全国>千葉県>木更津市>永井作>/全年代>現代>戦中・戦後>1940年代>1942年>/古今東西Map>年表>出来事>/
千葉県歴史教育者協議会学校が兵舎になったとき : 千葉からみた戦争一九三一~四五新装版青木書店2004.7
六軒町と呼ばれた町木更津につくられた海軍慰安所

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木更津市の六軒町は、戦争中につくられ戦後しばらく存在していた、軍が建てた慰安所にまつわる地名であるが、現在その地名を使う人はあまりいない。
(中略)
軍慰安所建設の士気は憲兵隊が行った。また場所の選定も航空隊と航空廠より数キロ離れた地域で民家からも離れていることを条件に進められた。その結果、木更津の市街地のはずれにある 現在の木更津市永井作にきまった。建物は15件を3期に分けて建設し、1軒に7~10人の慰安婦多く計画であった。
残りの9軒の建築は結局中止となり6軒のみとなった。

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六軒町にいた女性たちは敗戦に伴い国境に帰ろうとしたが、当時の警察署長と市長が「女たちは引き上げてはならない」と命令しアメリカ軍の慰安婦になるようにした。
(中略)
木更津には貸座敷営業、特別飲食店、特殊飲食店、普通飲食店、酌婦置屋の名で計74軒の慰安施設があり、従業婦の数は47人と記録されている。その中に、六軒町の慰安所と慰安婦も含まれていたのである。

六軒町に慰安所設置

1942(昭和17)年3月頃、第二海軍航空廠と海軍木更津航空隊の幹部が話し合った結果、海軍直属の慰安所を設置することが決められた。唐突な慰安所設置の背景には航空廠に徴用命令で集められた工員たちに待遇等に関する不満から脱走が相次いだことや、航空隊の出撃宴会での女性をめぐる将校と一般兵士との対立があったといわれる。