一関(一関の花柳界)現在の錦町水天宮通り。

一関の花柳界は、現在の「錦町水天宮通り」にあって、昭和30年代後半より大いに賑わいました。芸者衆は、24人と盛岡に次ぐきれいどころ、唄、三味線、踊りと芸事は県内一、二と名声を博しました。一関の花柳界は、花川戸遊廓を中心に芸者は芸者、置屋は置屋としてのシキタリを守り、安く楽しく遊べた所に特徴がありました。料理屋でどんちゃん騒ぎのあと、芸者や太鼓持ちまで引き連れて磐井橋を渡って花川戸に繰り込むのが、粋な遊びでした。*1

錦町の東側のこのあたりには、置屋が3軒ほどありました。

カフェ六矢があったあたり。女給と飲んだり、ダンスをする洋風スタイルは、バー、クラブの先がけとなりました。*1

錦町の西側の南北の通り。
吉本、ひさごや、松の葉、梅本支店などがありました。*1

【参考文献】
*1 花川戸遊児:いちのせき花柳界と花川戸遊廓(さとうまさはる後援会,2007)P.29-P.32

参考文献

参考記事

若柳(美容室)花嫁看板。ノスタルジックな雰囲気。

若柳の本吉街道は、看板建築の建物が建ち並ぶ商店街です。

パーマ(美容室)の看板。

ノスタルジックな雰囲気が漂います。

別の美容室の花嫁看板。

参考文献

参考記事

若柳(菅原写真館)昭和6年の「若柳町全図」にも記載。

若柳の中心部は、若柳側の北側の川北元町から本吉街道にかけてのあたりです。

菅原写真館は、昭和6年の「若柳町全図」にも記載されている写真館です。

マンサード屋根の建物が特徴です。

北側の用水路から見た写真館。

参考文献

参考記事

若柳(ブロンズ像)レオタード像。若柳橋の近く。

若柳橋の近くにブロンズ像があります。

格調高いブロンズ像です。

裸像のように見えますが、レオタード像です。

後方から。

参考文献

参考記事

若柳(阿部旅館)遊廓時代の雰囲気が残されている遺構。

地元の方の話によると、現在の阿部旅館の建物は、遊廓時代のものではなく、建て替えられたものだそうです。

庭に残る古井戸は、当時のままだそうです。
遊廓時代の雰囲気が残されている唯一の遺構と言えそうです。

代々伝わる松の木。

旅館(旧阿部楼)の敷地は、縦に長く広大です。

参考文献

参考記事

若柳(阿部旅館)遊廓の阿部楼。旅館に建て替わっています。

昭和6年発行の「若柳町全図」*1 によると、遊廓の阿部楼は、若柳大橋近くの川沿いの通りにありました。

現在は、阿部旅館に建て替わっています。

古くから伝わる町宿として、現在も営業中です。

この日は、阿部旅館に宿泊です。

【参考記事】
*1 風俗散歩(若柳):若柳金成商工会(2016.7)

参考文献

参考記事

若柳(若柳金成商工会)昭和6年発行の「若柳町全図」の復刻版を購入。

今回は、若柳(宮城県栗原市)の町並みと風俗を散歩します。若柳は、宮城県の最北端に位置する町です。
町の中心部にある若柳金成商工会。

商工会で、昭和6年発行の「若柳町全図」の復刻版が販売されています。

1枚(200円)購入。

裏面「若柳町案内」には、遊廓「阿部楼」の名が確認できます。

参考文献

参考記事

下ノ江(遊廓「栄楽屋」跡地)現在は「久楽」

旅館「栄楽屋」は、遊廓当時のままに残されていた建物で、強者共の夢のあとを偲ばせていました。*1

平成16年、佐志生の老舗旅館「川口屋」が、「栄楽屋」を建て替え「川口屋別亭久楽」をオープンしました。*2

「久楽」の名は、創業者の「久吉」と「永楽屋」から取って名付けられました。*2

旅館からは、下ノ江の風光明媚な景色が見渡せます。

参考文献

*1
高橋長一臼杵物語高橋長一1978

P.582
下ノ江港は帆船時代の風待ちの港であり、5万石城下臼杵の港でもあっ…

*2
臼杵商工会議所臼杵商工会議所ニュース臼杵商工会議所
第624号2015.3.25 リンク

P.4
川口屋は大正3年創業の老舗旅館です。
平成16年に、下ノ江美崎にあっ…

参考記事

下ノ江(妓楼寄進の百度石)綿津見神社。妓楼は、花屋、永楽屋等が有名でした。

下ノ江の旧遊廓街にある綿津見神社。

百度石があります。

下ノ江の遊廓は6軒あって、娼妓は30人。妓楼は、花屋、永楽屋等が有名でした。*1
昭和10年、下ノ江を野口雨情が訪れています。一行は、花屋のはなれに落ち着きました。このはなれ座敷は、岩の上にあって津久見島をみはるかす素晴らしい風景でした。
花屋には、「潮来汐去」「花屋楼にて雨情」の横額が保存されています。花屋の離れにて汐の満干にによる岩場の変化が特に興味をひいたものであった。*2

京屋小兵衛は、「下ノ江出店の始」*3 に記載のある名です。

参考文献

*1
日本遊覧社全国遊廓案内日本遊覧社1930 リンク
下ノ江港遊廓

下ノ江港遊廓は大分県北海郡下ノ江港字下ノ江に在つて、九州日豊線下ノ江駅から…

*2
高橋長一臼杵物語高橋長一1978

P.582
下ノ江港は帆船時代の風待ちの港であり、5万石城下臼杵の港でもあっ…

*3
臼杵史談会臼杵史談 第45号臼杵史談会1956
藩債取調牒

P.216

下ノ江(遊廓跡地)帆船時代は風待ちの港。

今回は、下ノ江(したのえ、大分県臼杵市)の町並みと風俗を散歩します。
帆船時代、下ノ江港は風待ちの港として賑わいました。船乗りたちは、船から下りると酒を飲み各地の港で風待ちしている間に覚えた歌や踊りで時を過ごしました。店では、そんな客の要望にこたえて酌をする女を置き、やがてこの女たちが遊女になり、”下ノ江女郎衆”と呼ばれようになりました。*1

明治時代に入り、帆船時代が去ると下ノ江港の使命は終わりました。下ノ江遊廓は、船員相手ではなく、町から人力車で遊びに来る紳士、紳商が主な客となり、この頃、今に伝わる下ノ江節が定着しました。*2
下ノ江節(抜粋)
 下ノ江可愛や金毘羅山の松が見えますほのぼのと
 下ノ江女郎衆は錨か網か今朝も出船を二隻とめた
 下ノ江に女郎買って三つ子の沖で、はじくそろばん後やさき

下ノ江節は、遊廓の衰微とともに忘れ去られようとしましたが、大正15年、下ノ江観光協会によって復活し、戦後は、臼杵市桜まつり、別府市温泉まつりで婦人会が出演し、また、NHKでも放送されました。*3

「和」という屋号の店。古い町並みが残っています。

参考文献

*1
大分合同新聞社大分合同新聞大分合同新聞社
高橋長一下ノ江今昔臼杵の話371980.7.27 朝刊

帆船時代、下ノ江港は風待ちの港として賑わった。船乗りたちは、船から下りると…

*2
高橋長一臼杵物語高橋長一1978

P.582
下ノ江港は帆船時代の風待ちの港であり、5万石城下臼杵の港でもあっ…

*3
臼杵史談会臼杵史談 第45号臼杵史談会1956
下ノ江節

P.17
下ノ江節は、遊廓の衰微とともに忘れられようとしたのを大正15年、下ノ…

参考記事

佐賀関(港町の路地)正念寺の階段下のトンネル。急な斜面に石垣。

港町、佐賀関の商店街。から揚げ屋さんと理容室の間に路地の入口があります。

急な斜面に石垣が組まれています。

狭い路地が続きます。

正念寺の階段下のトンネルへと続きます。

参考文献

参考記事

佐賀関(テルミ美容室) 鮮やかな黄緑色のタイル。錆びた看板。

佐賀関の臼杵湾側。古い美容室の建物が残っています。

テルミ美容室。錆びた看板がいい雰囲気です。

鮮やかな黄緑色のタイル。

窓枠は、ねずみ色。

参考文献

参考記事

佐賀関(旧繁華街)レトロなスナックの看板。港町の町並み。

港町の町並みに、スナックが点在します。

レトロなスナックの看板。

商店街のスナック店。

スナック「姫」。

参考文献

参考記事

佐賀関(元妓楼「新枡屋」の建物)上浦遊廓跡。元旅館の今津屋。

古い町並みが残る佐賀関の上浦地区。

元妓楼「新枡屋」の建物が残っています。*1*2

現在は、商店(プロパン販売)になっています。新枡屋の向かい側は、元旅館の今津屋(写真左側手前)です。*2
今津屋は、文久4年(1864年)に、勝海舟と坂本龍馬の一行が来た折に、町をあげて接待し、「賄い方(まかないかた)」として活躍した屋号です。(案内板より)

