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全国 > 愛知県 > 名古屋市中区 錦2丁目 1長者町繊維街 大須 丸の内 本丸 2名古屋城展示室 女子大 大須3丁目 3仁王門湯 4銭湯脇の路地 5楼主の記念碑 大須1丁目 6常盤通り 正木1丁目 7遊廓跡 丸の内3丁目 栄2丁目 大須2丁目 8北野新地跡地 9北野天満宮 10戦後生まれた飲食街 11飲み屋街 栄3丁目 12栄小路 13むつみ小路 14屋上観覧車 15新天地通り 錦3丁目 16風俗雑誌「シティヘブン」 17公衆トイレ 18風俗雑誌「シティヘブン」 19栄交差点小便小僧像 20キャバレー太平洋跡 丸の内2丁目 21駅の貼り紙 22レストラン「ザ・カワブン・ナゴヤ」 23料亭「河文」 栄4丁目 24無料案内所 25女子大の地名 26女子大小路 27ドレスショップ 28コンドームの自販機

女子大

大須

丸の内

大須(飲み屋街)長屋風の建物の奇抜な意匠。

かつての大須新地と思われる飲み屋街は、1階が店舗、2階が住居空間の長屋風の建物が連なっています。

タイルで装飾された店舗。

奇抜な意匠の店舗

古風な窓枠。

大須(戦後生まれた飲食街)旧墓地だった場所。

かつての北野新地近く。旧墓地だった場所に古い飲み屋街があります。

昭和38年の名古屋タイムズに、明王殿(大光院)の旧墓地跡に戦後生まれた飲食街「”新地”は戦後の新名所」と題し、次のような記事があります。*1
一杯飲み屋からバーなど約百軒がぎっしり並び、夜は不夜城となる。木造二階建の床がきしむような長屋を改造して階上を居間、階下が店となっており、ケバケバしい化粧をした女が客のそでをひく。「あそこは遊ばせる」という風評があるだけにそれ目あてにくる客もあるとか。

東側の一画。

呑み屋街の裏側(公園側)。

*1 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会:大須レトロ(樹林舎,2010)P.48

大須(楼主の記念碑)旭廓を開いた中心人物。万年寺。

矢場町にある万年寺。

旭廓を開いた中心人物の三国楼の楼主中村正平の記念碑があります。

碑文には、次のように書かれています。*1
彼は天保八年(1837)袋町に誕生した。梅毒が蔓延するのを憂え、役所に遊廓を開くのを願い出た。まず自ら、この地に移った。しだいに移り住む人が出てきて、この地は新地と呼ばれるようになった。明治七年、転居する者たちを監督する役目についた。しだいに新地は栄えるようになり、名古屋第一の繁栄する地になったのは、彼の業績である。明治二十二年十二月二日、彼は五十二歳の生涯の幕を閉じた。

漢文で書かれていますが、”遊廓”、”廓”などの文字が確認できます。

【参考文献】
*1 沢井鈴一:名古屋大須ものがたり(堀川文化探索隊,2010)P.31-P.32

大須(北野天満宮)遊廓寄進の玉垣。大正6年。

北野天満宮には、遊廓から寄進された玉垣が何本も立っています。*1

この付近にあった北野新地は、周囲を墓地に囲まれ拡張できないため、明治8年、移転して旭廓となりました。*2
玉垣に大正6年と刻まれているので、旭廓ができた後に寄進されたものです。

「本家長壽楼」の玉垣。他に、「分家楽長壽楼」と刻まれた玉垣もあります。
「本家長寿楼」は、旭廓の日吉町にあった遊廓の屋号です。長寿楼は、たくさんの分家があったらしく、「新長寿楼」「楽長寿楼」「盛長寿楼」「清長寿楼」「繁長寿楼」がありました。*3

