今回は、大釈迦(だいしゃか、 青森県青森市)の町並みと風俗を散歩します。
JR奥羽本線の大釈迦駅から徒歩約10分。国道101号線沿いに、ラブホテルが密集する一画があります。

休業中のホテルもあります。

ほとんどがモーテルの形式のホテルです。

斜面に建つホテル。

今回は、大釈迦(だいしゃか、 青森県青森市)の町並みと風俗を散歩します。
JR奥羽本線の大釈迦駅から徒歩約10分。国道101号線沿いに、ラブホテルが密集する一画があります。

休業中のホテルもあります。

ほとんどがモーテルの形式のホテルです。

斜面に建つホテル。

青森県立郷土館(青森市本町二丁目8-14)に、明治25年(1892年)発行の「青森実地明細絵図」が展示されています。

中央の市街地図と建物の図版を組み合わせて制作・出版されたものです。*1

柳原遊廓の建物の図版。建物の外観や店の屋号などが描かれています。

明治22年、塩町遊廓から移った柳原遊廓は、日露戦争中に繁昌しました。*2

【参考文献】
*1 安田 道:青森県立郷土館研究紀要(2009.03)P.61-P.70「実地明細絵図から読み解く明治の青森」. / 青森県立郷土館 編.. . ISSN 1883-5783
*2 肴倉弥八:青森市町内盛衰記(歴史図書社,1976)P.110
第三新興街の裏側(東側)の入口。
以前はこの付近にも建物がありました。*1

ゲートの隣には、公衆トイレがあります。

大便。

小便器が向かい合っています。

【参考記事】
*1 風俗散歩(青森):第三新興街(2008.12)4枚目の写真
第三新興街の南側の通り。

もう1本、北側に通りがあり*1、両者は東側の通りと結ばれ、コの字型になっています。

密集する看板。

東側の通り。

【参考記事】
*1 風俗散歩(青森):第三新興街(2008.12)1~3枚目の写真
第三新興街にあるピンクサロン。

「第三新興街」の看板とともに、「サロン」の看板が健在です。

「18才~45才位迄」と年齢層は広めです。

「ピンクサロン協会加盟店」のプレート。

今回は、青森(青森県青森市)の町並みと風俗を散歩します。青森の風俗さんぽは、2008年12月に引き続き、今回で2回目です。
青森駅前に残る第三新興街。

周囲の建物が無くなり空地となったため、建物の外観が見通せるようになりました。

東側からの遠望。以前は手前にも建物がありました。*1

北側の通りの空地部分から。3階建てであることがよく解ります。

【参考記事】
*1 風俗散歩(青森):第三新興街(2008.12)4枚目の写真
国道101号線沿いの狼野長根公園近くに、レトロな外観の「観光ホテル夢野温泉」があります。

玄関には、艶っぽい看板。

レトロな館内。宿泊もできます。

脱衣場。

今回は、大釈迦(だいしゃか、青森県五所川原市)の町並みと風俗を散歩します。
大釈迦 は、五所川原市の東部に位置します。国道101号線の狼野長根バス停から西へ約1Km。前田野目の集落にある「梵珠山案内図」に淡島神社と陰陽石の記載があります。

陰陽石がある場所(淡島神社)は、前田野目の須恵器窯跡群から鞠ノ沢沿いに林道を奥深く入った地点(地蔵沢)です。*1

林道を約1時間歩くと、淡島神社に到着です。

5m以上あろうかと思われる長大な石体。青色の布がかけられています。*1

【参考文献】
*1 増田公寧:青森県立郷土館研究紀要(2012.3)P.39「青森県における生殖器崇拝資料」
川端町の歓楽街にある「とんとん食堂」。

ラーメンなど、中華料理が中心の大衆食堂です。

落ち着いた店内。

チャーシュー麺とビールを注文。ビールには、野菜炒めが付きます。

川端町は、隣町の本町繁華街と岩木町、柳町の諸官庁に囲まれているという好立地条件に恵まれ、昭和40年代に振興街として旅館や飲食店が増え、この一帯の飲食街を「親不孝通り」とも言うようになりました。*1