建物脇の路地。

【参考記事】
*1 風俗散歩(佐賀関):100年以前の屋号の建物(2016.6)
【参考文献】
*2 佐賀関郷土史研究会:佐賀関郷土史 2,3合併号(佐賀関郷土史研究会)P.2-P.8

参考文献

参考記事

佐賀関(100年以前の屋号の建物)江戸時代の屋号が建ち並ぶ町並み。

今回は、佐賀関(さがのせき、大分県大分市)の町並みと風俗を散歩します。

現在の地図に重ねて、100年以前の屋号の建物の位置が赤枠で記されています。

佐賀関の中心街。

建物の前には、看板が設置されているので、解りやすいです。
写真の平野屋元呉服店で、現在は佐賀関郵便局です。郵便局の道を挟んだ反対側(現在の井口天真堂薬局のあたり)には、妓楼(遊廓)の「今利」がありました。*1
佐賀関では、遊廓のことをカッセキ(貸席)といい、昔は100人ぐらいの女性がそこで働いていました。その関係から、佐賀関には呉服屋さんが多くありました。*2

【参考文献】
*1 佐賀関郷土史研究会:佐賀関郷土史 2,3合併号(佐賀関郷土史研究会)P.2-P.8
*2 大分市教育委員会:佐賀関地区 大分市伝統文化調査報告書4(大分市教育委員会,2011)P.71

参考文献

参考記事

口之津(原城跡)島原遊廓の名前の由来。天草四郎時貞。

口之津から島鉄バスで約20分、原城前のバス停で下車。そこから原城跡までは徒歩約10分です。
原城は、島原の乱最後の舞台となった場所です。

京都の島原遊廓の名前の由来は、島原の乱というのが定説です。六条三筋町の遊郭が強制移転させられたとき、その命令があまりに唐突であったため業者は大混乱しました。その混乱の状況が島原の乱のようだったので、新遊廓を「島原」と称したというわけです。*1

原城跡の碑。

島原の乱の総大将となった天草四郎時貞の像。島原遊廓の命名のきっかけをつくった人物です。

【参考文献】
*1 明田鉄男:日本花街史(雄山閣出版,1990)P.25

参考文献

参考記事

口之津(苧扱川)おこんご。木綿以前の代表的な繊維。おこぎばし。

口之津の南大泊に、「苧扱川(おこんご)」という奇妙な地名があります。かつて遊廓があった場所としても知られています。*1*2
「苧扱川」は、苧麻(ちょま、木綿以前の代表的な繊維で現在も栽培される)をしごいて(扱くは、粉をこぎ落すの意)繊維をとる仕事をした川であることから言いならわした地名と考えられています。*1

「旧口之津町字界」を見ると、この付近を「苧扱川」が流れ、「苧扱川」という字区画があったことがわかります。*1
写真の橋の左側がおこんご遊廓跡地*2 です。

「苧扱川(おこんご)」の下流へむかうと、「苧扱橋」がかかっています。

「おこぎばし」と発音するようです。

【参考文献】
*1 口之津史談会:口之津の歴史と風土(口之津史談会,2007)P.38-p.42,P.56-P.66
【参考記事】
*2 風俗散歩(口之津):おこんご遊廓跡地(2016.6)

参考文献

参考記事

この記事を参照している記事

津島(苧之座)苧麻の商人たちの町。

口之津(苧扱川遊廓跡地)市街から南側に峠を越えるた南大泊。

口之津の市街から南側に峠を越えると南大泊です。
さらに、西へ進んだところが、おこんご遊廓通りです。*1

このあたりが10軒の遊廓が建ち並ぶ一画の入口です。*1

肥前屋、苫屋、徳村屋があったあたり。*1

花月楼、松月楼、対帆楼があったあたり。*1

【参考記事】
*1 風俗散歩(口之津):歴史民俗資料館の遊廓に関する展示(2016.6)

参考文献

参考記事

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津島(苧之座)苧麻の商人たちの町。

口之津(屋号をつけた商家の町並み)遊廓発祥地。多くは単に流行的な屋号。

口之津には、古くから屋号をつけた家が多く見られます。*1

多くは単に流行的な屋号とも推察されます。*1

遊廓発祥地の肥前屋(後に苧扱川にて遊廓)があったあたり。*1

同じく、遊廓発祥地の大坂屋があったあたり。*1

【参考文献】
*1 太玄興正:口之津港変遷史(昭和堂,2012)P.106,附図「口之津村御案内」

参考文献

参考記事

口之津(遊廓に関する展示)苧扱川遊廓通り。口之津歴史民俗資料館。

口之津歴史民俗資料館に、遊廓に関する展示があります。

かつての町並みが再現された展示によると、口之津における遊廓の発祥は、大坂屋(写真左)と肥前屋(写真右)でした。
肥前屋は、後に苧扱川(おこんご)に移転しました。*1

口之津港が石炭積出しで活気に満ちた明治中期は、島原をしのぐ賑わいで、港町は、約1.5kmにわたりました。廻船問屋、旅館、木賃宿を営むものもみられ、遊廓は、人家が密集してくると大泊から町はずれの苧扱川(おこんご)に移されました。*2

おこんご遊廓通り。

【参考文献】
*1 太玄興正:口之津港変遷史(昭和堂,2012)P.106,附図「口之津村御案内」
*2 隈部守:人文地理(24(5),1972.10)「石炭産業発展期における口之津港の盛衰」P.74

参考文献

参考記事

口之津(歴史民俗資料館)からゆきさんの展示。村岡伊平治。

口之津港近くにある「口之津歴史民俗資料館」。からゆきさんの展示コーナーがあります。からゆきさんは、口之津から始まったとされています。島原ではからゆきさんのことを語ることはタブーとされていますが、口之津だけは例外で、口之津歴史民俗資料館には「からゆきさんコーナー」があり、からゆきさんの遺品などが展示されています。

シンガポールの娼館跡や日本人墓地にあるからゆきさんのお墓など、からゆきさんのことが説明されています。

女衒(ぜげん)、村岡伊平治。村岡伊平治は、明治20年(1887年)、中国の上海へ渡った際、誘拐されて奥地に監禁されていた日本人女性55名を救出しました。これらの女性たちは、士族や商家出身の美人揃いで、年齢は14歳から19歳までした。皆、外国の生活にあこがれ、騙されて連れてこられ、支那人に処女を奪われたのでした。村岡伊平治の行動は、ここまでは良かったのですが、救出した女たちの処置に困り、香港、シンガポール、カルカッタなどの東南アジア各地に女郎として売り飛ばしてしまい、これに味をしめて、村岡伊平治は、女衒家業に乗り出すことになりました。*1
村岡伊平治は、前科者を使って誘拐団を組織し自分はその親分にすわりました。村岡伊平治が扱った女の数は、明治22から27年までの5年間、シンガポールで手がけた数だけでも3,222人にのぼりました。*2

からゆきさんが帰国に際して、着物など身の回りのものを入れてきたブリキ製のトランク。ローマ字と日本語で記名してあります。*3

【参考文献】
*1 河合譲:村岡伊平治自伝(南方社,1960)P.34-P.35
*2 日本残酷物語. 第1部(平凡社,1959)P.364
*3 口之津史談会:口之津の歴史と風土5号(2007)P.129

参考文献

参考記事

口之津(口之津港ふ頭)石炭の積み出しで賑わっていた頃の口之津港の写真。

今回は、口之津(くちのつ、長崎県南島原市)の町並みと風俗を散歩します。
島原の南端にある口之津港は、天草の鬼池港とは島鉄フェリーで約30分で結ばれている玄関口です。明治時代、口之津港は、石炭の積み出し港として空前の賑わいを見せていました。

ふ頭の防潮壁に、石炭の積み出しで賑わっていた頃の口之津港の写真が掲載されています。

おこんご(苧扱川)遊廓の記載があります。「税関」があった場所には、現在は口之津資料館が建っています。

おこんご(遊廓)方面の遠望。

参考文献

参考記事

島原(お断りの看板)「犬・猫の『うんち』放置禁止!!」の看板。

島原市街の商店街(島原温泉ゆとろぎの湯近く)。

湧水路に、「犬・猫の『うんち』放置禁止!!」の看板。

旧舟津新地*1 近く。車1台分の空地があります。

「駐車・犬のフンお断り」の看板。

【参考URL】
*1 風俗散歩(島原):舟津新地跡地 (2010.1)

