相浦郷土史編纂委員会相浦郷土史佐世保市合併五十周年記念事業実行委員会1993
P.220 相浦の花街  昭和のはじめから、12、3年頃まで、当時の呼び名でいえば料理屋(料理屋兼芸妓屋)は、15、6軒もあった。港町として栄えただけに、料理屋が多いのは当然のことである。芸妓も102、30人くらいはいた。1軒に15人もいる店もあった。  北松の炭坑が開発され始めたため、大正末期から、昭和十年頃までは、港には石炭積み込みのための機帆船、本船(汽船)が相浦港から佐々浦、臼ノ浦に至るまで待機しない日はなかった。港の景気でで船員、炭坑関係者、それに土地の若者たちが芸妓を囲んで、飲食店、料理屋から三味の音の聞こえぬ日はなく、夜明けまで町の灯は消えなかった。

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相浦(遊廓跡地)県道佐世保鹿町線