スナックが入居するビルが道の両側に並んでいます。

夜の様子。

スナックビル。

【参考文献】
*1 陸奥新報(1975.3.15)津軽の町内今昔記39
青森銀行とみちのく銀行の、両五所川原支店から、旧ロータリー角までの通りは、かつて「ハイカラ通り」と呼ばれていました。この通りは、明治時代は、清志町と呼ばれていましたが、大正時代に高襟(high collar,ハイカラー)町という呼び名も使われるようになり、昭和になってから「ハイカラ町」「ハイカラ通り」と呼ばれるようになりました。*1

現在は、「ハイカラな街」と街灯に書かれています。

大正時代は、魚市場や劇場の高砂座がありました。*1

旧ロータリー。

【参考文献】
*1 北奥文化研究会:北奥文化 第三十六号(1980)P.85-P.88 「『五所川原の地名』余話」
五所川原駅前の東町は、かつて、歓楽街の中心でした。東町の歓楽街は、昭和23年に小料理屋の「富喜」が最初で、のちに、東町が歓楽街となる主要役割を果たしました。「富喜」は、最初駅の人夫などの休憩所のような形で経営され、この庶民的な酒場が人気を拍しました。これに刺激され、当時水田地帯であった東町に続々小飲食店が建てられ、昭和28年、大型のバーの「らんぶる」が完成すると東町は一気に歓楽街となりました。*1

現在、飲食店はまばらです。
東町の衰退は、市役所が移転したことが遠因だったと言われています。*2

北側の一画。
この先に「らんぶる」がありました。*3

スナックの建物。

【参考文献】
*1 兵庫昭一郎:五所川原三百年史 経済編(青森民友新聞社,1966)P.188-P.190
*2 東奥日報(1977.5.11)津軽の町内めぐり121
*3 東交出版社:最新版住宅明細図 五所川原市 木造町 板柳町 鶴田町 金木町 柏村(1969)P.8
今回は、五所川原(青森県五所川原市)の町並みと風俗を散歩します。
大正10年、岩木川の改修が進められ、それまで流域内に居を構えていた船渡、人夫、土工などが移転を迫られ、錦町の毛内林に移転し、農村相手の小料理屋の商売に移っていきました。「初音」「あけぼの」がそれで、のちに赤線へと変わっていきました。*1

このとき、対岸の柏村鷺坂の遊廓も数軒移転し、しかも近くに一流の料亭街・柏原を控えていたことが、錦町が色街として名をなす契機になりました。「宝亭」「北盛館」「寿」「千代屋」「初音」「あけぼの」「金盛」など十軒近くあり、なかでも「万寿幸」は終戦まで栄えました。終戦の翌21年には大火で錦町全域が消失、廓も灰ジンに帰し、昭和34年4月の赤線廃止がとどめを刺しました。*2*3
昭和6年の市街図*4 には、竜泉寺へ向かう道路脇に、「たから亭」「北盛館」「ことぶき」「千代家」の名が記されています。
写真のあたりには、赤線から転業したと思われる「万寿幸旅館」がありました。*5

赤線から転業したと思われる「初音旅館」があったあたり。*5

裏通り。「初音旅館」の裏側あたり。

【参考文献】
*1 兵庫昭一郎:五所川原三百年史 経済編(青森民友新聞社,1966)P.185
*2 陸奥新報(1975.2.20)津軽の町内今昔記24
*3 東奥日報(1977.2.16)津軽の町内めぐり40
*4 東京交通社:大日本職業別明細図 青森県(東京交通社,1931)
*5 東交出版社:最新版住宅明細図 五所川原市 木造町 板柳町 鶴田町 金木町 柏村(1969)P.13
一戸市街から国道4号線を3kmほど北上した「八木沢橋」バス亭近くに、「鳥越ドラインブイン」があります。

建物の左側半分は、旅館になっています。

名物のラーメンは280円です。

ラーメン(大盛り)と缶ビールを注文。

三桝楼は、大正6年に貸座敷となりました。貸座敷は戦時中自発的に廃業し、その後は料理屋を営みましたが、昭和28年頃廃業しました。*1
(楼主の)中村佐助は、大正15年12月、一戸で初めての乗合自動車を開業し、昭和11年、三益合資会社一戸乗合自動車部(中村宏)となりました。*1*3

