今回は、天満(大阪府大阪市北区)の町並みと風俗を散歩します。
日本一長い商店街「天神橋筋商店街」は、JR大阪環状線の天満駅を下車すると目の前です。
昼間から営業している立呑み屋が乱立しています。
一本、細い路地を入ったところには、3軒ほどの立ち呑み屋があります。
串焼屋の提灯。
投稿者: kokontouzai
茅野駅近くになる老舗映画館「新星劇場」。2013年11月に閉館しました。*1
建物には、星のマーク。
新星劇場は、邦画が全盛期を迎えていた1957年に、地元有志が出資を募って建てた木造館で、98年からは同市で開いてきた小津安二郎記念・蓼科高原映画祭の主会場の一つとして地域の映画文化を支えました。*1
踏切脇の看板。
【参考文献】
*1 信濃毎日新聞(2013.9.30)「小津映画祭の舞台閉館へ 茅野「新星劇場」半世紀余の歴史に幕」
参考文献
参考記事
かつての花街だった茅野駅前の仲町周辺には、スナックが数軒点在しています。
看板建築。
駅前付近。
飲食店やスナックが入居する長屋風の建物。
参考文献
参考記事
今回は、茅野(長野県茅野市)の町並みと風俗を散歩します。
茅野の花街は、旧宮川村地域(現在の宮川町)と旧永明村地域(現在の仲町)にあって、芸妓の派遣先として、永明地域には、「世界」「新来」「真砂」「富士香」、上川橋向こうの宮川地域には、「角屋」「銀水」「二葉料理店」「苦楽園」「金泉料理店」などの料理屋・料亭がありました。花街があった諏訪の4地域(上諏訪、下諏訪、岡谷、茅野)の中でも茅野は、寒天製造業が最も盛んな地域で、茅野の花柳界が最も賑わう時期と寒天の製造時期が結びついていたことから、茅野の芸妓は、「寒天芸者」と呼ばれていました。*1
街灯の看板に「割烹世界」の看板が残っています。
割烹「新来」と思われる建物。
掲示されている案内図で、割烹「新来」の位置を確認できます。
【参考文献】
*1 谷岡優子:関西学院大学先端社会研究所紀要第12号「地方花柳界における〈芸〉と〈色〉-諏訪湖沿岸地域の事例-」P.33-P.34
参考文献
参考記事
岡元町から県道へ抜ける小路。飲食店が2軒建ち並んでいます。
風情のある木造家屋です。
逆方向から。
看板。
参考文献
参考記事
岡元町の旧花街には、スナックが点在しています。
置屋が密集していた新富町のスナック店。
岡元町の通りに面したスナック。
岡元町の通りの中央付近。小柳ビル(旧小柳検番)近くのスナック。
割烹料亭の寿々喜亭の近くのスナック。
戦後になって、新屋敷区(岡元町)内に、風俗営業(赤線)として、さつき、みやこ、ベニス等の店がオープンしましたが、売春防止法施行と共に、廃止となりました。*1
【参考文献】
*1 区誌編集委員会:新屋敷区誌(新屋敷区,2008)P.231
参考文献
参考記事
岡谷の花街において、主な芸妓の派遣先は、小柳、寿々喜亭、信濃屋、みゆき、千成、鳥かつ、山せん、松風亭、などの料理屋、料亭でした。*1
岡元町の南側の通りに、現在も割烹料亭の寿々喜亭が営業中です。向かいには、信濃屋の建物が見えます。
ステンドグラスの装飾。
建物脇の路地。
【参考文献】
*1 谷岡優子:関西学院大学先端社会研究所紀要第12号「地方花柳界における〈芸〉と〈色〉-諏訪湖沿岸地域の事例-」P.34
参考文献
参考記事
昭和8年、岡元町が置屋指定地となってから、逐次置屋ができました。写真は、岡元町の東端の置屋「都」と思われる建物。*1
花街が衰退した後は、旅館みやこ荘に転業しました。*2
当時の屋号が残っています。
実際に置屋が増えてきた段階では、岡元町よりも岡元町と本通り(県道)の間の「新富町」に、多くの置屋が置かれました。東端から、喜仙、瓢家、富乃家、曙、吉住、芳野家、花房家、玉の家、北繁松が建ち並びました。*1
ハートのマークの装飾。
【参考文献】
*1 区誌編集委員会:新屋敷区誌(新屋敷区,2008)P.229,P.232「昭和前期の芸妓置屋等配置図」
*2 岡谷市下諏訪町住宅明細地図(1970)P.18
参考文献
参考記事
今回は、岡谷(長野県岡谷市)の町並みと風俗を散歩します。
岡谷の花街の誕生までには、幾多の屈折がありました。明治37年7月、平野村内の手塚茂太郎氏ほか20名から芸妓置屋営業免許指定地出願が出されましたが、風俗上害があり、反対する立場と、街発展上賛成という立場がぶつかりあい、長い間停滞していました。*1
昭和4年の昭和恐慌のとき、不況対策と結びつけ税収もあり、街の活性化にもつながると強調され、昭和8年12月、ついに県から許可が出され、平野村岡元町が芸妓置屋の指定地となりました。*1
岡元町は、現在の県道の新屋敷バス停留所から南側へ入ったところです。
現在小柳ビルがある場所には、小柳見番と置屋の嘉美野家がありました。*1
岡元町の西のはずれに位置する老舗のすき焼き店「美好」。
ここには、三好検番がありました。*1
【参考文献】
*1 区誌編集委員会:新屋敷区誌(新屋敷区,2008)P.229,P.232「昭和前期の芸妓置屋等配置図」
参考文献
参考記事
須坂の青木新道には、飲み屋街が形成されていて、青木新道からトテ馬車(人を乗せる馬車)が出ていました。1
青木新道は、かつて、赤線・青線地域で、7,8軒の店が並んでいました。1
現在の青木新道には、古びたスナックの建物が残っています。
青木新道の赤線・青線は、昭和32年の売春防止法の施行により廃止となりました。*1
上中町の交差点の南側。国道406号線沿いの時計や人形屋の間の路地。
昔の雰囲気が残る路地です。
くの字型に曲がりながら続いています。
木造母屋の前を通りぬけると反対側の道路へ出ます。
参考文献
参考記事
うきよ小路の奥まったところにある、銭湯の「君が湯」
汲み井戸や共同水道しかなかったころは、バケツで水を運ぶ仕事は子供の仕事で、共同水道から家の風呂まで何度も往復して風呂に水を入れました。もらい湯といって、隣近所で声を掛け合い、もらい湯に行ったり来たりし、濃密な近所付き合いの家族ぐるみの交流の場でした。1
近隣の人々は「君が湯」という銭湯へいった。「君が湯」は平成になって、閉鎖され煙突も撤去された。1
玄関付近。
うきよ小路の入口。
欄干に「浮世橋」彫られた石橋が残されています。
かつての用水の跡。
町屋の裏側を流れるので、「裏側用水」と呼ばれていました。(案内板より)
左側の欄干には、「うきよばし」、反対側には、「昭和二年六月」と彫られています。
須坂の花街の全盛期は、昭和の初期のころで、上中町のうきよ小路沿いには、芸者衆を抱える置屋軒を連ねていました。戦後、昭和30年代は、戦後の花街の最盛期で、花街の芸者の名入りの手ぬぐいタオルが配られていました。戦時中に疎開してき富士通が電話器製造などで最盛期を迎えていたのもこの時期でした。*1
現在のうきよ小路は、、料亭「とよ松」の建物など、当時の小路の雰囲気が残されています。
うきよ小路の案内板。
須坂の芸者衆も昭和から平成に変わる頃には、徐々にその数が減り始め、長野からコンパニオンを呼ぶようにもなり、平成10年頃には、座敷に揚がる芸者は姿を消しました。
【参考文献】
*1 須坂市誌編さん室 編. 須坂市誌 第2巻 地誌・民俗編(須坂市,2014)P.492-494
参考文献
参考記事
劇場通りにある東京庵。明治時代創業の老舗食堂です。
木造三階建て。
玄関脇に、ひょうたんの意匠。貼り紙によると、冷やし中華は、店主自慢のメニューです。
冷やし中華とビールを注文。
参考文献
参考記事
須坂の劇場通り商店街(以下、劇場通り)は、須坂駅の南東約1kmのところにあって、全長は約500mです。劇場通りの入口には、商店街協同組合が設置したアーチがあります。劇場通りは、須坂劇場が昭和50年頃まで立地していた通りです。1
金物屋の建物。
食料品、理容・美容、飲食、クリーニング、靴、薬・化粧品、花卉、衣料品などの商店が建ち並んでいます。1
反対側(南側)のアーチ。
今回は、須坂(長野県須坂市)の町並みと風俗を散歩します。
須坂駅前の「かなめ町通り」は、飲食店が連なる通りです。
かなめ町(要町)は、赤線・青線地域で、34,5軒の店が並んでいましたが、これらの店は昭和32年の売春防止法の施行により廃止となりました。また、昭和の戦時中まであった共栄館という映画館は、戦後はダンスホールに生まれ変わり、昭和27年頃まで続きました。当時ダンスホールは、不良の溜り場などと陰口をいわれたこともありました。昭和の中頃は、若者たちは、要町で吞むことが多く、駅前は、昭和40年代までは富士通に通勤する人々で賑わっていましたが、昭和50年頃からバスで富士通の工場まで送迎されるようになってから、賑わいも減っていきました。*1
現在のかなめ町通りは、スナックが複数店入居する商業ビルなど、飲食街の賑わいをたもっています。
かなめ町会館。
スナックの看板。
新湯田中温泉の繁華街にあるひと際目立つオレンジ色の建物。