参考文献

参考記事

島原(宝来泉浴場)島鉄バスターミナル近くにある銭湯。コンクリート造り。

島鉄バスターミナル近くにある宝来泉浴場。

現在は、休業中です。

コンクリート造りの銭湯です。

バスターミナル側から。

参考文献

参考記事

島原(湊新地遊廓跡地)旧「土佐屋」の名残。裏側は運河。

湊新地遊廓の南側の通り。「土佐屋」(昭和32年当時の屋号)があった場所です。*1

駐車場の看板に、当時の屋号「土佐屋」の名残。

駐車場から北側を見たところ。
この付近には、「亀福」がありました。*1

「土佐屋」の裏側は、運河になっています。

【参考文献】
*1 鶴田文史:五足の靴(長崎文献社,2006)P.143 「旧島原湊町湊新地廓屋号復元図」

参考文献

参考記事

島原(湊新地遊廓跡)長手方向に廊下を配し、部屋を並べている造り。

湊新地遊廓跡の東側の通り。
このあたりには、「一力」、「金波楼」がありました。*1

「翠月」跡。*1
長手方向に廊下を配し、四畳半もしくは六畳の部屋を並べている造りです。*2

玄関付近。

建物の東側の窓。

【参考文献】
*1 鶴田文史:五足の靴(長崎文献社,2006)P.143 「旧島原湊町湊新地廓屋号復元図」
*2 川野好美,他:日本建築学会大会学術講演梗概集(2010.9)「島原・湊新地の空間構造と遊廓建築」

参考文献

参考記事

島原(湊新地のレンガ塀)表と裏の世界の結界。駐車場となっている一画。

湊新地は、明治3年に造成され、明治12年頃、それまで島原市内の南風泊や川尻に散在していた遊廓を移転させて遊廓街がつくられました。*1*2
その後、昭和32年に赤線廃止になるまで湊新地遊廓は存続し、昭和34年に島原外港ができるまでは、湊新地が島原の港としての中心的役割を担いました。*2

湊新地を歩いていると、レンガ塀があることに気づきます。

湊新地は港町と遊廓街という表と裏の世界が一つの島に共存していたことから、レンガ塀が表と裏の世界を分けていたと考えられています。*2

現在は、駐車場となっている一画。大きなレンガ塀が残されています。

【参考記事】
*1 風俗散歩(島原):湊新地遊廓跡地(2010.1)
【参考文献】
*2 川野好美,他:日本建築学会大会学術講演梗概集(2010.9)「島原・湊新地の空間構造と遊廓建築」

参考文献

参考記事

島原(「痛魂」の供養碑)大師堂の天如塔の隣の案内板や碑が設置されている一画。

大師堂の天如塔の隣の案内板や碑が設置されている一画。

大師堂 施設案内図。

女性哀史を中心とした多数の著作がある山田盟子さんが建立した供養碑「痛魂」。

「痛魂」の供養碑には、次のように刻まれています*1
あ、あ、紅怨の娘子軍
海を渡ったからゆきたちよ
アジアに果てた慰安婦たちよ
塔のある聖地に来りて安らえ
合掌

【参考文献】
*1 山田盟子:「娘子軍」哀史 ー からゆき、娼婦、糸工女たちの生と死(光人社,1992)P.271-P.274

参考文献

参考記事

島原(理性院大師堂の天如塔)修復後は、水色の塔に変身。

今回は、島原(長崎県島原市)の町並みと風俗を散歩します。
島原市湊道1丁目にある理性院大師堂。

からゆきさんの遺跡ともいえる天如塔。*1

最近、修復され、鮮やかな水色の塔になりました。

この塔は、明治42年(1909年)に大師堂の開祖である広田言証師により建立されました。内部には螺旋(らせん)階段が二つ(登り用と降り用)あり、仏の体内巡りを意識した珍しい建造物です。

【参考記事】
*1 風俗散歩(島原):理性院大師堂

参考文献

参考記事

伝馬町(裁断橋跡)飯盛女が生んだ都都逸。

旧東海道(伝馬町通り)が国道247号線と交差するあたり。裁断橋跡の碑があります。

寛政12年(1800年)、熱田の築出(つきだし)に鶏飯屋(けいはんや)なる新奇な茶店が出来ました。その店の女中の一人に「お亀」と呼ばれる人気者がいて、まもなく「お亀」の名が熱田の飯盛女の総名となりました。鶏飯屋の流行につれて、築出一帯は、「新長屋」と呼ばれる遊里となり、その流行にあおられて、享和3年(1803年)に、神戸(ごうど)が遊里化し、いにしえからの伝馬町とあわせ3箇所が競う状況となりました。神戸は1等地、伝馬町が2等地、新長屋は3等地でした。これらの飯盛女たちはすべて「お亀」と呼ばれました。*1


築出は、現在の裁断橋跡付近*2 、神戸は、熱田荘のあたり*3 にありました。大正時代の裁断橋の写真(案内板より)。

同じ場所に都都逸発祥の地の碑があります。
その頃、飯盛女(お亀)にまつわるこんな流行唄がありました。
お亀買う奴あ天窓で知れる 油付けづの二つ折れ
そいつはどいつじゃどいつじゃ ドドイツドイドイ
この唄の囃子言葉の「ドドイツドイドイ」が都都逸の由来になったと言われています。江戸では「都都逸節」、大阪では「よしこの節」、名古屋では「名古屋節」と呼び名が違っていました。よしこの節は四国に伝わり、徳島の阿波踊りで唄われる「踊るアホウに見るアホウ、同じアホなら踊らにゃ損そん」という有名な唄がうまれました。*4

【参考文献】
*1 名古屋市教育委員会:名古屋叢書 第16巻(愛知県郷土資料刊行会,1982)P.22
*2 編集考房とその仲間たち=土曜倶楽部十準構成員:名古屋いまむかし(編集考房,1978)P.148
*3 大野一英:名古屋ケチケチ繁盛記(講談社,1977)P.151
*4 玉川スミ:ドドイツ万華鏡(くまざさ出版社,1999)P.54-P.55

参考文献

参考記事

神宮前(「鍵の手」の小路)神宮小路の北側。

神宮小路の北側。道幅の狭い小路があります。かつては呑み屋街だったようです。

逆方向から。

小路は中央部で「鍵の手」になっています。

居酒屋の看板があります。

参考文献

参考記事

神宮前(神宮小路)ひょうたんの絵柄。

神宮小路のメインストリート(神宮前商店街の東側の通り)。

壁面にひょうたんの絵柄がデザインされています。

北側から。

「二十歳未満お断り」のプレート。

参考文献

参考記事

神宮前(薬局の看板)神宮前商店街。産制相談。

今回は、神宮前(愛知県名古屋市熱田区)の風俗と町並みを散歩します。
神宮前商店街には、古くからの店舗が多く建ち並んでいます。

薬局の前の「精力剤」の看板。

店舗は閉店し、自販機コーナーになっていますが、「精力剤」「産制具(コンドーム)」と大きな文字で書かれた看板が残されています。

「精力剤」の看板の裏側は「産制相談」。
日本で初めての「産児制限相談所」は、愛児女性協会が昭和30年に芝公園に開設されました。その後、この時期にはさまざまな相談所が雨後の筍のようにでき、中には、人の弱みにつけ込んで利を積もうとする奸商(かんしょう)の類も少なくありませんでしたが、それは裏を返せば、商売としての避妊マーケットが成立しつつあったことの表れでした。*1

【参考文献】
*1 荻野美穂:「家族計画」への道(岩波書店,2008)P.49-P.51

参考文献

参考記事

大須(飲み屋街)長屋風の建物の奇抜な意匠。

かつての大須新地と思われる飲み屋街は、1階が店舗、2階が住居空間の長屋風の建物が連なっています。

タイルで装飾された店舗。

奇抜な意匠の店舗

古風な窓枠。

参考文献

参考記事

大須(戦後生まれた飲食街)旧墓地だった場所。

かつての北野新地近く。旧墓地だった場所に古い飲み屋街があります。

昭和38年の名古屋タイムズに、明王殿(大光院)の旧墓地跡に戦後生まれた飲食街「”新地”は戦後の新名所」と題し、次のような記事があります。*1
一杯飲み屋からバーなど約百軒がぎっしり並び、夜は不夜城となる。木造二階建の床がきしむような長屋を改造して階上を居間、階下が店となっており、ケバケバしい化粧をした女が客のそでをひく。「あそこは遊ばせる」という風評があるだけにそれ目あてにくる客もあるとか。

東側の一画。

呑み屋街の裏側(公園側)。

*1 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会:大須レトロ(樹林舎,2010)P.48

参考文献

参考記事

大須(楼主の記念碑)旭廓を開いた中心人物。万年寺。

矢場町にある万年寺。

旭廓を開いた中心人物の三国楼の楼主中村正平の記念碑があります。

碑文には、次のように書かれています。*1
彼は天保八年(1837)袋町に誕生した。梅毒が蔓延するのを憂え、役所に遊廓を開くのを願い出た。まず自ら、この地に移った。しだいに移り住む人が出てきて、この地は新地と呼ばれるようになった。明治七年、転居する者たちを監督する役目についた。しだいに新地は栄えるようになり、名古屋第一の繁栄する地になったのは、彼の業績である。明治二十二年十二月二日、彼は五十二歳の生涯の幕を閉じた。