大きな古井戸が残っています。

大きな木造の建物。

一戸町に、貸座敷が開かれるのは、明治22年頃に進めれた東北本線の一戸付近の鉄道工事と関連があります。工事に従事した人夫は青森周辺の農村から募集してきたもので、人里離れた山間で何一つ娯楽もない土方連中の求めたものは「酒と女とばくち」でした。人夫が大勢町に入ってくると当然のことに茶屋、飯屋を営むものが多くなり、明治23年3月31日、貸座敷免許区域が改正され、一戸町字袋町(現在の北舘)が指定されました。本町から向町にかけての街道から折れて袋小路になっている袋町は、茶屋街に適した場所でした。*1

【参考文献】
*1 一戸町町誌編纂委員会:一戸町誌 下巻(一戸町,1986)P.298「大正12年頃の町並み地図」,P.311-P.313
*2 日本住宅地図出版:二戸市・一戸町・浄法寺町(日本住宅地図出版,1979)P.42
【参考URL】
*3 みやこ百科事典 ミヤペディアの「岩手県北バス」の項に「一戸乗合・三益合資(中村宏*2)」の記載。
今回は、一戸(岩手県二戸郡一戸町)の町並みと風俗を散歩します。
一戸駅から駅前の通りを北東へ進み、万代橋を渡って街道から右へ折れた所にある袋町(現在の北舘)は、かつて遊廓があった場所です。*1

遊廓があった頃の歓楽街の名残でしょうか。付近にはスナックなどの飲食店が散在していたようです。*1*2

「ニューハワイ」の看板。

いらっしゃいませ。

【参考文献】
*1 一戸町町誌編纂委員会:一戸町誌 下巻(一戸町,1986)P.298,P.302
*2 日本住宅地図出版:二戸市・一戸町・浄法寺町(日本住宅地図出版,1979)P.42
水沢の寺小路の歓楽街にある「一力」。

「生そば」と「洋食」という異質の組み合わせです。

丼物や定食、カレーライスもあります。

かつ丼と水沢の地酒「天瓢(てんぴょう)」を注文。洋食屋を名乗るだけあって、カツの味は絶品でした。

水沢市街に残る小岩井牛乳の牛乳箱。

古い牛乳箱と併せ、縦に二つ並んでいます。

右側の側面には「まきば」。

別のお宅にあった同型の牛乳箱。左側の側面には「小岩井ヨーグルト」五戸*1 で見た牛乳箱と同型です。

【参考記事】
*1 風俗散歩(五戸):小岩井牛乳の牛乳箱(2014.12)
水沢区寺小路にある「狸横丁」。

あちこちに、立小便禁止看板が設置されています。

立小便した方は、罰金3万円です。

反対側の出入り口。

寺小路の長光寺近く。乙女川の支流と道路が交差しているところに、スナックの建物があります。

このスナックの特徴は、河川上の建築物であることです。

反対側から見たところ。

入口。

やきとり「さんたく」の脇に横丁の後ろ側に、風情のある公衆トイレがあります。

右側が小便。左側が大便です。

大便。

気持ちよく放尿できそうです。

水沢市街の中心街の大町。やきとり「三宅(さんたく)」の脇に横丁の痕跡が残っています。

かつては、飲み屋が建ち並ぶ一画だったのでしょうか。

現在は2軒が営業中です。

周囲は駐車場になっています。

今回は、水沢(岩手県奥州市水沢区)の町並みと風俗を散歩します。
水沢の貸座敷は、明治の初年、袋町、立町、柳町にありましたが、明治20年頃、宮下が遊廓地に指定されました。明治32年頃、駒形神社に接しているという理由で、勝手町に移転しましたが、戦後になって廃止になりました。*1*2
写真の桜井商店の建物がある場所(道がクランク状になっているところ)の向こう側(西方)が勝手町の貸座敷(安盛楼、藤本楼、幸盛楼)があった場所です。*3

勝手町西方の南側に安盛楼と藤本楼、北側に幸盛楼がありました。勝手町は、水沢の花街で、とくに七夕まつりの賑わいは最高で、襟をこかした若い女郎衆たちが街を練り歩いていました。*3