「福岡楼」「金波楼」「新金波楼」は、旭廓の大門町にあった遊廓の屋号です。*3

【参考文献】
*1 沢井鈴一:名古屋大須ものがたり(堀川文化探索隊,2010)P.29
*2 愛知県郷土資料刊行会:名古屋市史(愛知県郷土資料刊行会,1979)P.417
*3 南博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.83-P.84「全国遊廓案内」

大須(北野新地跡地)安政年間にできた遊廓。

清安寺の墓地囲まれた地に、安政年間(1854~60)遊廓ができました。「安政年間大須新地遊廓之図」によると、遊廓(元新地)の東の境界に大光院墓地と書かれ、北野天満宮(北野神社)が絵が描かれています。西の境界には清安寺の裏門が描かれており、元新地(北野新地)があった場所は、現在の北野神社付近と推察されています。*1

現在、当時の名残はありません。

逆方向から。

北側の通り。写真左側が清安寺。写真奥は、大光院墓地跡と思われます。(現在は公園)

【参考文献】
*1 沢井鈴一:名古屋大須ものがたり(堀川文化探索隊,2010)P.30,カラー口絵「安政年間大須新地遊廓之図」「現代の大須」

大須(新天地通り)盛り場・大須の看板だった映画館街。

今回は、大須(愛知県名古屋市中区)の町並みと風俗を散歩します。
大須の歴史は古く、大須の街を栄させたのは観音さまであり、遊廓でしたが、明治末期から大正、昭和と盛り場・大須の看板だったのは映画館でした。新天地通りは、映画館4館が建ち並ぶ映画館街で、北端の日活シネマ、続いて大須大映、名古屋劇場、万松寺日活と並んでいました。*1

現在は、電気街になっています。

映画館4館の中央にあった名古屋劇場は、昭和47年の焼失し、昭和52年、東京のアメ横、秋葉原の電気街の店を誘致して「ラジオセンター・アメ横共同ビル」をオープンさせ、のちの「大須電脳街」を形成しました。*1

駐車場から見た新天地通り。

【参考文献】
*1 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会:大須レトロ(樹林舎,2010)P.120,P.126

栄(屋上観覧車)現存する日本最古。

栄町交差点の南東の角にある名古屋栄三越。

屋上に遊園地があります。

屋上遊園地には、小さな観覧車があります。

現存する日本最古の屋上観覧車で、2007年に登録有形文化財に指定されました。高さ12m、直径が9.5m。2005年7月に営業を終了しました。*1

【参考文献】
*1 福井優子:ニッポンの観覧車(イカロス出版,2009)P.78

栄(むつみ小路)飲み屋街

プリンセス大通りを南に入った左側にあるむつみ小路。
むつみ小路は、栄小路は、松竹小路(現在は消滅)とともに、戦後の街づくりに貢献しました。*1

奥まったあたりの建物。

夜は、飲み屋街として賑わいます。

むつみ小路の看板。

【参考文献】
*1 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会:名古屋なつかしの商店街(風媒社,2014)P.74-P.75

栄(栄小路)戦後の街づくりに貢献。

栄のプリンセス大通り(丸栄と明治屋栄ビルの間の通り)を南に入ったすぐ右側に栄小路があります。
南呉服町と住吉町を結ぶ東西約90mの小路で、当時は約16の飲食店が軒を連ねました。八幡屋、夜来香本店は、当時から営業していた飲食店です。*1

現在も残る八幡屋。

北側は、駐車場になってしまったので、現在は片側だけの小路です。

夜の栄小路。
栄小路は、むつみ小路、松竹小路(現在は消滅)とともに、戦後の街づくりに貢献しました。

【参考文献】
*1 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会:名古屋なつかしの商店街(風媒社,2014)P.74-P.75

錦(キャバレー太平洋跡)屋上大看板。

名古屋市中区の錦通り。名古屋銀行の向かいに、キャバレー太平洋の建物が残っています。現在は閉店しており、ビルの壁面には風俗広告看板が設置されています。

屋上に残る「キャバレー太平洋」の大看板。

当時は、ネオンが輝いていたのだと思います。

看板下部にはダンサーの姿が描かれており、華やかだった頃が偲ばれます。料金は3コース制。
A ¥4,000:8時まで入店のお客様。1時間1ドリンク
B ¥6,000:1時間半2ドリンク
C ¥8,000:1時間半飲み放題