漢文で書かれていますが、”遊廓”、”廓”などの文字が確認できます。

【参考文献】
*1 沢井鈴一:名古屋大須ものがたり(堀川文化探索隊,2010)P.31-P.32

参考文献

参考記事

大須(北野天満宮)遊廓寄進の玉垣。大正6年。

北野天満宮には、遊廓から寄進された玉垣が何本も立っています。*1

この付近にあった北野新地は、周囲を墓地に囲まれ拡張できないため、明治8年、移転して旭廓となりました。*2
玉垣に大正6年と刻まれているので、旭廓ができた後に寄進されたものです。

「本家長壽楼」の玉垣。他に、「分家楽長壽楼」と刻まれた玉垣もあります。
「本家長寿楼」は、旭廓の日吉町にあった遊廓の屋号です。長寿楼は、たくさんの分家があったらしく、「新長寿楼」「楽長寿楼」「盛長寿楼」「清長寿楼」「繁長寿楼」がありました。*3

「福岡楼」「金波楼」「新金波楼」は、旭廓の大門町にあった遊廓の屋号です。*3

【参考文献】
*1 沢井鈴一:名古屋大須ものがたり(堀川文化探索隊,2010)P.29
*2 愛知県郷土資料刊行会:名古屋市史(愛知県郷土資料刊行会,1979)P.417
*3 南博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.83-P.84「全国遊廓案内」

参考文献

参考記事

大須(北野新地跡地)安政年間にできた遊廓。

清安寺の墓地囲まれた地に、安政年間(1854~60)遊廓ができました。「安政年間大須新地遊廓之図」によると、遊廓(元新地)の東の境界に大光院墓地と書かれ、北野天満宮(北野神社)が絵が描かれています。西の境界には清安寺の裏門が描かれており、元新地(北野新地)があった場所は、現在の北野神社付近と推察されています。*1

現在、当時の名残はありません。

逆方向から。

北側の通り。写真左側が清安寺。写真奥は、大光院墓地跡と思われます。(現在は公園)

【参考文献】
*1 沢井鈴一:名古屋大須ものがたり(堀川文化探索隊,2010)P.30,カラー口絵「安政年間大須新地遊廓之図」「現代の大須」

参考文献

参考記事

大須(新天地通り)盛り場・大須の看板だった映画館街。

今回は、大須(愛知県名古屋市中区)の町並みと風俗を散歩します。
大須の歴史は古く、大須の街を栄させたのは観音さまであり、遊廓でしたが、明治末期から大正、昭和と盛り場・大須の看板だったのは映画館でした。新天地通りは、映画館4館が建ち並ぶ映画館街で、北端の日活シネマ、続いて大須大映、名古屋劇場、万松寺日活と並んでいました。*1

現在は、電気街になっています。

映画館4館の中央にあった名古屋劇場は、昭和47年の焼失し、昭和52年、東京のアメ横、秋葉原の電気街の店を誘致して「ラジオセンター・アメ横共同ビル」をオープンさせ、のちの「大須電脳街」を形成しました。*1

駐車場から見た新天地通り。

【参考文献】
*1 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会:大須レトロ(樹林舎,2010)P.120,P.126

参考文献

参考記事

栄(屋上観覧車)現存する日本最古。

栄町交差点の南東の角にある名古屋栄三越。

屋上に遊園地があります。

屋上遊園地には、小さな観覧車があります。

現存する日本最古の屋上観覧車で、2007年に登録有形文化財に指定されました。高さ12m、直径が9.5m。2005年7月に営業を終了しました。*1

【参考文献】
*1 福井優子:ニッポンの観覧車(イカロス出版,2009)P.78

参考文献

参考記事

栄(むつみ小路)プリンセス大通りを南に入った左側。

プリンセス大通りを南に入った左側にあるむつみ小路。
むつみ小路は、栄小路は、松竹小路(現在は消滅)とともに、戦後の街づくりに貢献しました。*1

奥まったあたりの建物。

夜は、飲み屋街として賑わいます。

むつみ小路の看板。

【参考文献】
*1 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会:名古屋なつかしの商店街(風媒社,2014)P.74-P.75

参考文献

参考記事

栄(栄小路)戦後の街づくりに貢献。

栄のプリンセス大通り(丸栄と明治屋栄ビルの間の通り)を南に入ったすぐ右側に栄小路があります。
南呉服町と住吉町を結ぶ東西約90mの小路で、当時は約16の飲食店が軒を連ねました。八幡屋、夜来香本店は、当時から営業していた飲食店です。*1

現在も残る八幡屋。

北側は、駐車場になってしまったので、現在は片側だけの小路です。

夜の栄小路。
栄小路は、むつみ小路、松竹小路(現在は消滅)とともに、戦後の街づくりに貢献しました。

【参考文献】
*1 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会:名古屋なつかしの商店街(風媒社,2014)P.74-P.75

参考文献

参考記事

錦(キャバレー太平洋跡)屋上大看板。現在は閉店。

名古屋市中区の錦通り。名古屋銀行の向かいに、キャバレー太平洋の建物が残っています。現在は閉店しており、ビルの壁面には風俗広告看板が設置されています。

屋上に残る「キャバレー太平洋」の大看板。

当時は、ネオンが輝いていたのだと思います。

看板下部にはダンサーの姿が描かれており、華やかだった頃が偲ばれます。料金は3コース制。
A ¥4,000:8時まで入店のお客様。1時間1ドリンク
B ¥6,000:1時間半2ドリンク
C ¥8,000:1時間半飲み放題

参考文献

参考記事

錦(栄交差点小便小僧像)ベルギー政府から寄贈

2014年9月25日、栄町商店街は、ベルギーの首都ブリュッセルの有名繁華街ルイーズ通りと姉妹提携を結びました(案内看板より)。

姉妹提携を記念して、2015年8月22日、ベルギー政府から栄町商店街に小便小僧像が寄贈され、栄交差点に設置されました。*1
小便小僧の起源とされているのは、ブリュッセルに設置されているフラマン人彫刻家ジェローム・デュケノワ(Jérôme Duquesnoy)により1619年に製作された像ですが、寄贈された小便小僧はそのレプリカと思われます。

この日は、小便は出ていませんでした。

小便小僧とベルギー国旗がデザインされたワインも展示されています。

【参考URL】
*1 産経新聞:産経フォト(2015.8.22)<ahref=”http: www.sankei.com=”” photo=”” daily=”” news=”” 150822=”” dly1508220034-n1.html”=”” target=”_blank”>名古屋・栄に「小便小僧」ベルギー政府から寄贈

参考文献

参考記事

錦(風俗雑誌「シティヘブン」)厚さを10年前と比較。

今回は、錦(愛知県名古屋市中区)の町並みと風俗を散歩します。
錦の風俗散歩は、前回(2006年7月)に引き続き、今回で2回目です。

10年前は、コンビニで購入した風俗雑誌「シティヘブン」の冊子の厚さに驚愕しました。*1

今回も、コンビニで「シティヘブン」を購入。しかし、10年前に比べると、冊子の厚さは、かなりスリムになっています。スマホなどの端末機器が普及したことが影響しているのでしょうか。

駐車場の看板広告は盛況です。

今池(スナック店)フラメンコダンサー。

スナック店などが建ち並ぶ今池の繁華街。

フラメンコをコンセプトにした店でしょうか。

2階部分のフラメンコダンサーの像。

横から見ると板状です。

参考文献

参考記事

今池(ニューヘルスビル)近くに「今池特浴」。

今池5丁目。「ウェルビー今池(写真右側)」の道路を挟んだ向かい側は、スナックなどが入るビルです。(写真左端は、「キャバレー花園」の看板)

ニューヘルスビル。

「ヘルスビル」と言えば、「道後ヘルスビル」*1 を思い出します。

古い市街図を見ると、この場所(「キャバレー花園」の隣)には、スーパー銭湯と思われる「ニューヘルスセンター」があり、これがビルの名称になったと考えられます。どうやら、風俗店の”ヘルス”とは無関係だったようです。
餃子の王将の隣(写真左上)には、「今池特浴」の名があります。こちらは、風俗店だったのでしょうか。

【参考記事】
*1 風俗散歩(道後温泉):道後ヘルスビル(2009.5)

参考文献

参考記事

今池(スオミの湯跡地)名古屋の代表的なハッテン場。

イオン今池店の北東側の角に、かつて、スーパー銭湯の「スオミの湯」がありました。現在は、取り壊され、更地になっています。

「スオミの湯」は、名古屋の代表的なスーパー銭湯のハッテンバ場(3か所)、①竜泉寺ウォーターパーク、②あさひの舎、③今池スオミの湯、に紹介される有名なハッテン場でした。チェーン展開している「スオミの湯」は、純アルカリ性のお湯を使用した銭湯で、電気風呂かにジェットバス、から塩サウナや韓国エステまでありました。中年から若者まで、特に一般客が減る夜から深夜にかけては、ゲイ遭遇率はかなり高いものでした。*1

