日清・日露戦争により、海軍と佐世保市は大きくなり、明治42年頃になると、新たに名切遊廓(花園遊廓ともいった)ができました。*1
現在は、公共施設と道路になり、当時の面影はありません。
名切川の川の流れは現在も残っています。川と道路が交差するあたりには、松月楼、開明楼、本家高砂楼などがありました。*2*3
遊廓の中心部だったと思われる場所には、市民会館の近代的な建物が建っています。
佐世保(花園遊廓跡地)現在は公共施設と道路
参考文献
*1
山口日都志女性哀史 佐世保遊里考-遊女・芸者・娼妓・女給・夜の女- 懸命に生きた女たち芸文堂2017
P.48
軍港設置と殆ど時を同じくしてできた木風遊廓は、小佐世保に移転してからいよいよ繫昌し、日露戦争…
*2
平岡昭利地図でみる佐世保芸文堂1997
P.72
「花園町の図」に、松月楼、開明楼、本家高砂楼など楼名の記載。
写真72 佐世保の遊…
*3
佐世保市史編さん委員会佐世保事典佐世保市2002
花園遊廓
明治時代後期の佐世保には、遊廓といえば小佐世保(勝富)だけであった。一方、宮田町や太田町…