錦(栄交差点小便小僧像)ベルギー政府から寄贈

2014年9月25日、栄町商店街は、ベルギーの首都ブリュッセルの有名繁華街ルイーズ通りと姉妹提携を結びました(案内看板より)。

姉妹提携を記念して、2015年8月22日、ベルギー政府から栄町商店街に小便小僧像が寄贈され、栄交差点に設置されました。*1
小便小僧の起源とされているのは、ブリュッセルに設置されているフラマン人彫刻家ジェローム・デュケノワ(Jérôme Duquesnoy)により1619年に製作された像ですが、寄贈された小便小僧はそのレプリカと思われます。

この日は、小便は出ていませんでした。

小便小僧とベルギー国旗がデザインされたワインも展示されています。

【参考URL】
*1 産経新聞:産経フォト(2015.8.22)<ahref=”http: www.sankei.com=”” photo=”” daily=”” news=”” 150822=”” dly1508220034-n1.html”=”” target=”_blank”>名古屋・栄に「小便小僧」ベルギー政府から寄贈

錦(風俗雑誌「シティヘブン」)厚さを10年前と比較。

今回は、錦(愛知県名古屋市中区)の町並みと風俗を散歩します。
錦の風俗散歩は、前回(2006年7月)に引き続き、今回で2回目です。

10年前は、コンビニで購入した風俗雑誌「シティヘブン」の冊子の厚さに驚愕しました。*1

今回も、コンビニで「シティヘブン」を購入。しかし、10年前に比べると、冊子の厚さは、かなりスリムになっています。スマホなどの端末機器が普及したことが影響しているのでしょうか。

駐車場の看板広告は盛況です。

丸の内(長者町繊維街)看板が連なります。

長者町繊維街は、丸の内から錦までを南北に貫く長い通りです。大きな看板が連なります。

主人が先頭に立って働く”現金取引”、”薄利多売”の商法は、長者町を日本有数の問屋街へと発展させる原動力となり、大正末期から昭和にかけての繊維卸問屋街時代を迎えました。*1

現在も繊維問屋が建ち並びます。

洋服の専門問屋。

【参考文献】
*1 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会:名古屋なつかしの商店街(風媒社,2014)P.126-P.127

丸の内(料亭「河文」)葵の紋。魚ノ棚通り。

長者町のレストラン「ザ・カワブン・ナゴヤ」の南側を東西に魚ノ棚通りが交差しています。
魚ノ棚通りを東側に入ったところに老舗料亭の「河文」が昔の佇まいそのままの姿で建っています。

登録有形文化財に指定されている建物。

建物の壁面に、「魚ノ棚通り」の説明が書かれています。江戸時代(元禄年間)は、料亭がありました。

玄関の奥には、葵の紋。
当時は、お昼から三味線の稽古の音がして、このあたりは大変賑やかでした。夜は芸妓さんを呼んで、本当に線香を立てていたそうです。「花代(線香代)」は、一本十二銭でした。*1

【参考文献】
*1 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会:名古屋なつかしの商店街(風媒社,2014)P.126-P.127

丸の内(レストラン「ザ・カワブン・ナゴヤ」)老舗料亭が運営

南北に長く延びる長者町の通りは、北側(丸の内2丁目)は上長者町、南側(錦2丁目)は下長者町と呼ばれています。
丸の内の長者町の歴史は、名古屋城築城の慶長15年(1610年)までさかのぼります。戦前までは料亭と芸者の街でした。戦後は大正末期から増えてきた繊維卸問屋の街として再出発しました。*1

