新人物往来社江戸史跡事典 下巻谷根千地区・文京区・台東区・墨田区・江東区・荒川区・葛飾区・江戸川区新人物往来社2007
紀伊国屋文左衛門墓

 紀伊国屋文左衛門は、江戸時代の豪商。生年は不詳。寛文四年(1664)、寛文八年(1668)生まれなどの説がある。紀州(和歌山県)出身。商才に富み、大老柳沢吉保や勘定奉行荻原重秀と結び、巨額の富を得たと伝えられている。「紀州みかん」の話や「紀文大尽」と呼ばれ豪遊した逸話が多数あるが、確実な資料は少ない。正徳(1711~16)の頃には家運が衰え、深川八幡一の鳥居付近に住み、そこで死去した。現在の墓石は再建されたものである。

一葉観音菩薩像

P.87
この像は、寛政9(1797)年、に建立して寄進された。寄進したのは、新吉原江戸町1丁目質両替商、万字屋の妻佐野ひでという。彼女には久次郎とう子がいたが、14歳のとき舟遊びをしているときに水難死してしまった。彼女は霊を弔うために一葉観音像を建立した。

見返り柳

新吉原遊廓の名所の一つであった。遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊廓を振り返ったというところから名付けられた。京都島原遊廓の出入り口には柳が植えられていて「出口の柳」と呼ばれていた。それを真似て吉原でも柳を植えたのだという。しかし、江戸っ子は出口の柳ではなく「見返り柳」と艶っぽい名前を付けている。

真先稲荷

江戸時代、真先(まっさき)稲荷は、墨田川を望む名勝の地で、吉原帰りの客が大勢やってきた。境内の茶屋は随分と繁盛したと伝えられる。なかでも「吉原豆腐」を材料にした甲子屋(きのえねや)の「豆腐田楽」は有名であった。

矢切の渡し

矢切の渡しは、寛永八年に関東郡代伊奈半十郎を管理者として幕府が始めた公営の渡し場で、「近郷の木こり、草刈、工作人の他は、いっさい川向うへ通してはならない。」と規定されていた。今も残る「観光渡船」矢切の渡しは、都内唯一の渡し船となっている。