現在も残る「スオミの湯」駐車場。

当時の面影を残す遺構です。

【参考文献】
*1 Badi(1999.8)P.57「全国最新ハッテン場ガイド99」

参考文献

参考記事

今池(ビデオ店)ビジネス街の路地。「試写」。

今池交差点から、東へ進むと、「ビデオ」の看板が目に入ります。

店舗は、大通りから路地へ入った先です。

ビジネス街の中の落ち着いた雰囲気の場所にあります。

「試写」「営業中」の看板。

参考文献

参考記事

今池(今池地下劇場)地下街で唯一営業中です。

ほとんどの商店が休業している今池地下街ですが、その中で、成人映画館の「今池地下劇場」のみが、唯一営業中です。

2本立て、900円。

「トラブルお断り」の貼り紙。

券売機で入場券を購入します。

参考文献

参考記事

今池(今池地下街)エンゼルマークの喫茶店。

今池交差点の北西側の角に位置する新今池ビルの地下に、「今池地下街」があります。
地下鉄今池駅の12出口の隣が地下街への北側の入口です。曲線を描いた通路を進みます。

現在は、商店のほとんどは閉店しています。

飲食店街の看板。

森永のエンゼルマークが残る喫茶店。

参考文献

参考記事

今池(今池交差点)今池ブロードウェイのオブジェ。

今回は、今池(愛知県名古屋市千種区)の町並みと風俗を散歩します。

今池交差点に、今池の歴史とが掲載された案内が設置されています。

昭和49年当時の写真。新今池ビルに、「今池劇場」と「今池地下劇場(成人映画館)」の看板が見えます。

交差点に設置された水着の女性のオブジェ。「今池ブロードウェイ」と書かれています。

参考文献

参考記事

筒井町~車道(車道大市場)大正時代から続く商店街。

筒井町の南側(地下鉄桜通線の車道駅の南側)に車道商店街があります。
車道市場は、大正時代から続く商店街です。*1

車道大市場。寿司店の「龍文(たつふみ)」は、現在も営業中です。

市場の建物の隣にレストランや料理屋の建物が建ち並んでいます。

建物の裏側は空地になっています。

【参考文献】
*1 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会:名古屋なつかしの商店街(風媒社,2014)P.26-P.27

参考文献

参考記事

筒井町~車道(洋食屋「ラク亭」)選べるソース。

映画館の「東松竹映劇」跡地のマンションの西向かいにある洋食屋の「ラク亭」。

オムライスのソースは4種類から選べます。

店内の冷ケースには、キリン、アサヒ、サッポロのビールが並べられています。

オムライス(大盛り)とアサヒビール(大瓶)を注文。トマトソースとケチャップソースの違いを訪ねたところ、「トマトソースは自家製、ケチャップソースは、うちで作っていません。」とのことなので、トマトソースを選択しました。

参考文献

参考記事

筒井町~車道(「東松竹映劇」跡地)戦前はキャバレー「八千代館」。

 今回は、筒井町(愛知県名古屋市東区)の町並みと風俗を散歩します。
筒井町商店街は、尾張徳川家の菩提寺である建中寺を中心に東西約300mの門前町です。*1

かつて、建中寺の前の一画には、映画館の「東松竹映劇」がありました。戦前から「八千代館」の名で営業し、戦後は一時、キャバレーに転向していました。*1

現在は、マンションになっていて、1階には、たこ焼きとカレー店が入居しています。

筒井町商店街は、かつてのような賑わいはありませんが、最近は、フランス料理店やたこ焼店ができて、昔からのうどん店や和菓子店もあるので、グルメロードとして注目されています。*1

【参考文献】
*1 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会:名古屋なつかしの商店街(風媒社,2014)P.30-P.33

参考文献

参考記事

舎人町(料理屋の建物)祇園街。屋号が残る建物。

舎人町の「とみや」の屋号が残る建物。

当時の住宅地図によると、「とみや」の隣に「春日寮」、その隣に「中京祇園会館」(写真左奥のマンションのあたり)がありました。*1

同じ通り面して建つ料理「市松」。独特の意匠の建物です。

当時の電話帳*2 の”料理”の項を見ると、「市松」「若松」「小山料理店」「松月」「九十九」「久和」「よこい」などの料理店の所在地は、東区、”舎人”もしくは”祇園街”と記載されています。同様に、”芸ぎ”の項にも、”舎人”もしくは”祇園街”の記載があり、この一帯の花街は、「祇園街」もしくは「中京祇園街」と呼ばれていたようです。

【参考文献】
*1 善隣出版社:名古屋市東区(善隣出版社,1972)P.52
*2 東海電気通信局:名古屋電話番号簿(東海電気通信局,1968)P.412-P.414

参考文献

参考記事

舎人町(芸者屋街)トンネル芸者というあだ名。

今回は、舎人町(愛知県名古屋市東区)の町並みと風俗を散歩します。
舎人町は、戦災をまぬがれたおかげで、戦後の立ち直りは早く、戦後さらに名声を加えました。社用族の二次会どころの故に客足が遅く、十時頃からの客が多く、ついでに寝ていく客も多かったことから、昔から舎人町のトンネル芸者という変なダジャレのあだ名をつけられていました。*1

現在の舎人町は、閑静な住宅街ですが、ところどころに、当時の面影を残す建物が建っています。

こちらのお宅は、料理屋だったようです。

「若房」の屋号が残っています。昭和51年の住宅地図*2 には、料理「若房」その東隣に割烹「久和」、西隣に割烹「岩松」があり、この付近は料亭街でした。

【参考文献】
*1 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会:名古屋なつかしの商店街(風媒社,2014)P.29
*2 日本住宅地図出版:名古屋市東区(日本住宅地図出版,1976)P.52

参考文献

参考記事

丸の内(長者町繊維街)看板が連なります。

長者町繊維街は、丸の内から錦までを南北に貫く長い通りです。大きな看板が連なります。

主人が先頭に立って働く”現金取引”、”薄利多売”の商法は、長者町を日本有数の問屋街へと発展させる原動力となり、大正末期から昭和にかけての繊維卸問屋街時代を迎えました。*1

現在も繊維問屋が建ち並びます。

洋服の専門問屋。

【参考文献】
*1 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会:名古屋なつかしの商店街(風媒社,2014)P.126-P.127

参考文献

参考記事

丸の内(料亭「河文」)葵の紋。魚ノ棚通り。

長者町のレストラン「ザ・カワブン・ナゴヤ」の南側を東西に魚ノ棚通りが交差しています。
魚ノ棚通りを東側に入ったところに老舗料亭の「河文」が昔の佇まいそのままの姿で建っています。

登録有形文化財に指定されている建物。

建物の壁面に、「魚ノ棚通り」の説明が書かれています。江戸時代(元禄年間)は、料亭がありました。

玄関の奥には、葵の紋。
当時は、お昼から三味線の稽古の音がして、このあたりは大変賑やかでした。夜は芸妓さんを呼んで、本当に線香を立てていたそうです。「花代(線香代)」は、一本十二銭でした。*1

【参考文献】
*1 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会:名古屋なつかしの商店街(風媒社,2014)P.126-P.127

参考文献

参考記事

丸の内(レストラン「ザ・カワブン・ナゴヤ」)老舗料亭が運営

南北に長く延びる長者町の通りは、北側(丸の内2丁目)は上長者町、南側(錦2丁目)は下長者町と呼ばれています。
丸の内の長者町の歴史は、名古屋城築城の慶長15年(1610年)までさかのぼります。戦前までは料亭と芸者の街でした。戦後は大正末期から増えてきた繊維卸問屋の街として再出発しました。*1

「THE KAWABUN NAGOYA(ザ・カワブン・ナゴヤ)」は、老舗料亭「河文」が運営しているレストランです。

入口脇の案内板には、明治時代は、西洋料理店が建ち並ぶ歓楽街であったことが紹介されています。

夜の様子。

【参考文献】
*1 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会:名古屋なつかしの商店街(風媒社,2014)P.126-P.127

