名残です。*2

【参考文献】
*1 細馬宏通:浅草十二階(青土社,2001)P.38-P.40
*2 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の浅草(武揚堂,2007)P.34

浅草(凌雲閣)別名「浅草十二階」。銅版の碑。

浅草の六区ブロードウエイ商店街。

現在のウィンズ浅草のあるあたりから西側は、昭和の初期までは、浅草公園があった場所で、ひょうたん池と呼ばれる大きな池があり、ブロードウエイ商店街のつきあたり(現在、パチンコ店がある場所)には、明治・大正時代、凌雲閣(りょううんかく)がありました。

最近になって、パチンコ店の前に凌雲閣の銅版の碑が設置されました。

東京タワー、東京スカイツリーと並んで、東京三大ツリーと呼ばれているそうです。

凌雲閣、またの名を(十二階建てだったので)「浅草十二階」は、高さ52mの高塔で、東京タワー(333m)のわずか6分の1以下の高さですが、明治一の高塔で、東京のランドマークでした。現在のタワーから比較すれば、低い塔である凌雲閣からの眺めは近景を見たときに人の形がはっきり分かる程度で、つまり、その展望台は、「人をみるという感覚」「人に見られるという感覚」を感じることのできる「適切な低さ」を持っていました。石川啄木の明治41年8月21日の日記には、浅草十二階から望遠鏡で下を見下ろしたとき、細い小路で男が淫売婦に捉るところが見える」という話が書かれています。1
「路上に客を擁して無理無体に屋内に拉し去る。歩一歩、”チョイト” ”様子の良い方” ”チョイト、チョイト、学生さん” ”寄ってらっしゃいな”」
当時、東京の私娼窟の中心は、浅草十二階下界隈でした。私娼4,000人(吉原の登録娼妓数2,409名の約1.7倍)、銘酒屋、新聞縦覧所(取締の目を逃れるため密淫売業者が編み出した業態カムフラージュの一つ)、小料理店の名目で、私娼を抱える店は700店に及んでいました。
2
【参考文献】
*1 細馬宏通:浅草十二階(青土社,2001)P.8-P.11,P.236
*2 竹村民郎:廃娼運動(中央公論社,1982)P.63

船橋(ヘルスセンター跡)東京ドーム8個分の面積を持つ巨大娯楽施設跡地。

昭和30年から52年まで、船橋ヘルスセンターという娯楽施設がありました。その面積は東京ドーム8個分という巨大なもので、温泉、遊覧飛行場、サーキット場、人口ビーチ、遊園地、ゴルフコース、人工スキー場などがありました。
中でも、高さ25メートル、長さ100メートルの水の滑り台の「大滝すべり」は大ブレークしました。時速50キロメートル滑降スピードのため、途中で海水パンツが脱げてしまうというハプニングも起きました。
現在は、大型ショッピングセンターの「ららぽーと」になっています。

船橋ヘルスセンターの名残と言えそうな碑が、三井ガーデンホテルの駐車場の脇にあります。

碑のプレートに書かれているように、当時、温泉コンクールというのがあったようです。

1993年には、ららぽーとの隣に人工スキー場の「ららぽーとスキードーム・ザウス」がオープンしましたが、2002年に閉鎖。跡地は、大型家具店になっています。

【参考文献】
*1 日本観光雑学研究倶楽部:セピア色の遊園地(創成社,2005)P.76-P.88

船橋(船橋漁港近くのホテル)HOTELU。

船橋港の近くにあるビジネスホテルの「市松」。

近代的なビジネスホテルになっていますが、敷地の端に古い建物があります。

建物の側面上部に、ローマ字で「HOTELU ICHIMATS」と書かれています。普通は、「HOTEL ICHIMATSU」だと思うのですが、昔は、こういう書き方をしていたのでしょうか。

モダンなデザインです。

浅草(浅草観音温泉)バンビさんは動きません。

浅草観音温泉に入ってみます。
銭湯は、男湯と女湯の入口が分かれているのが普通ですが、ここの銭湯の入口は一つです。ロッカーがたくさん並ぶ廊下を過ぎるとその先で、男湯と女湯の入口があります。

バンビの乗り物があります。しかし、横には、「バンビさんは動きません。」の貼紙。

脱衣所にある「マナーのお願い」の貼紙。

コンクリート造りで、天井が高いのが印象的です。天井は緑色、柱は赤色に塗られています。中央に円形のタイル張りの湯船があり、タイルで人魚の姿が描かれています。

浅草(浅草観音温泉)蔦の絡まる銭湯。男は黙ってサッポロビール。

浅草寺本堂の前を西へ向かうと浅草観音温泉の建物が見えてきます。建物の屋上には、「浅草観音温泉」と書かれた大看板があります。
左に、浅草ビューホテル、右に花やしきのタワーが見えます。

蔦の絡まる銭湯。

「男は黙ってサッポロビール」の看板。三船敏郎のCMが懐かしいです。

入口の横に、「極端に不潔な方、入場お断り」の貼紙があります。

浅草(仲見世)水茶屋は、江戸時代の流行の発信基地でした。

今回は、浅草(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
江戸時代、明暦の大火により元吉原の遊廓が現在浅草寺の後方に移されたことによって、浅草寺界隈は人手で賑わうこととなりました。

仲見世の風景。

さまざまな店が並び、賑わいを見せています。

仁王門近くに、江戸時代に水茶屋が建ち並び賑わっていたことを示す案内板があります。
表参道が吉原通いの主要通路であったことが、境内の繁栄につながり、参道に沿って水茶店が出現し、水茶屋女が評判となるようになりました。
当時の水茶屋女の容姿の代表的なものとして、衣装には贅を尽くし、特に前掛けに工夫をこらし、江戸の流行の原動力となりました。

【参考文献】
*1 上坂倉次:あさくさ仲見世史話 門前町繁昌記(浅草観光連盟,1985)P.27-P.38

関内(横浜中華街)レトロな旅館が営業中です。

横浜中華街を散歩します。中華街の東側に位置する南門シルクロードに古い建物があります。

レトロな感じの旅館です。

「旅館オリエンタル」。

斜めに付いている取っ手が昭和の時代を感じさせます。営業中の札がかかっていますので、今でも現役のようです。泊まってみたい旅館です。

六本木(ビルの屋上)未使用のまま。絶叫マシン。

六本木交差点から外苑東通りを飯倉片町方面へ進むと、目の前に東京タワーが見えてきます。六本木らしい風景です。が、しかし、手前のビルの屋上に異様な建築物が設置されているのが目に入ります。

近寄ってみると、闘牛の角のようです。

異様な建築物の正体は、ドンキホーテが店舗の屋上に建設中の絶叫マシン「ハーフパイプ」ですが、地元の住民の反対(騒音、安全性)があり、使用されていないようです。

ドンキホーテの裏の六本木墓苑から見たところ。

幕張(幕張メッセ)人が集まる場所といえばここです。

幕張本郷駅からバスに乗って約10分のところにある展示場の幕張メッセ。写真はプリンスホテルのエレベータからです。

コンパニオンのショーが始まると、予め陣取っていた客がビデオやデジカメを手にした客が撮影を始めます。

こちらのブースでは、撮影専用のコーナーが設けられており、黒山の人だかり状態です。

車の展示会というよりは、コンパニオン撮影会になっています。