昭和初期の「勝手丁の町並み図」*3 によると、桜井商店の西隣に安盛楼がありました。

勝手町の西端にある八幡神社に隣接して、藤本楼がありました。*3
藤本楼の建物は、昭和50年頃まで残されていましたが、大都市の遊廓の建物と比べると規模は小さかったようです。*4

【参考文献】
*1 岩手県胆沢郡水沢町:水沢町誌(水沢町,1931)P.294
*2 水沢市生活環境課:乙女川 その流域の歴史と風土(水沢市生活環境課,1991)
*3 勝手町町史編集委員会:勝手町町史 過去・現在・将来(勝手町町内会,2000)P.21,P.42「勝手丁の町並み図(昭和初期)」
*4 田村昭:仙台花街繁昌記 遊廓資料として(宝文堂,1974)p.36
倉敷市の美観地区の北側(鶴形2丁目)に銭湯のえびす湯があります。

「ゆ」と書かれた灯り。歴史を感じます。

太い煙突。

ロッカーには、漢数字で番号が書かれています。

倉敷駅前の通り(国道429号線)沿い。

階段の降り口からよく見える位置に看板があります。

「いい店・いい人・いい出会いの街、サンシャインビル」と書かれた看板。

飲食店、スナック店が入居しています。

倉敷の川西町は、明治4年に宿場から遊廓になり、昭和5年には、貸座敷が17軒、娼妓は113人でした。このころには、カフェー、飲食店、射的場、貸本屋などがあり、傘屋、洗濯屋、紺屋、菓子屋、提燈屋などもあって、職人町という一面も持っていました。*1

昭和3年の「倉敷市新地図」*1 によると、本通りと南通りと新道路に囲まれた場所に「遊廓」の記載があります。

本通り。写真左側に妓楼と思われる建物*2 があります。

奥行のある建物。

【参考文献】
*1 倉地克直,山本太郎,吉原睦:絵図で歩く倉敷のまち(吉備人出版,2011)P.24-P.25,巻末「倉敷市新地図」
*2 風俗散歩(倉敷):川西町の遊廓跡(2010.5)
一番街。駅前から続く歓楽街です。

細い路地。

立小便お断り。

白地に赤文字。

倉敷市羽島にある萬福食堂。

芸能人も多数訪れる店です。

水を飲むコップは、大関のワンカップ。

やきぶたラーメンを注文。

倉敷市鶴形1丁目にある「倉敷デパート」。

デパートというよりは、マーケットです。

大小の看板が連なります。

3本ある通りのうち、一番東側は「旭商店街」と名付けられています。

今回は、倉敷(岡山県倉敷市)の町並みと風俗を散歩します。
水島臨海本線の倉敷駅。自販機とベンチが並んでいます。

自販機の脇に空き缶入れ。その隣に白い箱。

近づいて箱の上面を見ると、白ポストであることが解ります。

手作り感満載の白ポストです。

奉還町4丁目の住宅街。

「押売り、物もらい、寄附、堅くお断り」のプレート。

昭和を感じる風景です(黒川食堂付近)。

こちらにも同じプレートがあります。

岡山市北区平和町の通り。居酒屋などが建ち並ぶ繁華街です。

ブロック塀で囲まれた駐車場。

古びた金属製の立小便禁止看板。

ブロック塀で囲まれているので、周囲から見えずらくなっている一画です。

岡山市の田町付近は風俗店が散在するエリアです。通りに面した駐車場には、数多くの案内看板を目にします。

駐車場の入口のゲートの隣に、屋根付きの案内看板。

風俗店の案内をゆっくり見ることができます。

夜の様子。無人の風俗案内所のような感じになります。

今回は、岡山(岡山県岡山市)の町並みと風俗を散歩します。
岡山駅前商店街の昭和レトロな食堂「ことぶき食堂」。

店内の棚には、岡山の地酒「賀眞」の瓶が3本置かれています。

さっそく日本酒を注文。棚に置いてあった一升瓶でコップに並々とついでくれます。店内のガラスケースからセルフサービスでおかずやおつまみをチョイスすることもできます。

食堂飲みは、オムライスで〆ます。

新川二丁目にある「於岩稲荷田宮神社」は、四ツ谷の 「於岩稲荷田宮神社」同様、「東海道四谷怪談」の主人公「お岩」の伝承を持つ神社です。新川二丁目の田宮神社は、歌舞伎俳優の初代市川左団次が明治の中頃、芝居小屋の近くに置きたいと希望して生まれました。*1