参考文献

参考記事

丸の内(名古屋城展示室)三遊廓。享元絵巻。

尾張徳川家の居城だった名古屋城。天守閣5階の展示室に、徳川宗春が築いた町並みのの様子を描いた資料が展示されています。

享元絵巻。

当時の芝居や遊里の様子が描かれています。

宗春が作った三遊廓。左が葛町遊廓。右上が西小路遊。廓。右下が富士見原遊廓。

参考文献

参考記事

丸の内(駅の貼り紙)後方注意。変質者注意。

今回は、丸の内(愛知県名古屋市中区)の町並みと風俗を散歩します。
地下鉄鶴舞線の丸の内駅。

出口へ向かう途中の「変質者」「後方」「注意」の貼り紙。

エスカレーターを登っていく途中。「盗」「撮」「注」「意」の貼り紙。

後ろを振り返ると急角度のエスカレータであることを実感できます。

参考文献

参考記事

川崎大師(料亭「恵の本」)かなまら巻。かなまら祭コラボ。

川崎大師の門前にある料理屋の「恵の本」。
かつて、このあたりは、名物の江戸前もの地ハマグリを使った蛤鍋を扱う料亭が、江戸時代に27軒、昭和でも16軒がこの界隈に賑わっていましたが、今は創業350年の「恵の本」)だけです。

かなまら祭コラボ企画の「かなまら巻」。

かなまら巻は、太巻き1本とお稲荷さん2個のセットです。日本酒も注文しました。

太巻きの断面。

参考文献

参考記事

川崎大師(子宝飴)仲見世通り。かなまらキャンディ。

 松屋総本店は、川崎大師仲見世「とんとこ飴きり」でお馴染みの老舗です。軽快な飴きりの音が聞こえてきます。

かなまらキャンディ。

「松屋の飴総本舗」の子宝飴。男性器と女性器の飴が1本づつ入ったセットです。

縁起物ですので、1セット購入しました。

参考文献

参考記事

川崎大師(エリザベス神輿)白い布で隠され大師公園に到着。

かなまら祭の名物。エリザベス神輿。

かなまら祭のメイン行事である面掛行列(男性器の神輿が町内を練り歩く行事)は、12:00頃から始まります。

エリザベス神輿については、前々回(2104年)、地元の警察から「もう少し何とかならないのか。」との注文がつき、前回(2015年4月5日)は、白いレースで神輿を飾る工夫を凝らし、少しは隠れるようにしました。*1
しかし、今年は大きな変化がありました。女装をした人たちが神輿を担ぐ行為*2 が無くなり、台車の載せて運ぶだけになりました。
また、前回、男根を隠した白いレースは、「レースが雨に濡れてかえっていやらしく見えた」*1 ことからでしょうか、白い布に変更されています。

大師公園に到着したピンクの男根は、全体を白い布で隠されたままです。多くの人が周りを取り囲んでいましたが、2度と姿を見せることはありませんでした。

*1 園田寿,臺宏士:エロスと「わいせつ」のあいだ(朝日新聞出版,2016)P.151-P.157
【参考記事】
*2 風俗散歩(川崎大師):ピンクの男根(2007.4)

参考文献

参考記事

川崎大師(境内でのグッズ販売)金山神社。木製のモニュメントは廃止。

境内には、男性器や女性器をかたどったグッズが売られています。
例年は、境内の中央に男性器をかたどった木製のモニュメントが置かれ、これに馬乗りになり記念撮影をする若い女性とその様子を撮影しようとする大勢の人だかりができます。*1*2
しかし、2015年は、その場の雰囲気に悪乗りして上半身を脱ぐ女性やふんどし姿の大学生が現れるなどのトラブルがあり、このため、2016年は、このモニュメントは設置しないことになりました。*3

「かなまら祭Tシャツ」を販売する女性販売員。

「まらキャンドル」。

ポスターもあります。

【参考文献】
*3 園田寿,臺宏士:エロスと「わいせつ」のあいだ(朝日新聞出版,2016)P.151-P.157

参考文献

参考記事

川崎大師(かなまら祭の行列)金山神社を1周。

今回は、川崎大師( 神奈川県川崎市川崎区)の町並みと風俗を散歩します。4月の第一日曜日は、「かなまら祭」の日です。多くの人で賑わっています。

訪れる人が多いため、入場規制が行われています。

入場を待つ行列は、隣の宮川医院を回り込み、さらに続いています。

列の最後尾は、金山神社を1周回ったところまで伸びています。

参考文献

参考記事

円頓寺(お嫁さんの看板)裏側にも顔。菓子問屋。

中央菓子卸市場のある通りには、菓子問屋が連なっています。

嫁入り菓子を扱っている菓子問屋でしょうか。お嫁さんの看板が立っています。

横から見たお嫁さんは、板状です。

裏側にも顔があります。

参考文献

参考記事

円頓寺(中央菓子卸市場)残念ながら取り壊し予定。

駄菓子屋街*1 の西側。高速道路の明道町JCTの近くに、中央菓子卸市場のレトロな建物が建っています。

残念ながら取り壊し予定だそうです。*2

反対側の入口。

大量の菓子が並べられています。

【参考記事】
*1 風俗散歩(円頓寺):駄菓子屋街(2016.4)
【参考文献】
*2 谷充子:休みをとってでも行きたい問屋街さんぽ(G.B.,2016)P.126-127

参考文献

参考記事

円頓寺(菓子問屋街)「嫁入り菓子」をここで買えます。

円頓寺商店街の北側。西区新道は菓子王国名古屋を象徴する問屋街です。幕末には、駄菓子製造地として知られ、日露戦争後、小資本の家内工業として本格的に発展し、最盛期には、お店が500軒余ありました。*1

子供が小遣いで買える10円~の菓子が主流です。*2

駄菓子は、単価が安いので、冠婚葬祭はもとより、子供会や地区のイベントなど幅広いニーズで利されます。名古屋では「嫁入り菓子」を結婚式で配るそうですが、それをここで買えます。*2

石原さとみさんの「果汁グミ」のCMポスターが貼られた菓子問屋。

【参考文献】
*1 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会:名古屋なつかしの商店街(風媒社,2014)P.144
*2 谷充子:休みをとってでも行きたい問屋街さんぽ(G.B.,2016)P.126-127

参考文献

参考記事

円頓寺(犬糞看板)段ボールを利用。五条橋近くの交差点。

円頓寺商店街の東側。五条橋近くの交差点。

地面すれすれの位置に犬糞看板が設置されています。

交差点の角は、側溝が凹んでいて、水はけが良さそうに見える場所です。

段ボールを利用して作られた看板です。

参考文献

参考記事

円頓寺(円頓寺銀座街)昭和の雰囲気が残る路地裏

円頓寺商店街の中央付近。スペイン食堂「BAR DUFI」脇を南へ入ったところに、「円頓寺銀座街」があります。

昭和の雰囲気が残る路地裏です。

現在は、営業していない店舗もあります。

バーのような店の入口。

参考文献

参考記事

円頓寺(勝利亭)洋食文化の草分け。トマトソースの開発。

円頓寺商店街にある洋食店の「勝利亭」。創業百年と名古屋の洋食文化の草分けとして親しまれた老舗です。店名は、日露戦争の勝利を祝って付けられました。初代の主人は、カゴメ(名古屋市中区)の創業者が日本で初めて発売したトマトソースの開発にも携わったと伝わっています。*1

歴史を感じるレトロな店内。

テーブルには、トマトケチャップのボトルが置かれています。

チキンオムライス(大盛り)とビール(大瓶)を注文。オムライスの中身はケチャップライスですが、さらにトマトケチャップをかけてみました。

【参考文献】
*1 中日新聞(2009.1.28夕刊)「円頓寺の老舗2代目・野口さん 93歳 伝統の味 守り死去」

参考文献

参考記事

円頓寺(開慶座跡地)ストリップ劇場跡。

今回は、円頓寺(えんどうじ、愛知県名古屋市西区)の町並みと風俗を散歩します。
江戸時代末期から、長久山円頓寺を中心に発展した円頓寺商店街は、庶民的な佇まいが最大の魅力です。*1

名古屋では数少ない寄席として人気だった「開慶座」の跡地。昭和28年に秋に赤字打開策としてスリップ劇場に転身しました。*1

「開慶座」の跡地の西側に、慶栄寺が見えます。

「開慶座」の跡地から見る円頓寺商店街。写真奥の「喫茶まつば」は、昭和25年の「円頓寺新地図」*2 にも記載されている老舗の喫茶店です。

*1 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会:名古屋なつかしの商店街(風媒社,2014)P.14-P.17
*2 名古屋タイムズ(1953.1.28)P.6「円頓寺新地図」