「THE KAWABUN NAGOYA(ザ・カワブン・ナゴヤ)」は、老舗料亭「河文」が運営しているレストランです。

入口脇の案内板には、明治時代は、西洋料理店が建ち並ぶ歓楽街であったことが紹介されています。

夜の様子。

【参考文献】
*1 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会:名古屋なつかしの商店街(風媒社,2014)P.126-P.127

丸の内(名古屋城展示室)三遊廓。享元絵巻。

尾張徳川家の居城だった名古屋城。天守閣5階の展示室に、徳川宗春が築いた町並みのの様子を描いた資料が展示されています。

享元絵巻。

当時の芝居や遊里の様子が描かれています。

宗春が作った三遊廓。左が葛町遊廓。右上が西小路遊。廓。右下が富士見原遊廓。

丸の内(駅の貼り紙)後方注意。変質者注意。

今回は、丸の内(愛知県名古屋市中区)の町並みと風俗を散歩します。
地下鉄鶴舞線の丸の内駅。

出口へ向かう途中の「変質者」「後方」「注意」の貼り紙。

エスカレーターを登っていく途中。「盗」「撮」「注」「意」の貼り紙。

後ろを振り返ると急角度のエスカレータであることを実感できます。

女子大(コンドームの自販機)街の風運動。ストップエイズ。

女子大小路から脇道にはいったところ。

街の風運動。

コンドームの自販機です。

ストップエイズ。

女子大(ドレスショップ)価格は安価です。歩道にも陳列。

女子大には、ドレスショップが何店舗かあります。パブやクラブが沢山あるため、ニーズがあるのだと思います。

派手なドレスがズラリと並びます。

歩道にも陳列されています。

価格は安価なほうだと思います。(手前の赤いドレスは2900円)

女子大(女子大小路)もともとは学生街でしたが、現在はクラブの密集地帯です。

かつては女子大小路と呼ばれていた通りは、クラブの密集地帯です。現在は、「栄ウォーク街」と呼ばれています。

もともと、このあたりは学生街でした。県一高女、中京女子、育英、名電工、淑徳、も遠くなく、昼は学生たちで賑わっていました。
それが戦後になると、ぼつぼつ連れ込み旅館が増えてきて、昭和50年頃には、バー、キャバレー、飲食店、約700軒、働く女性の数、約3千人、特にバーの大型化ともいえるクラブの密集地帯となりました。

現在は、フィリピンパブが多いようです。

昼間の静まりは薄気味悪いほどですが、夜になると賑わいます。

【参考文献】
*1 大野一英:名古屋ケチケチ繁盛記(講談社,1977)P.286-P.292

女子大(女子大の地名)地名の由来は女子大です。

「女子大」という地名は、近くに女子大があったことに由来しています。

店名に「女子大」の名が使われているコンビニ。

世界のやまちゃんの店名も「女子大店」です。

女子大らーめん。今でも「女子大」の名は健在です。

女子大(無料案内所)栄ウォーク街。女子大♡。

今回は、女子大(愛知県名古屋市中区)の町並みと風俗を散歩します。
栄ウォーク街(別名、女子大)の無料案内所。

「女子大無料案内所」。

こちらは、別の無料案内所。

女子大♡無料案内所。

大須(銭湯脇の路地)昔の雰囲気が残っている路地です。

仁王門湯の隣に駐車場となっている空き地があります。銭湯の煙突が見えます。

銭湯の脇は、路地になっています。

生活感あふれる路地です。

昔はこういう雰囲気の路地がたくさんあったのだと思います。

大須(仁王門湯)商店街から路地を一本入ったところにあります。

大須観音の東側の仁王門通りは、現在は人通りの多い商店街として賑わっていますが、路地を一本入ると昔の雰囲気が残っています。

銭湯の仁王門湯。

清潔感のある入口。

明るい雰囲気の銭湯です。

大須(常盤通り)旭遊廓はこの付近にありました。

明治6年、名古屋に遊廓を設置することが、愛知県議会によって許可されました。大須の北側一帯が指定地で、「北野新地」と呼ばれていました。その後、大須観音堂裏からまっすぐ西へ一帯の広い地域が旭遊廓として、新しく生まれ変わることとなり、以前の北野新地は、元新地と呼びかえられるようになりました。旭遊廓の地域は、吾妻町が南の端で、北へ若松町、花園町、音羽町、東角町、東角町と坂を下り、紫川が北の端で、西は常盤町、東は富岡町、城代町の南北約400m、東西約200mが遊廓の地帯でした。*1


