今回は、大浜(福岡市博多区)の町並みと風俗を散歩します。大浜は、旧博多港に近い、現在の下呉服町、大博町付近です。
このあたりには、江戸時代初期から柳町遊郭があり、東京の吉原と同様、元禄期に全盛を迎えました。明治44年に柳町遊廓は廃止となり、代わりに現在の住吉地区に新柳町遊廓が作られ、遊廓廃止後は旧柳町と呼ばれるようになりました。*1
柳町遊郭は、現在の大浜小学校(平成10年、大浜、奈良屋、御供所、冷泉の四つの小学校が統合され、博多小学校が開校*2)があった場所にありました。*1
柳町遊郭は、竪町の北側の下竪町を右に折れ、カギ型にちょっとまわったところに大門がありました。*1
石堂川(現在の御笠川)から見た大浜小学校跡。校舎はそのまま残されています。
石堂川の川べりまでが柳町遊郭でした。*1
柳町遊廓の名残でしょうか。大浜小学校近くの電柱には「柳」と記されています。
【参考文献】
*1 井上精三:博多風俗史遊里編(積文館書店,1968)P.9-P.11,P.193
【参考URL】
*2 博多小学校ホームページ
「博多(柳町遊廓跡地)大浜小学校があった場所」への5件の返信
懐かしい記事をありがとうございます
昭和22年に大浜小学校に入学いたしたした。
大変興味深い内容です。ありがとうございます。昭和13年頃の大浜町住宅地図を見ると大浜町一丁目20番地付近は大浜尋常小学校用地になっていて恐らくはその当時の大浜尋常小学校の運動場とかと思われますが、この辺りはその大浜尋常小学校用地の以前は遊郭とかがありましたのでしょうか?
小山さん、
柳町遊廓は、江戸期の遊廓で、明治43年に新柳町遊廓へ移転してしまったので、現在は痕跡が残っていないようです。
竪町筋と大浜通りの交差点から石堂川(御笠川)の方向へ向かったところに大門があって、遊廓は石堂川沿いにも連ねっていたそうです。
(「博多風俗史遊里編」P.9,P.96,P.131に地図が掲載されています。)
どうも、この江戸時代からの大浜尋常小学校のあった場所付近の遊郭は明治44年に他に移転したとの事ですが、その後の大正から昭和初期にかけてはどうなんでしょうか?昭和13 年の住宅地図だと大浜尋常小学校用地で恐らくはその運動場で特にドヤ街や遊郭は見受けられませんが、大正から昭和初期にかけては多少なり友遊郭は残っていたのではありませんか?
小山さん、
もともと移転に反対の人も多かった(「博多風俗史遊里編」P.185)ことや、
大正時代、旧柳町遊廓の復活を願う人もいた(同P.202)、そうなので、
あり得る話かもしれませんね。