相浦の北松の炭坑が開発されたため、大正末期から、昭和十年頃までは、石炭積み込みのための船が相浦港から佐々浦、臼ノ浦に至るまで待機しない日はなく、この景気で、昭和のはじめから、12、3年頃まで、相浦には料理屋兼芸妓屋が15、6軒あり、芸妓も102、30人くらいました。*1
2006年頃までは、相浦港に通じる県道佐世保鹿町線沿いにはかつての遊廓や料亭、旅館の建物が残っていました。*2
遊廓があった場所*2*3は、現在は駐車場になっています。
煉瓦が残る脇道。
相浦(遊廓跡地)県道佐世保鹿町線
参考文献
*1
相浦郷土史編纂委員会相浦郷土史佐世保市合併五十周年記念事業実行委員会1993
P.220 相浦の花街
昭和のはじめから、12、3年頃まで、当時の呼び名でいえば料理屋(料理屋兼芸妓屋…
*2
長崎県教育委員会長崎県の近代和風建築近代和風建築総合調査報告書長崎県教育委員会2004
相浦は、北松炭田の石炭の積出港や漁港として栄え、佐世保の軍港としての拡大に伴う商業港としての重要度…
*3
ゼンリン佐世保市(北部)ゼンリン2004
P.68 小芦家(旧遊廓)の記載。