参考文献

参考記事

堀田(海上寺)オッパイ神社。別名:乳花(ちばな)薬師。

名古屋市の瑞穂区直来町にある海上寺。

海上寺は、乳花(ちばな)薬師とも呼ばれ、お堂の前にかかっている絵馬は、平面的なオッパイが描かれています。*1

立体的なオッパイもあります。

おっぱいがたくさん出ますように。

【参考文献】
*1 永谷正樹:大名古屋大観光(イースト・プレス,2005)P.122

参考文献

参考記事

堀田(エビス大黒市場)昔ながらの手作りコロッケ。

名鉄堀田駅の北側にあるエビス大黒市場。

肉屋さんの「昔ながらの手作りコロッケ」。コロッケとハムカツは40円。串カツとメンチは50円です。

肉屋さんですが、パン粉をつけた状態のコロッケも販売しています。注文してから揚げてくれます。

コロッケ、ハムカツ、メンチを1個ずつ注文。揚げたて3個が130円です。

参考文献

参考記事

堀田(かつての歓楽街の遺構)東ノ宮神社の隣。

東ノ宮神社の隣に、かつての歓楽街の遺構が残っています。
昭和34年の住宅地図*1 によると、通り東側(写真奥)に、「吉の家」「ふじ家」「平和飲食」、西側(写真手前右)に、「旅館たつみ」がありました。この一画が、「松田橋」と呼ばれた色街*2(=青線区域の「平和園」*3) だったと思われます。

逆方向から。写真奥は東ノ宮神社。写真左奥が「旅館たつみ」、左手前に「ふじ家」、右手前に、「吉の家」「平和飲食」がありました。*1
「平和飲食」は”平和園”からとった屋号でしょうか。

丸窓が残る建物。

通りは、Tの字になっています。写真右は「旅館たつみ」。

【参考文献】
*1 住宅協会:名古屋市全住宅案内図帳 昭和34年版 瑞穂区(住宅協会,1959)
【参考記事】
*2 風俗散歩(堀田):松田橋(2016.3)
*3 風俗散歩(堀田):東ノ宮神社(2016.3)

参考文献

参考記事

堀田(東ノ宮神社)松田橋 の交差点の南東側。神社の横に特飲街。

松田橋*1 の交差点の南東側。パチンコ店の裏側に東ノ宮神社にあります。

東ノ宮神社がある場所は、八丁畷の跡地です。*2

境内には、明治天皇が、八丁畷で稲刈りを御覧になられたことを記念した「明治天皇覧穫之所」「明治天皇八町畷御野立所」の碑が建てられています。*2

昭和21年の名古屋タイムズに「田圃の中の歓楽郷」と題し、かつての青線「平和園」の様子が描かれています。*3 「踏切から三丁南、明治天皇が田植えをごらんになった記念の八丁畷の田がある。その横に特飲街みたいな門にかこまれた一角がポツンと田の中にたっている。平和園という、青線区域だったが、二月に手入れをされた。十軒ばかりのうち、一、二軒はまた青線業を再開しているとかいないとかいう...」

【参考記事】
*1 風俗散歩(堀田):松田橋(2016.3)
【参考URL】
*2 明治神宮崇敬会:公式ホームページ「明治天皇聖蹟
【参考文献】
*3 阿地弥八:名古屋タイムズ(1946.5.1)P.6「堀田新地図」

参考文献

参考記事

堀田(松田橋)八丁畷にできた色街。

今回は、堀田(愛知県名古屋市瑞穂区)の町並みと風俗を散歩します。
地下鉄名城線の堀田駅の150mほど南の松田橋の交差点の北西側の角に、八丁畷公園があります。

「八丁畷(はっちょうなわて)の由来と松田橋遺構」の案内板。

終戦後、「松田橋」という色街(私娼)ができました。*1
「八丁畷を語る集い」*2 の中で、古老が次のような思い出を語っています。「戦後になりますと、あそこに松田橋と言う名前を付けて遊廓ができて、名古屋の三つの可笑しな遊廓・・・・新栄町と熱田の羽城と松田橋が遊廓で名前が通った処なんです。その当時、遊廓を通ると蒲団がずらっと干してありました。ところが一歩向う側へ行ったら田圃ですわ。」

現在の松田橋交差点。頭上を名古屋高速が通ります。

【参考文献】
*1 瑞穂区制施行50周年記念事業実行委員会:瑞穂区誌(瑞穂区制施行50周年記念事業実行委員会, 1994)P.435
*2 瑞穂区郷土史跡研究会:美豆保第4号(1988)P.6「八丁畷を語る集い」

参考文献

参考記事

稲栄(草津湯)旧遊廓内の銭湯。英語表記。

稲栄遊廓跡地内の錦神社の隣にある銭湯の草津湯。

昭和12年(1937年)の 「稲栄錦町遊廓明細図」*1 にも記載されている銭湯です。

「草津湯」の英語表記。

近くには、燃料と思われる廃材置き場がありました。

【参考文献】
*1 稲川勝二郎:歓楽の名古屋(趣味春秋社,1937)P.46-P.47「稲栄錦町遊廓明細図」

参考文献

参考記事

稲栄(錦神社)「福本バー」寄進の鳥居。

かつての稲栄遊廓の敷地の中央部に位置する錦神社。

灯籠には、転倒防止のための金具が取り付けられています。

台座に妓楼の名前が刻まれていますが、金具のために隠れてしまっていて、かろうじて「楼」という文字だけが見えます。

昭和7年建立の鳥居には、寄進者の「福本バー」の名が刻まれています。「福本」は、「稲栄錦町遊廓明細図」*1 にも屋号が記載されています。稲栄遊廓には、妓楼の他に「バー」が存在していたようです。

大正2年の「新愛知」に、次のような記載があります。*2
「其の外に(妓楼のほかに)、揚屋といふのが、福本、橋本、明月の三軒、揚屋といっても此廓のは余程、他とは趣が異なっていて、店頭には駄菓子も売て居れば、酒肴も並べてあるといふ始末、謂わば娼妓と客が摘み喰いをしながら、狭隘(せまくる)しい二階の一室で私語喃々(なんなん)の幕を演じやうといふ、よく都会の裏町などにみるポン屋式揚屋に過ぎないのである。」
【参考文献】
*1 稲川勝二郎:歓楽の名古屋(趣味春秋社,1937)P.46-P.47「稲栄錦町遊廓明細図」
*2 阿部英樹:百年前の中京名古屋 愛知県遊廓地域資料集(勁草書房,2016)P.188「『新愛知』大正2年10月14日」

参考文献

参考記事

稲栄(稲栄遊廓跡地)明治43年に熱田の遊里から移転。

今回は、稲栄(愛知県名古屋市港区)の町並みと風俗を散歩します。
稲栄遊廓は、歴史的には、中村の遊廓よりも遥かに古く、熱田の遊里*1 が、明治43年に稲栄に移ってきたものです。*3
稲栄遊廓は、戦後は、港陽園*2 に移転しました。*4
あおなみ線の稲栄駅から南西へ約400mほど行くと、道幅の広くなっている一画に行きつきます。

かって妓楼や料理屋が連なっていた西側の通り。この通りの西側(写真右側)には、手前から、第二寿楼、寿楼、栄勝楼、第二三吉楼、富士、扇屋、大黒楼、新三吉、新開楼、稲元楼、大吉楼、福本、久本楼が建ち並んでいました。*3

南側の通り。「稲栄錦町遊廓明細図」*3 に記載されている「いろは」の場所には、同じ屋号の「いろは寿し」が営業中です。

遊廓の中央の通り。かつての面影はありません。

【参考記事】
*1 風俗散歩(熱田):裁断橋跡(2009.4)
*2 風俗散歩(港陽園)(2010.12)
【参考文献】
*3 稲川勝二郎:歓楽の名古屋(趣味春秋社,1937)P.46-P.47「稲栄錦町遊廓明細図」
*4 渡辺寛:全国女性街・ガイド(季節風書店,1955)P.91

参考文献

参考記事

名駅(堀川沿いのホテル街)天王崎橋近く。

天王崎橋から、堀川沿いの西側の通りへ入るとラブホテルが密集する一画があります。

ピンク色の外壁。

夜の様子。

ライトアップされて華やかです。

参考文献

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名駅(堀川の自然を守るガチョウ)天王崎橋付近。

今回は、名駅(愛知県名古屋市中村区)の町並みと風俗を散歩します。
名古屋市街を南方向へ流れる堀川は、生活排水が流れ込み、水質汚染が進んでいます。

天王崎橋のたもと。ラブホテル(ピンク色の建物)脇の敷地に、ガチョウが暮らしています。

ガチョウが暮らす小屋の上にはラブホテルの看板。小屋の脇には、水質浄化を訴える看板が設置されています。

同じ看板は、川沿いのフェンスにも掲げられています。「ガチョウも一生懸命この堀川で生きて行こうとしています。堀川の自然を守り続けているガチョウ達のためにも私達が立ち上がらなければならないのです。」

参考文献

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青梅(赤塚不二夫記念館)ギャグゲリラ。トキワ荘のジオラマが展示。

昭和レトロ商品博物館に隣接する赤塚不二夫記念館。

赤塚不二夫、手塚治虫ら著名な漫画家が居住していたことで有名なトキワ荘のジオラマが展示されています。

トキワ荘の赤塚不二夫の部屋をイメージした展示。漫画本の上に板を置いて机の代わりにしていました(案内板より)。

2階の漫画本コーナー。
「ギャグゲリラ」は、1982年に最終回を迎えるまで、10年間「週刊文春」に連載された時事漫画です。*1
母親の過保護のすさまじさを描いた「あるときは ….」という作品(多羅尾伴内のもじり)では、あるときは清掃員のおばさん、あるときは、タクシーの運転手に変装して息子を誘惑から守ります。また、あるときは、片目の売春おばさん!!。息子を守るために街娼婦になります。*2

