榎本正三女たちと利根川水運崙書房利根川叢書 ; 4崙書房出版
飯盛女と車地蔵松戸・平潟河岸

P.169
墓地入口に地蔵菩薩が安置されている。手前にあるのが一風変わっていて、正面下部を縦長の長方形にくりぬいて、六道輪廻を意味する石車が取り付けられた痕がある。
(正面上部)松戸上町 おきよ
(第一面下部)たつ おみ子 おそめ おなつ
(第四面上部)おけさ
(第五面下部)おみの おつや おろく はな
この六面石幢(せきどう)六地蔵(以降「車地蔵」と呼ぶ)は、元禄16年(1703)の道立で、松戸上町の女たちが造塔に関与している。「松戸上町」は、納屋河岸から本河岸を結ぶ線で、納屋河岸(良庵河岸)は享保年間になると銚子鮮魚の中継河岸として隆盛を極めたところである。本河岸は、良庵河岸よりちょっと上流にあり、高木筑後守から寛文3年(1663)許しを得た飯盛り旅籠が軒を並べた。享保16年(1731)の流路変更により、平潟の飯盛旅籠は全盛時代を迎えるが、こうした1つの地点を結び付けたのが「松戸上町」であり、「松戸上町」はまことに繁昌のところであったと考えられる。この「車地蔵」が飯盛女にむすびつく可能性は十分考えられる。来迎寺に飯盛女供養のために建てられた地蔵尊の伝承があり、この「車地蔵」であると結論づけてよいのではないか。

稲荷神社の女人奉納手水石

P.227
八坂神社には、舟運の守護神として水天宮が、八坂神社本殿の右側に併祀されている。本殿の左側には、豊川稲荷を勧請したささやかな稲荷神社の石宮が祀られ、その神前に手水石が奉納されている。
P.229
この手水石は、明治28年(1895)に、木内支店、菊川楼、里川楼、清光楼、住吉楼、一楽亭、及川、新及川、本毛久屋といった芸者置屋、料理屋など河岸の繁栄を陰で支えていた女たちによって奉納されたものである。

船頭小宿の女たち

P.69
遊女や水商売の女たちは、何故か稲荷神社を信仰する根強い風習のあることが各地で見受けられる。木下河岸から南へ少し入った、竹袋の稲荷神社にも、女人信仰の風習を物語る一基の常夜燈がある。この常夜燈は文政9年(1826)の寄進で、
P.72
竹袋村の元右エ門と新吉原の平吉、喜助が願主になっている。文政8年(1825)7月、木下河岸船頭小宿の三喜屋が産声を上げ、次々に5軒の小宿ができるが、それらの取り締まりをしたのが元右エ門である。江戸の新吉原の平吉、喜助が願主になっているのは両者が木下河岸船頭小宿の召し抱え遊女の斡旋者のような立場、鞍替えさせた飼い主ではないかと考えられる。この常夜燈に刻まれている多くの名前のうちもっとも重要なのは船頭小宿と遊女である。布川屋喜助、新若松屋伊三吉や遊女の名前が刻まれている。木下河岸船小宿の中心的存在であった三喜屋の召し抱え遊女は深川新地の百歩楼主人の斡旋によるというから、木下河岸船頭小宿には新吉原の遊女と深川岡場所の遊女の二つの系統があったことになる。

河岸と瞽女

P.184
別所の集落の分かれ道の近くに別所の地蔵寺があり、仁王門のそばに一基の手水石が奉納されている。享和3年(1803)別所村の瞽女キヨと若者中が願主となり、有力者などの賛同を得て奉納されたものである。瞽女が願主となって造立した石造物は現在のところ、これが唯一基で、それだけでも希少価値がある。瞽女(ごぜ)とは室町時代以降に現れた三味線を弾き、歌をうたって渡世する盲女をいうが、祈祷などの宗教的な要素はなくなり、単なる遊芸人に変わってくる。江戸時代になると、瞽女仲間を作ったりして集団化され、各地を遍歴することが定着する。昼は門付、夜は宿で「よせ」を行って娯楽の少ない農山村の人々を楽しませていた。こうした風習も昭和の戦争期を境にぱったりと途絶えてしまった。