パチンコ店だったようです。

パチンコ「金の玉」の看板。

現在は、金の玉は無く、スナック店になっています。

参考文献
参考記事
新湯田中温泉の入口付近にある通称「YOU遊街」と呼ばれるスナック街。
レトロなスナック店が密集しています。
1階がスナックの店舗の2階部分の看板。旧店名の看板が残っています。
水着姿の女性。
参考文献
参考記事
旅館の清風荘。改築されていますが、遊廓時代の風情のある建物です。
地元の方の話によると、中庭に湯小屋がある構造は遊廓時代の名残だそうです。
中庭の奥に見える蔵のような建物は、宴会用の座敷です。蔵を改良して座敷にしたのではなく、最初から蔵のような座敷として作られました。
茶室として使われていた部屋。
参考文献
参考記事
かつての湯田中遊廓の通り。地元の方の話によると、この道路の両側には遊廓がびっしりと建ち並んでいたとのこと。道路は、はじめ私道でしたが、私道だと除雪してくれないので、皆で話し合った結果、町に寄付して公道にしてもらったそうです。湯田中遊廓は、踊りや三味線などの芸を披露する宴席だったそうです。
通りの中でも最大級の旅館。
かつての妓楼の屋号がそのまま残る白雪楼。
現在は、旅館が建ち並んでいます。
参考文献
参考記事
今回は、湯田中(長野県下高井郡山ノ内町)の町並みと風俗を散歩します。
湯田中新地の入口に位置する三社信者は、湯田中新地の守護神です。
祠脇の池の中央の石。
三社神社の西側に湯田中遊廓がありました。*1
【参考文献】
*1 東京交通社:大日本職業別明細図 長野県(東京交通社,1926)
参考文献
参考記事
中世の時代より、敦賀と琵琶湖を運河で結ぼうという計画が何度も試みられました。敦賀港に近い児屋川の河口には、運河の雰囲気が残っている場所があります。
写真右側が水路。左側が船溜まりです。
舟小屋。
南側へは水路が続いています。
参考文献
参考記事
敦賀に老舗洋食店「ヨローッパ軒」。
入口を入った1階には、「ご自由にお持ち帰りください」と書かれた古い食器類が陳列されています。
「ヨローッパ軒」と言えば、ソースカツ丼が名物です。
大盛りを注文。物凄いボリュームです。
参考文献
参考記事
敦賀市津内町にある銭湯のサフラン湯。
「サフラン湯」と書かれた煙突。
風情のある暖簾。入口正面には「いらっしゃいませ」の看板。
脱衣場。畳のスペースがあって落ち着きます。
参考文献
参考記事
敦賀の遊廓の歴史は古く、慶長10年(1605年)頃、川中の上嶋町の遊女たちが、三ツ屋町と六軒町に移されとことに始まります。*1
六軒町、新町、三ツ屋町、森屋敷町は、敦賀の川向花街の四ヶ町を形成し、四丁町といわれていました。*1*2
場所は、現在の天満神社周辺(栄新町1)です。*3
六軒町は、始め青楼が六軒あったから、その町名になったと伝えられ、「洞房語園」は全国で7番目の遊廓として敦賀六軒町をあげ、また「色道大鏡」*4 も「敦賀の遊廓は六軒町といふ。挙げ屋(揚屋)の居る所を、みつやといふ。」と書いています。*1
天満神社の東側に位置する新町には、出口楼、新月楼、品の家、中たみ楼、三河や、福寿楼、中駒、安本楼、安房楼、などがありました。*5
また、昭和31年の市街図*6 によると、この付近に、「敦賀特殊料理店」の記載があります。戦後も花街として続いていたようです。
三ツ屋町、森屋敷町があったと思われるあたり。*3*5
【参考文献】
*1 山本晴幸:旧町名から見た敦賀の歴史(日本海地誌調査研究会,2011)P.66-69
*2 吉田喜太郎:敦賀を繞ぐる人物品さだめ(敦賀新聞社,1936)P.120
*3 気比史学会:いま甦るみなとまち敦賀の町並み(気比史学会,1988)昭和20年7月12日戦災時の復元地図
*4 藤本箕山,新版色道大鏡刊行会:色道大鏡.新版(八木書店,2006)P.378
*5 敦賀市北地区老人クラブ連絡協議会:敦賀のふるさと北(敦賀市北地区老人クラブ連絡協議会,1984)
*6 中部職業交通社:福井縣敦賀市全図(中部職業交通社,1956)
参考文献
参考記事
「敦賀赤レンガ倉庫」は、1905年に石油貯蔵用の倉庫として建設されたレンガ建築物で、2015年10月に敦賀の観光施設でオープンしました。*1
館内には、敦賀の最盛期(明治後期~昭和初期)の街並みを再現したジオラマが展示されています。*1
案内板によると、赤レンガ倉庫の裏側(天満神社の隣)は花街でした。
当時の花街の様子が再現されています。
【参考URL】
*1 敦賀赤レンガ:公式ホームページ
参考文献
参考記事
今回は、敦賀(福井県敦賀市)の町並みと風俗を散歩します。
駅構内に「小便小僧の敦(とん)ちゃん」の像が設置されています。
箱庭のような空間。
横から。
参考文献
参考記事
吾妻町のそば屋の「御清水庵」から細い道を南に入ると、お清水通りです。通りには、御清水不動明王(写真左手前)があって、ここから湧き水が流れ込み、当時は風流な船遊びができる場所でした。*1
旧料亭の多葉喜(泉風楼)。*1
入口付近。
御清水不動明王に掲示されている当時の泉風楼の写真。沼地を前にした洒落た料理店でした。
【参考文献】
*1 徳山孝:続 武生のまち並み(徳山孝,1997)P.53
参考文献
参考記事
武生の天王町に、趣のある細道があります。
細道の両脇には、料亭「春駒」「京家」が建ち並んでいます。
入口。
老舗料亭外観。
参考文献
参考記事
武生の京町は古くからの佇まいが残る商店街です。木造三階建ての建物もあります。(写真右手前)
美容室の建物。
ブロック塀でデザインされています。
美しいウエーブは女の浪漫です。
参考文献
参考記事
武生市街の龍泉寺(深草1丁目)。
ここに、奥村栗子女史の碑があります。
奥村栗子女史は、武生小学校の女教師でしたが、明治7年に芸娼妓授業所取締兼授業師となって、歌、裁縫などを教授しました。*1
明治29年、病没後、門人が碑を建立しました。*1
【参考文献】
*1 武生風土記編さん委員会:武生風土記(武生市文化協議会,1979)P.572
参考文献
参考記事
武生の旧尾花新地の北端。