【参考文献】
*1 名和広:赤塚不二夫というメディア(社会評論社,2014)P.229,P.232
*2 関井光男:國文學 解釈と教材の研究(學燈社,1981.04)P.162「現代マンガの手帖 赤塚不二夫」

参考文献

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青梅(雪女の展示)昭和レトロ商品博物館。

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、怪談「雪女」の中で紹介している雪女伝説は、青梅が舞台であったとされ、昭和レトロ商品博物館には、「雪女」に関する展示コーナー「雪女の部屋」があります。

「雪女」のストーリーの展示。
「雪女」は、男に冷たい息を吹きかけて、男の精を吸いつくして殺してしまいます。

「雪女の部屋」への階段。階段脇には、小泉今日子さんの等身大パネル(ラフカディオ・ハーン=小泉八雲→小泉今日子という意味?)が展示されています。

「雪おんなサイダー」を購入。

参考文献

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この記事を参照している記事

青梅(昭和レトロ商品博物館)昭和のB級文化の宝物。映画看板。

青梅(もりたや食堂)レトロなとんかつ屋さん。

青梅街道の南側に、映画看板が掲げられた古い建物が残っています。

レトロなとんかつ屋さんの「もりたや食堂」

現在は、休業中です。

森田屋。

参考文献

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青梅(旧料亭の「魚久」)現在はレストラン。

旧青梅街道から北へ続く北山公園通り。
この通りの左先にかつての見番がありました。*1

青梅線の線路を渡ったあたり。

旧料亭の「魚久」。現在はレストランになっています。*1

和洋折衷の建物の料亭「和田市」。右手に和風木造建築が続きます。*1

【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.242-P.243

参考文献

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青梅(映画看板の街)原節子主演の「晩春」。

青梅・映画看板の街。町のあちこちに映画看板が飾られています。

原節子主演の「晩春」。原節子は、生涯独身を通し、「永遠の処女」と呼ばれました。

美容室に掲げられたオードリー・ヘプバーンの看板。

祇園囃子(ぎおんばやし)は、1953年に公開された祇園のお茶屋舞台の映画です。若尾文子が、舞妓を演じています。

参考文献

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青梅(根岸横丁)ビルを通り抜ける横丁。

「青梅中央ビル」※1 の1階部分は、横丁のようなトンネルになっています。

駅前の看板によると、この通路は、「根岸横丁」と呼ばれています。

横丁のそば屋さん。

横丁の反対側から。近くに根岸歯科医院があるので、根岸横丁と呼ばれるようになったのでしょうか。

青梅(駅前ビル)長崎屋の看板。青梅中央ビル。

今回は、青梅(東京都青梅市)の町並みと風俗を散歩します。
青梅駅前のロータリー。

長崎屋の看板が残っています。

青梅中央ビル。

青梅中央ビルの1階にある「ニューミスターラーメン」の先は、通り抜けできる路地が続いています。

富田(北酪牛乳の牛乳箱)有限会社北酪興社。牛乳箱が縦に2つ。

富田一色町の北隣に位置する川越町豊田。

牛乳箱が縦に2つ並んでいます。

牛乳箱に書かれている電話番号より、有限会社北酪興社の「北酪牛乳」と判明しました。

牛乳、コーヒー、フルーツ、ヨーグルト。

参考文献

参考記事

富田(住吉町)運河に囲まれた花街。木造の建物の脇に洋館の建物が隣接。

住吉町の花街は、それまで富田一色にあった三業地が住吉町に集められ、出来ました。

「昭和20頃の住吉町」*1 によると、芸者置屋、遊廓、料理屋が建ち並び、三方は運河に囲まれていました。

ひときわ目立つ木造建築の旧朝田家。

木造の建物の脇に洋館の建物が隣接されています。

【参考文献】
*1 四日市市:四日市市史 第5巻 史料編 民俗(四日市市,1995)P.748-P.749

参考文献

参考記事

富田(富喜湯)前面がコンクリートで装飾された看板建築。建物は木造。

旭町の旧花街*1 に銭湯の建物が残っています。

文字が欠けてしますが、「富喜湯」と判読できます。

前面がコンクリートで装飾された看板建築。建物は木造です。

銭湯は、関西本線の線路脇に建っています。

【参考記事】
*1 風俗散歩(富田):旭新地跡

参考文献

参考記事

富田(旭新地跡)料理屋の建物。当時の花街らしさ。

みかえり橋*1 を渡ると、旭新地*2 があったと思われる通りが南北に続いています。
旭新地は、昭和4年(1929年)になって関西線東のこの地を埋め立て、つくられました。*2

昭和45年(1970年)の住宅地図には、料理屋の「あさひ」「いせや」がありました。*3
現在は、通りの西側のみに当時の花街らしさが残っています。

窓の装飾。

料理屋「あさひ」*3 の建物。

【参考記事】
*1 風俗散歩(富田):みかえり橋
【参考文献】
*2 生川益也:富田をさぐる 増補版(中日新聞生川新聞店,1985)P.13
*3 善隣出版社:四日市市(北部)(善隣出版社,1970)P.36

参考文献

参考記事

富田(みかえり橋)宮町から旭新地に渡る橋。当時の面影はありません。

富田市内を流れる豊富川が、関西本線の踏切を超えたあたり。「みかえり橋」と呼ばれる小さな橋が豊富川にかかっています。

昭和4年(1929年)になって関西線東のこの地を埋め立て、まもなく旭新地として遊廓がつくられました。*1
現在の町名の「東富田町20」の表示とは別に、旧地名「旭町」の表示があります。

南北の長い通りを、宮町から旭新地に渡る橋として、花街らしく朱塗りの欄干の太鼓橋が掛けられると、橋のたもとの柳をふりかえるところから「みかえり橋」の名前がつけられました。*1

現在は、コンクリートに鉄の手すりが付けられ、当時の面影はありません。*1

【参考文献】
*1 生川益也:富田をさぐる 増補版(中日新聞生川新聞店,1985)P.136-P.137

参考文献

参考記事

富田(豊富川)暗渠から水路へ。善兵衛の橋。

豊富は、富田の町の中心部を流れる川です。
「善兵衛の橋」は、明治末期に橋のたもとに開業した川魚料理の「うなぎや善兵衛」にちなんで名付けられました。駅前の富田中央通りの下を暗渠となって流れていた豊富川は、「善兵衛の橋」から暗渠を出ます。*1

市街を流れる豊富川。

鳥出神社の正面の道へつながる「宮橋」。

豊富橋付近で、豊富川は直角に曲がります。
忘れ去られたように、豊富橋の標柱が片側だけ残っています。*1

【参考文献】
*1 生川益也:富田をさぐる 増補版(中日新聞生川新聞店,1985)P.133,P.136-P.137

参考文献

参考記事

富田(東海道富田宿)女傑「おこと」の店。現在の寺村薬局の所。

今回は、富田(三重県四日市市)の町並みと風俗を散歩します。

嘉永年間(1848-53年)頃から、現在の近鉄富田駅前通りと旧東海道が交差する四つ角(現在のマルショウ化粧品)に居酒屋の「おことの店」がありました。おことは、天保8年(1837年)の生まれで、評判の美貌に加えて才知に富み、生来の義侠心強く、侠客肌の女としてその名を知られていました。おことは、「お琴さん」として浪曲「血煙荒神山(蛤屋の喧嘩)」のヒロインとなりました。*1

明治後期になってからは、「おことの店」は現在の寺村薬局の所に移りました。*1

おことが住んでいた頃は、裏通りで芸妓置屋からときおり三味線の音が聞こえていました。*1

【参考文献】
*1 生川益也:富田をさぐる 増補版(中日新聞生川新聞店,1985)P.141-P.145

参考文献

参考記事

四日市(電柱の貼り紙)小便するな、ゲロ吐くな。

諏訪公園から居酒屋「お半」へ向かう細道。

細道の中ほど。

ビルとビルの間の隙間。その隙間を覆い隠すように太い電柱が建っていて、ちょっとした死角になっています。

「小便するな」「ゲロ吐くな」注意の貼り紙。

参考文献

参考記事

四日市(港楽園跡地)現在の居酒屋「お半」の付近一帯

現在の居酒屋「お半」の付近一帯は、かつて港楽園と呼ばれた赤線地帯でした。*1

現在の居酒屋「お半」の前付近。

「港楽中支」の電柱番号札。

夜の様子。

【参考文献】
*1 樹林舎:四日市の昭和(樹林舎,2011)P.127

参考文献

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