花柳界や歌舞伎関係などの人々の参詣で賑わいました。

明治座寄進の賽銭箱。

鳥居。この参道の奥にはお百度石と稲荷社があります。

【参考文献】
*1 塩見鮮一郎:四谷怪談地誌(河出書房新社,2008)P.13-P.14
新川1丁目8付近は、最も待合と芸妓屋が集中していた場所でした。*1
周囲のビルに囲まれて新川大神宮があります。

新川大神宮は、寛永2年創建の古社で、明暦の大火後、現在地に移転し、酒問屋に信仰されました。*1

新川は、隅田川に通じる水路を有することから、酒問屋が櫛比(しっぴ)し、殷賑を極め今日に至るまで酒類の一大市場となりました。(案内板より)
新川の花街は、船問屋、酒問屋が接待で繁昌した花街でした。*1

寄進者のほとんどは、酒問屋です。

【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.117-P.118
今回は、新川(東京都中央区)の町並みと風俗を散歩します。
新川の花街は、昭和10年頃が最も活気がありました。日本橋川に架かる湊橋を霊岸橋の間の河岸沿い(新川1-1,1-2)に料理屋の「大和屋」と待合「大国屋」「おつね」など14軒が、永代通り南側の新川1-3には「増田ヤ」と待合1軒がありました。*1
写真は、霊岸橋から亀島川を南西方向(下流)に見たところで、この写真の左側が、新川1-3のあたりです。

川沿いに面した和を感じる1軒屋。1953年の住宅地図*2 によると、この場所には、料理屋の「増田や」がありました。

和風の佇まい。

現在は、居酒屋チェーンの店舗になっています。

【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.118
*2 都市製図社:火災保険特殊地図 中央区越前堀方面(1953年, 都市製図社)
岐阜市街の金町5丁目の交差点。ビルの屋上にホテルの案内看板があります。

住宅街の中のホテル。柳ヶ瀬商店街の裏手(南側)に位置します。

同じ屋号のホテルがもう1軒。

南国ムードのホテルです。

柳ヶ瀬の商店街にある「柳ヶ瀬センター」。

店名が書かれています。

マーケットのような形状をした飲み屋横丁です。

青色の看板が連続します。

今回は、柳ヶ瀬(岐阜県岐阜市)の町並みと風俗を散歩します。
スタープレイス柳ヶ瀬商店街は、飲食店などが建ち並ぶ歓楽街です。アーケードには、大きな垂れ幕が連続して吊るされています。

今宵を遊び尽そう。

キャバクラ壌でしょうか。明るく楽しいスタープレイス。

下から見上げると、垂れ幕の大きさを実感することができます。

犬山町は、「日本ライン」の中心地として、また、桜の名所として観光・行楽客が多く、料亭も昭和初期には40軒を上回るほどとなりました。その主なものは、彩雲閣(犬山遊園地)、岩の茶屋(犬山遊園地)、迎帆楼(西谷)、観水(西谷)、枡屋(西谷)、田中屋別館(犬山橋畔)、八勝閣(犬山橋畔)、三宜亭(犬山橋畔)、木村(犬山公園)、五月(犬山公園前)、などでした。*1
迎帆楼は、現在取り壊されて建設中です。