こじんまりとした店舗の洋食屋の「いし川」。
武生と言えば「ボルガライス」
オムライスの上にカツが乗っていて、ボリューム満点です。
参考文献
参考記事
旧尾花新地には、スナックの店舗が散在しています。
交差点付近のスナック店。
赤線時代を彷彿させます。
独特の外観を持った建物。
参考文献
参考記事
武生の尾花町(現在の桂町)は、遊廓の街でした。12
遊廓街の入口からみると、この一画だけが道幅が広くなっていることがわかります。
明治31年に、各所に散在していた置屋を尾花町に整備したのが始まりで、昭和33年の売春防止法が施行されるまで続きました。1
中央に用水が流れ、両脇には、松並木があります。2
古い建物も残っています。
「尾花支」と書かれた電柱番号札。
【参考文献】
*1 武生風土記編さん委員会:武生風土記(武生市文化協議会,1979)P.555-P.556
*2 徳山孝:武生のまち並み(徳山孝,1994)P.108
参考文献
参考記事
今回は武生(福井県越前市)の町並みと風俗を散歩します。
JR北陸本線の武生駅前に設置されている「愛のポスト」。
箱の上面に書かれている説明を読むと、この箱が白ポストであることがわかります。
箱の中には、成人向け雑誌が投函されていました。
参考文献
参考記事
芦原温泉の裏通り。芦原ミュージック劇場があります。
芦原温泉に「ストリップ劇場」が登場した歴史は、比較的新しく、昭和31年からでした。芦原大火(昭和31年4月)後、まだ旅館もようやく復興のきざしを見せ始めた頃、焼け跡の一角にいち早くストリップ小屋を建てたのが、芦原温泉の興行師の三沢正雄さん。「芦原観光スタジオ」(現在の芦原ミュージック劇場)というこじんまりした小屋でした。昭和33年~34年にかけて同町にもう一軒「湯の街スタジオ」、温泉二丁目の旅館「仁泉」のそばに「芦原スタジオ」と計3軒が誕生。売春防止法が施行されて間もなくのことで温泉客も遊び場を求め、この3軒を”はしご”する客も多くいました。*1
夜の様子。
芦原温泉に3軒あったストリップ劇場のうち、その後、湯の街スタジオ、芦原スタジオは閉店。芦原ミュージック劇場だけが、劇場を拡張。珍しいガラス張りの2階ステージも特設。ストリッパーの寮までつくりました。*1
建物裏側の看板。
【参考文献】
*1 読売新聞福井支局:芦原温泉ものがたり(旅行読売出版社,1973)P.158-P.161
参考文献
参考記事
今回は、芦原温泉(福井県あわら市)の町並みと風俗を散歩します。
芦原花街の発生は、明治の頃、八幡楼、福島屋、山室屋、橋本楼がそれぞれ、1~2名の芸妓を抱えていたのが始まりで、大正7年に芸妓検番が設立、大正11年に、芸妓の技法、作法、学科を習得させる「柳糸学舎」が創立されました。*1
「芦原温泉市街図」*1 によると、えちぜん鉄道の踏切近くの善久寺の隣に、「置屋」が記載されています。
置屋だったと思われる建物。
2階部分の造作。
【参考文献】
*1 芦原温泉開湯100周年記念誌編集委員会:開湯芦原100年史(芦原町,1984)P.101,「芦原温泉市街図」
参考文献
参考記事
小松市今江町にある銭湯の今江温泉元湯。小松駅と串茶屋の中間あたりの道路沿いにあります。
大型の銭湯です。
入口。
「今江温泉」と書かれた煙突。
参考文献
参考記事
串茶屋には、遊女の共同墓地があります。
300坪に及ぶこの墓地は江戸時代、文化・文政の頃に出来ました。*1
東京南千住の浄閑寺は吉原の菩提寺であったため、境内には三千人の遊女の供養塔があり、また、新宿の投げ込み寺であった成覚寺には子供合埋碑がありますが、ともに合葬したものです。これに対して、串茶屋の遊女の墓は、単独の墓で、全国的に極めて珍しいものです。大小さまざまな女郎墓は、紋所や蓮の花を彫刻されたりした大きく立派なものです。*1
遊女の六地蔵。*1
【参考文献】
川良雄,池田己亥一:遊女の墓(北国出版社,1972)P.125-P.130
参考文献
参考記事
串町のバス停付近。古い建物が残っています。
串茶屋の旧時の建物で現存しているものはありませんが、妓楼中屋の建物が串町に移築されて、北出酒店の家屋として妓楼の輪郭を留めています。*1
2階部分。
東側から。
【参考文献】
川良雄,池田己亥一:遊女の墓(北国出版社,1972)P.38
参考文献
参考記事
今回は、串茶屋(石川県小松市)の町並みと風俗を散歩します。JR北陸本線小松駅からレンタサイクルに乗り、約20分。串茶屋バス停に到着します。
串茶屋のおこりは藩政時代の初期の北陸街道の宿駅制度の実施に始まっていて、串の北方のはずれにあった一里塚の傍にできた茶店の給仕女が、やがて前田利常の公許を得て遊女となり、串の廓となりました。*1
バス停脇の串茶屋町史蹟案内図。
町の北側に今も残る遊女の墓。
妓楼「山屋」の名残を留める三階の松。
【参考文献】
川良雄,池田己亥一:遊女の墓(北国出版社,1972)P.5-P.18,P.34-P.35
参考文献
参考記事
金沢市街の犀川大橋南詰交差点から北西へ約500m。住宅地の中に銭湯のあわづ湯があります。
昔懐かしい昭和の香りがする銭湯です。
建物の大きさに圧倒されます。
大きな暖簾。
参考文献
参考記事
金沢市片町2丁目の新天地飲食街の奥に、屋台風の横丁の「中央味食街」があります。
軒先の低い店舗がずらりと並んでいます。
夜になると、レトロな雰囲気が色濃くなります。
まるで、昭和の時代にタイムスリップしたかのようです。
参考文献
参考記事
金沢市の片町の「片町きらら」の裏通りに位置する新天地商店街。昭和のにおいが残る一画です。
新天地のルーツは、戦後の闇市で、市内の浅野川沿いから集団移転して生まれました。*1
夜になると、ネオンが灯ります。
京の町屋のような落ち着いた佇まいです。
【参考文献】
*1 「出世地蔵」の案内板より。
参考文献
参考記事
石坂の有楽園跡の通り。*1
「赤線跡を歩く2」*1 に掲載されている戦前の玉ノ井を連想させる入口を持つ建物。
緑色のタイルで装飾されています。
