銀座七丁目の豊岩稲荷※1 から煉瓦街時代のI型路地をさらに北へ向かいます。

突如、現れる自動ドア。

自動ドアには「通り抜けできます。」と書かれてあります。ドアを開けて中へ入ると喫茶店の店内に通じていて、その奥にまた自動ドアがあります。

銀座グリーン97のビル内に作られた銀座通りから裏通りに抜ける短いⅠ型路地。写真の左右方向に自動ドアあがあって、豊岩稲荷から続く古いI型路地と交差します。

ろじ・さかみち
銀座七丁目の豊岩稲荷※1 から煉瓦街時代のI型路地をさらに北へ向かいます。
突如、現れる自動ドア。
自動ドアには「通り抜けできます。」と書かれてあります。ドアを開けて中へ入ると喫茶店の店内に通じていて、その奥にまた自動ドアがあります。
銀座グリーン97のビル内に作られた銀座通りから裏通りに抜ける短いⅠ型路地。写真の左右方向に自動ドアあがあって、豊岩稲荷から続く古いI型路地と交差します。
料亭「花の里」(墨田公園少年野球場近く)の西隣に、周囲は開発が進むなか、木造家屋が奇跡的に残る一画があります。
狭い、曲がりくねった路地が続いています。
かつては、料理屋や旅館でした。
貴重な木造建築です。
神田須田町二丁目の「肉の万世秋葉原本店」の東側の一画。ビルとビルの間に、狭い空間があります。
生活用の通路となっているようです。
長い側溝。
マンションの1階部分を貫通しています。
ひさご通りの西側。喫茶ブラザー脇の細い路地を進むと、路地の奥には、焼肉屋や居酒屋が散在しています。
路地が交差するあたり。焼肉店が密集しています。
ビートたけしさんなどの有名人も訪れた店です。
ひさご通りへ通じる路地。ここにも焼肉店が建ち並びます。
綱島駅の南側。大網橋を渡って300mほどのところに、東急線のガードがあります。
人がようやく通ることができるほどの高さのガードです。線路の枕木が目の高さぐらいの位置にあります。いつかどかで見たような懐かしい風景です。
自転車に乗った通行者が通り過ぎていきます。
轟音をたてて、頭上を電車が通り過ぎます。
新富町には、昔ながらの路地が残されています(新富一丁目)。
鰻屋のある路地の入口。以前はこの付近に待合がありました。*1
飲食店の看板のある路地。
風情のある木造母屋。
【参考文献】
*1 中央区火災保険特殊地図(戦後)新富町方面(1950,都市整図社)
元麻布二丁目の狸坂を下りきると、Xの形に道路が交差している場所に出ます。
2000年代に入り、麻布周辺は超高層マンションや大型複合施設による開発空間が多く誕生していますが、一方で、その袂に隙間的、裏道的と呼べるような空間も形成されています。*1
交差点から東へ延びる道には、緑が多い住宅街に混じって古い民家や隠れ家的な店舗、事務所などが散在しています。*1
交差点には、細い抜け道が合流しています。この抜け道を行くと、長屋の建物が連なる一画*2 に出ます。抜け道の隣には、高級住宅地の入口への通路があるので、これらも合わせると六叉路のようにも見えます。
【参考文献】
*1 横山 順一:専修人間科学論集. 社会学篇(2011.3)P.163-P.179「港区元麻布の「裏道」を生きる人々の活動実践への注目から」
【参考記事】
*2 風俗散歩:麻布(2013,9)元麻布の長屋
文化村通りから道玄坂に抜ける「道玄坂小路」には飲食店や風俗店が密集しています。
老舗の台湾料理店「麗郷」。ここから登る坂道の途中にもヘルス店がありあす。
「麗郷」脇の坂道を登ると老舗のヘルス店の入口があります。
坂の上から見たところ、写真の左手前がヘルス店の入口です。
ジョイフル三ノ輪(三ノ輪橋商店街)*1 を歩いていると、商店街の左右には何本かの路地があることに気が付きます。
商店街の左右に突如として路地が現れます。
このような幅の狭い路地もあって、ごみごみした雰囲気です。
石畳の路地。
大正4~5年頃、新開地(現在のジョイフル三ノ輪)に、銘酒屋街が出現し、数ヶ月後に「花柳界指定地」が取り消され、銘酒屋は突然姿を消しましたが、その後に移ってきた一般の住人は、建物を住居型に改造してして住みました。Aさんの家は、商店街の中程を北へ折れてすぐの幅約3メートルの横丁を入った2階建て6軒長屋の3軒目でした。二間間口の家のガラス戸をあけると、広さ三畳か四畳の土間があり、銘酒屋が使っていたころはここは畳敷きで、抱え娼婦の生活の場であり、表に面した入口から通る客を呼び込んだり稼業の場でもあり、隣室は、抱え主の居住空間で、娼婦接客の場所は2階でした。*2
【参考記事】
*1 風俗散歩(南千住):三ノ輪橋商店街(2011.4)
【参考文献】
*2 三木克彦:北奇譚幻の銘酒屋街(三木克彦,2004)P.5-P.6
大田区南蒲田二丁目に七辻(ななつじ)と呼ばれる場所があります。
「七辻」の由来は、7本の道路が交差した地点という意味で名付けられたものです。
交差点には、八百屋などの商店が建ち並んでいます。
七辻に信号機はありませんが、この交差点に交通事故はありません。「日本一ゆずり合いモデル交差点」と書かれています。
丸山本通りから路地を入ったところに、石垣の上に建てられた楼閣があります。
建物の側面に階段があります。
階段を登ると楼閣の入口がありました。
店の屋号でしょうか。タイルで装飾された大きな文字で描かれています。
住吉町の商店街の北側。理容室脇に、商店街の入口と思われるゲートが残っています。
木造家屋が建ち並ぶ小路。
京都で見かけるようなトンネル状の小路です。ここを通り抜けると商店街に出ます。
トンネルの出口(商店街側)。
今回は、品川(東京都品川区)の町並みと風俗を散歩します。
品川宿は、北から、
①歩行(かち)新宿(現在の北品川1丁目)
②北品川宿(現在の北品川2丁目)
③南品川宿(南品川1~3丁目)
の3つの部分からなっていました。
品川宿は、江戸時代に出来ましたが、②北品川宿と③南品川宿が初めに出来て、後から①歩行新宿が作られました。①歩行新宿は、本宿(②)の手前に出来た新興の盛り場で、江戸に近かったため、最も賑わいました。*1
北品川1丁目に、「しながわ百景」に指定されている「古い家並み」が残っています。
生活感のある路地。
長屋の建物が続きます。
昭和の風景が現在も残されています。
【参考文献】
*1 海野弘:ユリイカ(1994.7)P.8「品川宿繁昌記」
六本木から飯倉交差点を過ぎ、ロシア大使館東側の狸穴坂(まみあなざか)を下ります。狸やムササビが住む穴があったと伝わることからこの名前がついています。六本木は以外と坂道が多いところです。小高い丘が多く山の手と呼ばれていることが納得できます。
狸穴坂は、江戸の坂をまとめて書いている天和2年(1682)の「紫の一本」という本に書かれています。*1
明るい坂道を下ります。警備の警察官がいます。江戸時代、この付近は大名屋敷がありましたが、戦後は大使館の敷地に転用されました。
「ホテルアルファイン」と書かれた広告看板が電柱に貼られています。
昭和を感じさせる民家の佇まいがなんとも言えません。ここの電柱にも「ホテルアルファイン」の広告があります。