全国>東京都>大田区>大森北2丁目>/ジャンル>遊興>花街・カフェー>花街>/-名称>-2水系・川>多摩川水系>不入斗新井宿村用水>/全年代>近代>明治後期>1890年代>/

大森(料亭「梅元」)大森海岸三業地。明治26年開業。

今回は、大森(東京都品川区)の町並みと風俗を散歩します。
大森海岸の芸妓屋は、明治26年5月に八幡橋(八幡橋は、近くを流れていた不入斗新井宿村用水(いりやまずあらいじゅくむらようすい)にかけられていた橋と思われます。*1)の際に開業した料理屋の伊勢原が隆盛し、魚栄、松浅、八幡楼等引き続き開店し、間もなく芸妓屋が開業したのが始まりでした。*2
現在八幡橋は無く、八幡橋があった場所は「八幡橋児童公園」になっています。

八幡橋の東側には、競艇場の「ボートレース平和島」が見えます。

八幡橋近くには、待合だった「梅元」の建物が現在も残っています。*3

現在は、オフィスビルが乱立するエリアになっています。

【参考文献】
*2 東京市大森区:大森区史(東京市大森区,1939)P.1138-P.1139
*3 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.220

参考文献

*1
菅原健二川の地図辞典 : 江戸・東京/23区編フィールド・スタディ文庫 ; 1之潮2007.12
大田区①

P.199

参考記事

「大森(料亭「梅元」)大森海岸三業地。明治26年開業。」への6件の返信

私はこの隣に住んでいました。
この写真以前は黒板塀で、もっと風情があったかな?
清元のお師匠さんが主で、奥さんがおかみ、その後お嬢さんがおかみをしていました。

前の川沿いの小道には、柳が2本、花柳界らしさがありましたね。

梅本は料亭ではなく、待合でしたよ!

古き良き?時代、懐かしく拝見しました。ありがとです。

はじめまして。懐かしい記事を見つけたのでコメントさせていただきます。むかし、梅元と同じエリアに「やなぎ」という料亭があり、親戚がそこの女将さんで、甥っ子にあたるウチの爺ちゃんがそこの支配人をしていました。元々は浅草雷門が作られる以前に浅草雷門の真横(向かって右側)に大きな料亭が戦前にあり、そこで支配人をしていましたが、戦争が始まり、雷門の右側エリアが焼け野はらになり、大森海岸にもあったもうひとつの店舗と統合した形にしたんだよ、と子供のころ、爺ちゃんから聞かされたことがありました。私が19歳の頃に亡くなりましたが、もしまだ生きていたら121歳か。うちの父親もそこで料理人をしていました。やなぎは埋め立てにより、立ち退かされて店を閉めたと聞いています。今度梅元さん付近も散歩してみるかな。

ノブさん、コメントありがとうございます。
現在の広い道路が通りいる風景からは想像も使いない情景ですね。
貴重なお話ありがとうございます。
唯一、「梅元」は昔の面影が残っている建物ですね。

のぶさん、こんばんは。
やなぎさんは大井海岸三業地に入ります。
柳、悟空リン、小町園が大井海岸、楽々さんからが大森海岸三業地になります。松浅本店、そして福久良まで大きな料亭が続き、古き良き時代の花柳界の雰囲気がありました。今や林立するマンションの町となって、そこで生まれ育った者には寂しい限りです。

そうですね。あの辺りは地元で生活範囲なので、ざっくり言い過ぎました(笑)それにマンションがだいぶ増えてしまいましたね。やなぎの位置は正しくは今でいうと確かに大井海岸寄りですね。正しくは昔あった日産のレーシングチームのニスモの前進の大森ワークスのすぐ横くらいですかね。その辺りだったかと思います。それを日々見ていたからなのか、免許が無い明治34年生まれの爺ちゃんがよく、お金出すからクルマというものを買って一度で良いから載せてくれないか、と言われてたのを思い出しました。あとアメリカ軍が居た時代は、それはそれは本当に大変で壮絶だったそうです。それが落ち着いた後の芸者さんが大勢いた頃の写真と比べても寂しい限りですね(;_;)

植田さん、こんばんは。
コメントを拝見し、もしかしたらと思い連絡いたします。
実は、祖母と母親が楽々さんで働いていて当時の写真を探しています。
何かお持ちでしたらご返信をくださいますよう宜しくお願いいたします。

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