玄関のタイル。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.26-P.31
参考文献
参考記事
にし茶屋街にある西検番事務所の角を右に曲がってしばらく行くと、掘割にかかる小橋が見えます。*1
小橋を渡った先がかつて赤線のあった石坂で、地元の人は「いっさか」と発音します。*2
スナックが密集しています。
タイルで飾られたスナック。
石坂は、かつてタイルの見本市のようだといわれたほど、タイルで装飾された娼家の多い町でした。*2
【参考記事】
*1 風俗散歩(金沢):掘割にかかる小橋(2010.4)
【参考文献】
*2 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)P.193-P.199
参考文献
参考記事
今回は、金沢の町並みと風俗を散歩します。
にし茶屋街にある西検番事務所。水色も木造の建物です。
西検番事務所は、にし茶屋街(写真左奥)にあります。
西検番事務所は、芸妓の稽古場兼管理事務所として建設されました。
玄関部分のモダンな装飾。国登録有形文化財の建造物です。
参考文献
参考記事
北陸ホテルの周囲を散策します。
入口の「いらっしゃいませ」の案内看板。
客室の番号札。
石川県モテルホテル業組合連合会推薦の店。
参考文献
参考記事
国道8号線沿い。「パステル北陸」の東側をさらに進みます。
8号線から南側の林を入ったところに、「モテル北陸」と思われる建物が残っています。
「モテル北陸」は、昭和38年に開業。日本のモーテル第一号として知られています。ただし、最初はドライバーの休息所でした。*1
入口。
1階がガレージ、2階が客室。
当時の写真*1 と比べると、2階部分の造作の特徴が今も残っています。
【参考文献】
*1 双葉社:夢空間ファッションホテル名商・巨匠の物語(双葉社,1999)P.32
参考文献
参考記事
国道8号線沿いの分校町(ぶんぎょうまち)にあるモーテル「パステル北陸」の建物。現在は休業中のようです。
入口近くに、アダルトビデオのパッケージが捨てられています。
小屋に張り付けらている料金表。
看板。
参考文献
参考記事
今回は、動橋(いぶりばし、石川県加賀市)の町並みと風俗を散歩します。
JR北陸本線の動橋駅は、かつては片山津温泉と山中温泉を結ぶ交通の要所でした。動橋駅の南側を横断する国道8号線は交通量が多い国道として有名です。
国道8号線に面して、かつて、北陸秘宝館がありましたが、現在はパチンコ店になっています。
そのパチンコ店も、国道8号線の拡幅工事のため、現在は閉店しています。
敷地の東側には、「ビデオプラザ北陸」がありました。
参考文献
参考記事
羽咋市のかつての遊廓街にある大衆食堂。地元の方の話によると、遊廓の「柳亭」の建物があった頃からこの地で営業しているそうです。
「UFOのまち羽咋」にちなんだ「UFOラーメン」。
落ち着いた和風の店内。
「UFOラーメン」を頂きました。
参考文献
参考記事
羽咋市島出町に、近年まで羽咋遊廓の柳亭(りゅうてい)の建物が残っていました。*1
明治30年11月10日の北國新聞に掲載されている「羽咋遊廓遊廓芸妓番付」*2 によると柳亭、広海楼、遊泉楼、新盛楼、会席亭、遊楽亭、千鳥亭、中初亭、の24名の芸妓が名を連ねており、そのうちの6名が柳亭の芸妓です。
現在は、閑静な住宅地になっています。
建物があったと思われる場所。道は行き止まりになっています。
逆方向から。
【参考文献】
*1 日本地政協会:羽咋市・羽咋郡明細区分図(日本地政協会,1974)P.35
*2 羽咋市史編さん委員会:新修羽咋市史(石川県羽咋市,2008)P.258-P.259
参考文献
参考記事
明治期、羽咋大橋の両側は船着場で、付近には遊廓が軒を並べ賑わいました。*1
松柳医院(羽咋市島出町)のある通りには、古い建物が残っています。
印刷屋だった建物。*2
料理旅館だった2階建ての木造家屋。*2
【参考文献】
*1 羽咋市史編さん委員会:新修羽咋市史(石川県羽咋市,2008)P.258-P.259
*2 日本地政協会:羽咋市・羽咋郡明細区分図(日本地政協会,1974)P.35
参考文献
参考記事
今回は、羽咋(はくい、石川県羽咋市)の町並みと風俗を散歩します。
羽咋大橋近くにあるラブホテルの看板。
看板に導かれて進みます。
歩くこと、約10分。青緑色のブロック塀が現れます。
緑色のラブホテル。
参考文献
参考記事
川岸町の料理屋街にあるレトロな美容室。全体が薄いピンク色です。
入口の斜めドア。
モダンな斜めの手すり。
歴史を感じさせる貴重な建物です。
参考文献
参考記事
石動の免許地は、はじめ今石動に一ヶ所、後には福町(いずれも小矢部川の西側)にも設けられました。*1
また、昭和7年(1932年)の富山県統計書などの資料*2 によると、石動の川岸町(小矢部川の東側、現在の東福町)に花街(遊廓)があって、貸座敷9軒、料理屋38軒、芸妓47名、娼妓5名の規模でした。
川岸町にはかつての料理屋と思われる建物が現在も残っています。
大正13年の石動町住宅案内図*3 に、和洋御料理、仕出し「上埜楼」と記載のある旅館の建物。
満月楼だったと思われる建物。*3
【参考文献】
*1 小矢部市史編集委員会:小矢部市史 下巻(小矢部市,1971)P.61
*2 社団法人現代風俗研究会:20世紀の遺跡 加藤政洋「消えゆく花街の景観、廓建築の痕跡」P.44
*3 千秋謙治:砺波・小矢部今昔写真帖(郷土出版社,2002)
参考文献
参考記事
今回は、石動(いするぎ、富山県小矢部市)の町並みと風俗を散歩します。石動は、高岡と金沢の中間に位置し、北国街道の宿場町として栄えました。現在の石動駅の北側が中心市街地で、その東側には、小矢部川が流れています。小矢部川沿いは、風光明媚な地で、観光旅館の松泉閣の建物が建っています。
旅館に隣接した料亭風の建物。
観光旅館と書かれたホテルの玄関。
小矢部川からの遠望。
参考文献
参考記事
氷見市街から、高岡市街行きのバスへ乗車し約20分。県道373号線沿いに、氷見昭和館があります。