現在も、「常盤通り」という名前の通りがあります。写真の奥に見えるのは、名古屋都市高速道路ですが、このあたりが紫川があったあたり(旭遊廓の北端)でしょうか。

若宮大通りから見た常盤通り。

現在は遊廓の面影はなく、閑散としています。

旭遊廓は、時勢の進展とともに、地域の中央部にあるとの風紀上の問題が論ぜられるようになり、大正8年、旭遊廓の中村への移転の県令が出され、大正12年に歴史の幕を閉じました。*1

【参考文献】
*1 服部鉦太郎:明治・名古屋の顔(六法出版社,1973)P.63-P.67

大須(遊廓跡)名古屋で初めての芝居小屋跡。

今回は、大須(愛知県中区)の町並みと風俗を散歩します。
江戸時代、初代尾張藩主の徳川義直は質素倹約の施政方針であったため、遊女屋を禁止していましたが、料亭や芝居小屋まで禁止していたわけではありませんでした。2代藩主光友の頃には、名古屋の最初の芝居小屋である橘座ができました。
橘座があった場所は、現在の愛知産業大学工業高校のあたりです。*1

愛知産業大学工業高校の前には、橘座跡の立札があります。*1

尾張7代藩主の徳川宗春は、それまで禁止されていた遊女屋を公認し、西小路、葛(かずら)町、富士見原の3地区に遊廓ができました。3廓のうち、葛町の廓は、橘座があった愛知産業大学工業高校から約200mの古渡稲荷神社の西南に接したあたりにありました。*2

古渡稲荷神社から南西の方角を見たところ。

【参考文献】
*1 川本文彦:街道への誘い. 続(風媒社,2002)P.119-P.125
*2 斉藤光次郎:今昔名古屋旭廓(名古屋豆本第37集)P.2-P.8

錦(公衆トイレ)鶴の透かし彫りのある狭小建築。

錦三の町並みを散歩していたら、公衆トイレを見つけました。「こんな所に公衆トイレがあったのか...」と言いたくなるような場所にあります。公衆トイレとしては、かなりの狭小建築だと思います。

三角屋根の小さな建物です。

ここの通りは、ツルシゲ通りという名前がつけられているためか、トイレの入口には鶴がデザインされています。

中を覗いてみると、以外にも綺麗で、落書きは少なく、こちらの1箇所だけでした。

錦(風俗雑誌「シティヘブン」)名古屋は独自の文化圏。

今回は、(愛知県名古屋市中区)の町並みと風俗を散歩します。
錦三丁目、通称・錦三(きんさん)は、名古屋市を代表する歓楽街の一つです。

「錦三」のコンビニの雑誌コーナーにうずたかく積まれた雑誌が目につきましたので、さっそく購入してみました。名古屋の風俗雑誌「シティヘブン」です。大判の時刻表以上の厚さ(約1,300頁)で重さは2.5Kgぐらいあります。片手で持つと、その重さのために手が震えてきます。

「シティヘブン」編集長の話によると、「名古屋人は保守的で警戒心が強く、ボッタクリに遭わないように風俗雑誌を見て行くので、名古屋の町は(ボッタクリのない)健全な町になった。」と名古屋には独自の文化圏が存在するそうです。*1

風俗店専用の広告掲示板。まだ出来上がったばかりと思われ広告募集中です。名古屋は広告ビジネスが成り立ちやすい土地柄なのでしょうか。

【参考文献】
*1 文野石平:現代(1997.11.27)P.86 「東西性風俗街道 名古屋編」