館内は、昭和の町並みが再現されています。
カメラの展示コーナー。
懐かしいEPレコードの展示もあります。
参考文献
参考記事
氷見本町の商店街沿いにある銭湯の氷見温泉。
現在は、休業中のようです。
レトロでモダンな建築です。
レンガ造りの煙突。
参考文献
参考記事
氷見の光禅寺の西側には、通り沿いに風情のある飲食店が建ち並んでいます。
このあたりは、かつての有磯新地の一部で、山岸楼、巴亭、二塚や、稲荷亭、の遊廓や料理屋がありました。*1
氷見と言えば、うどんです。
氷見の地酒「曙」の舛酒を頂きました。
氷見うどんとミニ海鮮丼のセット。
【参考文献】
*1 氷見百年史編修委員会:氷見百年史(氷見市,1972)P.632
参考文献
参考記事
氷見の入船町(現在の丸の内)には、かつて遊廓があって、多数の妓楼が軒をつらねていました。この遊廓のことを氷見では俗に「めんきょちょう」と称しました。これは「免許地」のなまりです。明治19年5月11日、富山県が指定した13カ所の「免許地」の起源ですが、その中に射水群氷見本川町が入っています。その地は、光禅寺の裏側にあたり、その一郭は大正12年8月20日より、入船町と改称されました。*1
氷見町大火の後、現在地の元「大浜楼」に移転した平和交通の社屋。この折に、「駅前平和タクシー(株)」から「平和交通(株)」に社名が改められました。*2
「氷見有磯新地略図」*1 によると、光禅寺の東側。小坂山楼があったあたり。*1
「一角」「入舟亭」があったあたり。*1
島勇楼があったあたり*1 に建つスナック。
【参考文献】
*1 氷見百年史編修委員会:氷見百年史(氷見市,1972)P.108-110,P.631-633
*2 氷見市立博物館:写真にみる氷見の昔と今(氷見市立博物館,2003)P.30
参考文献
参考記事
氷見市街の丸の内。富山第一銀行氷見支店西側の交差点の角に、小さな公園があります。
ここは、かつて愛宕神社があった場所で、公園の隅には、小さな鳥居が残っています。
「愛宕神社跡」の碑。
この付近は、元「有磯新地」と呼ばた遊廓地で、大正期から昭和10年代にかけて多数の貸座敷や妓楼、料理屋などが軒を列ねて賑わいましたが、昭和13年の氷見町大火により罹災しました。*1
【参考文献】
*1 氷見市立博物館:写真にみる氷見の昔と今(氷見市立博物館,2003)P.30
参考文献
参考記事
今回は、氷見(富山県氷見市)の町並みと風俗を散歩します。
氷見市街を流れる湊川は、河口に近い市街の中心部付近で大きくカーブを描いています。
この付近(公衆トイレの奥の現在のアミューズやまとビル(写真の水色のビル)にあった日本劇場は、昭和30年代に氷見に3館あった映画館の一つでした。*1
復刻橋。
大正7年に作られた鉄筋の橋です。
逆方向から。
【参考文献】
*1 氷見市立博物館:写真にみる氷見の昔と今(氷見市立博物館,2003)P.9
参考文献
参考記事
末広町の飲み屋小路にある高岡牛乳の牛乳箱。
紺色に白文字のデザインです。
側面には、高岡ヨーグルト
郵便受けの下にぶら下げられています。
参考文献
参考記事
末広町にある飲み屋小路の末広飲食センター。小路の入口に「末広センター」と書かれたゴミ箱が設置されています。
1階部分に飲食店が入る共同建築です。
夜になると艶っぽい雰囲気になります。
末広飲食センター。
参考文献
参考記事
末広町の呑み屋横丁。
昼間の雰囲気から比べると、夜は、一転してディープです。
スナックからはカラオケの歌声が漏れ聞こえます。
ピンク色のネオン看板。
参考文献
参考記事
高岡市街の北西側の中島町。商店街の奥まった場所に銭湯があります。
中島湯。
昔ながらの銭湯です。
煙突。
参考文献
参考記事
高岡市清水町のますや食堂
地元では有名な、おいしい大衆食堂です。
ラーメン、蕎麦、丼ものから洋食まで、なんでも揃っています。
かつ丼と缶ビールを注文。
参考文献
参考記事
羽衣遊廓があった一画にある稲荷神社。
遊廓創立の記念碑に、深島平蔵、八島三𠮷の名が刻まれています。
八島三𠮷さんは、高岡市百姓町の出身で、大阪角力の大関(角力名猫又三吉)に出世し、帰郷後、下川原町の料亭八島屋の主人公となりましたが、大火の後免許となった羽衣遊廓へ移転、イの一番に八島楼を開業しました。
羽衣組合一同。
羽衣遊廓は、明治、大正、昭和の60年にわたり栄えた八島楼をはじめ、古曼、木下、煙草森、松島、米谷、寺西、大丸中八、松野など48軒が大繫昌しましたが、昭和33年の売春防止法施行とともに廃転業しました。
【参考文献】
*1 高岡史談:高岡史話(高岡史談会,1965)P.45
参考文献
参考記事
羽衣遊廓は、明治33年の大火直後に免許地として発足しました。
現在の高岡市五福町には、道路が格子状になっている一画があります。
古い旅館の建物。
「貸席」と書かれています。
北側から。
【参考文献】
*1 高岡史談:高岡史話(高岡史談会,1965)P.45
参考文献
参考記事
今回は、高岡(富山県高岡市)の町並みと風俗を散歩します。
高岡駅前から北西方向へ延びる大通りは、町の中心部です。
歩道に、白ポストが設置されています。駅前でない場所に設置されているのは、珍しいケースです。
裏側に「白ポスト」の表示。
富山県内では、チューリップがデザインされた白ポストを多く見かけます。
参考文献
参考記事
越中島の中心街。中町の交差点付近は、古い商店の建物が残っています。
バー「エデン」だった建物。*1
鮮やかな青色のタイルで装飾された円柱が残っています。
遊廓があった倉町の近く。
ドアの造りが印象的な和風のバーの建物。*1
【参考文献】
*1 日興出版:新湊市・(附)小杉町・大門町・大島町(日興出版,1971)P.68
参考文献
参考記事
大門町に遊廓は、横町(いまの錦町)と倉町周辺にありました。*1
和田川沿いにある倉町は、風情のある町並みが残っています。
昭和初期の大門の町並み図*2 によると、このあたりには、料理屋の浅山楼、渋谷楼、深川楼、勇権楼が建ち並んでいました。
大きな木造母屋。
現在の、医院の屋号と料理屋時代の屋号が一致しています。*2
和田川からの遠望。
【参考文献】
*1 大門町教育委員会:大門町史(大門町,1981)P.P.638-640
*2 大門史談倶楽部:見る、知る、伝える大門地誌(大門史談倶楽部,2015)P.46
参考文献
参考記事
北陸本街道に面した大門町に遊廓ができたのは、あきらかではありませんが、明治18年に高岡米商会所が創立され、取引が一層盛んになったころにできたとも言われています。昭和8年前後には横町(いまの錦町)と倉町周辺には20軒もの置屋と料亭があって、芸妓は200人近くもいました。その頃が大門町遊廓の最盛期でした。元来、大門遊廓は、免許地ではなく私娼地で、大衆的で安価に遊べるという評判から富山の桜地町・東新地、高岡羽衣遊廓につぐ繁盛ぶりで、県下各地から客が登楼しました。*1
昭和28年元旦の庄東タイムスの広告には、大門二業界として、清九楼、ひさご楼、城光楼、新京楼、文人楼、深川楼、伏木楼、二口楼、山田楼、村井楼、第二東京楼、大松楼、河崎楼の名があります。*2
現在の大門タクシーのあるあたりから現在は道路となっているあたりに、敷島楼、城光楼、伏木楼、大松楼の4軒が建ち並んでいました。*3*4
東京楼(その後旅館東京)があったと思われるあたり。*3*4
【参考文献】
*1 大門町教育委員会:大門町史(大門町,1981)P.638-640
*2 門町町史編集室:大門町史.続巻 (大門町,2005)P.49
*3 大門史談倶楽部:見る、知る、伝える大門地誌(大門史談倶楽部,2015)P.18,P.46
*4 日興出版:新湊市・(附)小杉町・大門町・大島町(日興出版,1971)P.68
参考文献
参考記事
今回は、越中大門(富山県射水市)の町並みと風俗を散歩します。
越中大門駅から県道322号線を西に進んだところに、大門赤湯鉱泉の看板が目に飛び込んできます。
和帳折衷の佇まい。
入口。
なぜか、マリア像が安置されています。
参考文献
参考記事
富山市街の商店街の総曲輪(そうがわ)通りは、長さ約450mの商店街で、アーケードの両側には、商店、飲食店が並びます。
大正中頃から昭和にかけて、繁華街につきものの食堂やカフェーが開店し、総曲輪通りは賑わいを見せました。昭和4年には、県内のカフェーは200軒、女給は563人を数え、モガ・モボからやがてエロ・グロの時代へと移ろいましたが、昭和2桁になると軍国化の波に飲まれて、赤い灯青い灯りは街からひとつずつ消えていきました。*1
ウスイ時計店のあたりには、カフェー・ユニオンがあって、女給7~8人で、女のサービスよりもむしろ料理に重点を置いていました。*1*2
トラヤ帽子店があったあたりには、カフェー「万歳」は、3階建ての堂々とした店で、女給も10人以上いました。*1*2
【参考文献】
*1 堀江節子:総曲輪物語(桂書房,2006)P.2,P14-P15,P.72-P.73「昭和34年発行の富山・高岡市住宅詳細図より総曲輪付近」
*2 八尾正治,水間直二,山岸曙光:総曲輪懐古館(巧玄出版,1977)P.113-P.114
参考文献
参考記事
いたち川にかかる東橋の西側。
古びた横丁があります。
「全国女性街ガイド」に名前の出てくる「新世界」の看板が掲げられています。*1
現在の居酒屋屋スナックが営業中です。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.122-P.123
参考文献
参考記事
いたち川沿いの遊歩道は、散歩に最適です。
犬の散歩も多いため、あちこちに犬糞看板が立ってします。
犬糞看板は、町内会によってさまざまです。
「厳禁」と2文字だけの看板。
参考文献
参考記事
石倉町商店街は、道幅は狭いが、富山の中心地から東新地花柳街への通路にあたるいわゆる「東の道」の繁華の地でした。
終戦後9か月目の昭和21年5月1日、石倉商店街に富山座が開業しました。富山座は、戦前の長い歴史を持つ「新富座」と「大正座」の後を受けて、劇場として21年間も続きました。富山座は、地元富山の自主演劇活動に場所を提供した他、東京の歌舞伎もよくやってきました。もう一つの目はストリップで、昭和23年から空気座の「肉体の門」が来演。俗にパンパン劇といわれ、大衆に迎えられました。
タイルの円柱を持つ建物。
泉橋からみた石倉町商店街。
【参考文献】
*1 原義三郎,中川達:鼬川の記憶(桂書房,2004)P.198-P.203
参考文献
参考記事
富山市街を流れるいたち川は、宮本輝の芥川賞作「蛍川」で取り上げられた川です。この川に「花見橋」とい情緒のある名の橋があります。
花見橋の右岸北詰に、料亭の八清楼がありました。八清楼は明治の中頃から大正、昭和の初めにかけて、富山市で一番といわれた大きな料亭で、割烹、旅館、貸座敷、芸妓置屋という、いわゆる三枚鑑札を持っていて、抱え芸妓が5~6人いました。*1
八清楼の向かいには、分家の「八清スピード部」があって、自転車の販売を手掛けていました。*1
上流から見た花見橋。
【参考文献】
*1 原義三郎,中川達:鼬川の記憶(桂書房,2004)P.294-P.296
参考文献
参考記事
今回は、富山(富山県富山市)の町並みと風俗を散歩します。
いたち川沿いには、遊廓や岡場所が散在していました。岡場所は私娼地で町の出入口や街道沿いに発生し、明治の初めまで、稲荷町、北新町、辰巳町などにありました。稲荷町は、藩庁から「女持旅籠」の免許を持っていたので、岡場所とはいえませんが、平旅籠と町屋が混在していました。*1
稲荷町の中心にある北陸街道から北に入ったところに善久寺があります。
墓地の一番奥まったところに、一基の自然石の供養塔が建っています。表の文字は「蓮の露」と記されています。*1
裏面には、「慶応四年戊辰七月茶屋仲間」と刻まれています。この石碑は、美しい遊女が殿様に見染められて身ごもったが、難産で母子ともに相い果てたので、それを悼んで建てられたものです。*1
【参考文献】
*1 原義三郎,中川達:鼬川の記憶(桂書房,2004)P.266-P.267
参考文献
参考記事

三日市の桜町の旧遊廓内にある稲荷神社の琴平社。

境内には狛犬が鎮座しています。

狛犬の台座。「三日市検番組合」と読めます。

昭和十一年の建立です。
参考文献
参考記事
かつての特殊飲食街の桜町にある寿司店。
朝日旅館(旧朝日楼)へ続く通り。
当時は、夜の11時頃になると客を連れた芸者さんで賑わったそうです。
にぎり寿司と日本酒を注文。
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参考文献
参考記事
桜町の北側の一画。一富士楼があったと思われるあたり。
現在は、料亭の一富士になっています。
長開楼、八本楼、大黒楼、帝石楼があったあたり。
八本楼付近には、古い建物は、現在は印刷所の事務所となっているようです。
参考文献
参考記事
明治10年代頃から、黒部の三日市では、婦女に接待させる特殊飲食店ができ始め、第一次世界大戦終結の大正8年頃には、桜町を中心に、置屋、料亭あわせて20数軒ができ、繁栄を極めました。これは、明治になって産業が発達するにつれて、社交機関として利用され、他方農村の糸挽夜業宿がなくなり、青年の楽しみがなくなったためでもありました。*1

大正15年の市街図「三日市町案内」*2 によると、写真の朝日旅館は、旧朝日楼で、朝日楼の周囲には、石塚飲食店、朝日楼、みゆき楼、篭辰楼、長和亭、八木支店、中町屋、吾妻楼、大黒楼、金米楼、長開楼、八本楼、大黒楼、帝石楼、開花楼、荻野亭、がありました。

地元の方の話によると、朝日楼は、桜町の中では最も大きく、魚津の遊廓に引けを取らなかったそうです。

建物の裏側。

【参考文献】
*1 森田良作:黒部市荻生郷土史(森田良作,1980)P.122
*2 三日市町協賛会:我が三日市町(三日市町協賛会,1926)「三日市町案内」
参考文献
参考記事
黒部市街の東側に位置する東三日市駅。富山地方鉄道の黒部駅の隣の駅です。
風情のある駅舎です。
簡素な改札口。
富山地方鉄道は、特色のある車両が残っています。
参考文献
参考記事
今回は、黒部(富山県黒部市)の町並みと風俗を散歩します。
あいの風とやま鉄道線(旧JR北陸本線の一部)黒部駅前。

駅前の女性のブロンズ像が立っています。

黒部出身の彫刻家の浦山一雄さんの作品です。

側面から。

参考文献
参考記事
朝日町荒川の近く。朝日町が作成したユニークな立小便看板があります。

近くに飲み屋横丁(写真右奥)があるので、立小便をする人がいるのかもしれません。

近くの公衆トイレへ誘導します。

公衆トイレは、ここから100mぐらい先(写真右奥)です。

参考文献
参考記事
置屋*1 のすぐそばの料亭「月見家」。料亭街は庶民の憩いの場所でした。*2

風情のある佇まいです。

料理屋だったと思われる「富士見軒」。

重厚な建物です。

【参考記事】
*1 風俗散歩(泊):泊料亭協同組合(2017.5)
【参考文献】
*2 読売新聞(2005.11.17)富山版 P.34「ひと紀行」
参考文献
参考記事
神田新地と呼ばれている朝日町神田町の泊料亭組合*1 の前庭に「新地創立記念碑」と大書された石碑があります。*2

この石碑は、戦前の廃娼運動の高まり、戦争期、戦後の混乱期、そして赤線廃止という時代の波のなかに一度は解体され、長い間草木の仲に埋もれていましたが、昭和56年に泊料亭組合が現在地に移転したもので、移転時の組合員の名を刻した副碑が沿えてあります。*2

碑は、正面に「新地創立記念碑」右に「明治三十二年九月創立」左に「大正七年八月建立」と記されています。大正7年に神田新地ができてから20年になることを記念して当時の人達が建立したものです。*2

台座の正面から左にかけて創立者の名前が記されており、まだ左の面には、大正七年の建立世話人の名前が刻まれています。*2

【参考記事】
*1 風俗散歩(泊):泊料亭協同組合(2017.5)
【参考文献】
*2 森野稔:神田新地物語(森野稔,1991)P.2-P.3,P.24-P.25
参考文献
参考記事
今回は、泊(富山県下新川郡朝日町)の町並みと風俗を散歩します。 富山県内の東端に位置する朝日町の中心部にある泊駅は、その名の通り、かつて宿場町として栄えたところです。*1

泊料亭協同組合の建物。

100年以上の歴史を持つ「泊芸妓」は現在も伝統を受け継いでいます。*1

料亭の建築らしい丸窓。

【参考文献】
*1 読売新聞(2005.11.17)富山版 P.34「ひと紀行」
参考文献
参考記事
本牧の繁華街の北側。見晴トンネルの近くの閑静な住宅街。

細い道の奥まったところに銭湯の泉湯があります。

昔ながらの銭湯の佇まい。

ステンドガラスと暖簾。

参考文献
参考記事
チャブ屋の語源は、軽飲食店を指す「CHOP HOUSE」とされ、港の人力車夫たちの間で転訛していきました。これが明治初年のことで、大正年間、本牧小港*1 と大丸谷(おおまるだに)の2ヶ所に統合され、震災後は日本人の客も出入りするようになりました。*2

大丸谷のチャブ屋街は、現在のJR石川駅からすぐのところにありました。*2
1956年の住宅地図*3 によると、この付近には「バーオリエンタル」がありました。

「HOTEL第一」「HOTEL横浜」があったあたり。*3

この交差点の角には、「旅館ヒーロー」がありました。*3

淡谷のり子が歌った「別れのブルース」は、作曲家の服部良一が、私娼窟が密集している本牧のバーで洋酒を傾けていたときに思いつき、藤浦洸が作詞しました。「窓を開ければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える....」*4
【参考記事】
*1 風俗散歩(本牧):本牧小港のチャブ屋街跡地(2009.5)
【参考文献】
*2 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.70-P.71
*3 経済地図社:中区明細地図(経済地図社,1956)
*4 吉武輝子:別れのブルース(小学館,2003)P.205-P.206
参考文献
参考記事
本牧町2丁目の「横浜ロイヤルホテル」*1の南側。

チャブ屋街だった頃は、「ルビー」という名のホテルがあった場所です。*2
現在は、商業ビルの1階に喫茶店が営業中です。

落ち着いた雰囲気の店内。

ナポリタンとビールを注文。

【参考記事】
*1 風俗散歩(本牧):チャブ屋街の名残(2017.5)
*2 経済地図社:中区明細地図(経済地図社,1956)
参考文献
参考記事
戦後営業を再開していた頃の本牧チャブ屋街。本牧町2丁目に名残があります。*1

横浜ロイヤルホテル。(昭和31年の住宅地図*2 では「ロイヤルパーク」)
この付近は、チャブ屋と思われるホテルが密集していました。*2

ホテルの屋上に設置されている自由の女神像。

自由の女神が立つホテルを見ていると、大正時代のチャブ屋が並ぶ町の姿が想像できます。*3

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.70-P.71
*2 経済地図社:中区明細地図(経済地図社,1956)
*3 川本三郎:我もまた渚を枕(筑摩書房,2009)P.64
参考文献
参考記事
今回は、本牧(神奈川県横浜市)の町並みと風俗を散歩します。本牧十二天緑地は、横浜開港以来、外国人が訪れるようになった風光明媚な浜辺です。現在、その場所は公園になっていて、案内板が建っています。

戦後は、米軍に接収され、十二天山の上部には、給水タンクが設置されました。

案内板に掲示されていた「横浜全図(明治3年)」。
横浜開港は、本牧にも大きな変化をもたらしました。本牧の八王子山と十二天山は、沿岸防備のために熊本藩が、後に鳥取藩が守りを固める場所になりました。開港後、十二天の地には遊歩道が通じ、外国人がピクニックや海水浴に訪れるようになりました。*2

十二天山の遠望。
本牧の海は、かつては十二天の海とも呼ばれ、外国人居留民は、この海で海水浴を楽しみました。それが次第に日本人の間にも伝わり、海辺には、茶店や脱衣場が開かれるようになりました。やがては酒と女が入り込むようになり、〇〇屋、△△楼と呼ばれていた屋号が、〇〇ホテル、△△ハウスと洋風に改められ、風俗営業へと移行し、明治の中頃に「チャブ屋」と呼ばれるようになりました。*2

【参考文献】
*2 重富昭夫:横浜「チャブ屋」物語(センチュリー,1995)
長者町9丁目。福富町の歓楽街の中心部からは少しはずれたエリアです。

ラーメン店の隣にアダルトショップがあります。

隣は風俗店です。

アダルト館。

参考文献
参考記事
福富町のGMビル。外国人専門の高級娼婦だったメリーさんが客を引いていた雑居ビルです。*1

GMビルのエントランス。

夜になると、ピンク色の看板にあかりが灯ります。

クラブなどの店舗が入居しています。

【参考文献】
*1 檀原照和:消えた横浜娼婦たち(データハウス,2009)P.153-P.156
*2 中村高寛 (監督) :ヨコハマメリー [DVD]