木曽川畔には、旅館街が形成されていました。

現在は休業中の枡屋。

右から読んでも左から読んでも、「やすまるますや」

【参考文献】
*1 犬山市教育委員会,犬山市史編さん委員会:犬山市史(犬山市,1995)P.205
犬山駅からバスで約1時間。博物館明治村に到着です。

明治村は、明治時代の貴重な建物を移設・保存するこをと目的に開園されました。

大阪府池田市にあった芝居小屋の呉服座。重要文化財です。*1

内部は、当時のまま、保存されています。

【参考URL】
*1 博物館明治村:呉服座(重要文化財)
かつての花街であった大本町の通り。長屋風の建物があります。

隣り合った家とはブロック塀で区切られています。

扇をかたどった穴あきブロック。花街らしい華やかなデザインです。

和風の穴あきブロック。

犬山の花街は、上大本町、下大本町、西図師などにあり、幾多の変遷を経て、昭和63年10月に、春駒、玉の家、勝の家、松むら、稲村、吉ふじ、花大和、玉正、静の家、玉川、席本、扇昇、喜久竹など13軒が花券番(花検番)を解散しました。*1
老舗のレストランの「開進亭」と割烹料亭「香楽」の間に西図師の花街の名残のある路地があります。

置屋の「春駒」*2 と思われる建物。

犬山芸妓寮検番があったと思われるあたり。*2

風情のある路地。

【参考文献】
*1 犬山市教育委員会,犬山市史編さん委員会:犬山市史(犬山市,1995)P.207
*2 善隣出版社:犬山市(善隣出版社,1971)P.16
今回は、犬山(愛知県犬山市)の町並みと風俗を散歩します。
西図師の角にある開進亭は、犬山の町では老舗のレストランです。大正時代は新道(市街地北東部)にあり、昭和元年くらいにここへ移りました。*1

昭和の雰囲気が残ります。

レトロな洋食屋のイメージが漂います。

メニューに「new」と書かれていた「えびかつ丼」の大盛りとビールを注文。

【参考文献】
*1 山本耕一:美人の町・犬山シリーズ・町のトポロジー・其の1(沢田造景研究所,1986)P.41
2階建てで、中央部分は吹き抜けになっています。

1階部分の池が見下ろせます。

部屋の入口。

この日はこちらに宿泊です。

広島市中区弥生町。かつて東遊廓があった付近の小路に、老舗の「一楽旅館」があります。
今では広島の中心部では木造の日本旅館は建築できませんので非常に
昭和33年に制定された売春防止法により遊郭は廃止になりましたが一部その遊郭の建物の風情も残っています。*1

昔の懐かしさを感じられる建物です。

玄関。

和風の佇まいです。

【参考URL】
*1 一楽旅館ホームページ
薬研掘の南側にある音戸温泉。歓楽街の中にあります。

同じビルには、フィリピンパブの看板。

広島の名湯です。

入口には、木製の看板。

薬研掘にある第一劇場。「ヌードの殿堂」「娯楽の殿堂」。

女性が横になっている造形デザイン。

「第一劇場」の看板は、特徴のある形をしています。

ヌードショー、上演中です。

薬研掘のキャバレーロンドン。

レトロな大看板。

おなじみの看板です。

現在は、フィリピンクラブが営業中です。

流川町の歓楽街。まねきねこ流川店の通り。

「八番街通り」と名付けられた飲食街。

ロキシー会館というビル名です。

キャバレーにありそうなシンボルマーク。

広島市街の流川(ながれかわ)の歓楽街。ビルの谷間に小路があります。

ビルの中をくぐりぬけて小路が続いています。

「エミリー」という屋号の店があります。

ビルの中をくぐりぬけた反対側。

今回は、広島(広島県広島市)の町並みと風俗を散歩します。
広島の夜の飲食街地区として賑っている流川・薬研堀地区にある中新地通り。

繁華街の中にある老舗洋食店の「アラスカ」。

昭和レトロな雰囲気の店内。

オムライスは絶品です。

牛窓の関町にある「寿司勝」。バスターミナルの正面に位置します。地元の方の話によると、この建物は、元遊女屋の「えびすや」で、隣の「照月楼」の建物がつながっていて、3階建の照月楼を2階建てに改築する際に、この建物も2階建てに改築したそうです。
明治3年頃の「遊廓畧図」*1 を見ると、この場所に「恵比寿屋」の記載があります。

店内。

各種定食は650円。こちらの刺身定食は980円でこの豪華さ。牛窓の地酒「千寿」もいただきました。

夜のメニューもリーズナブルです。

【参考文献】
*1 刈屋栄昌:牛窓夜話 前編(牛窓郷土研究会,1958)P.49
地元の方の話によると、こちらの家は元遊女屋の「照月」で、改築前は3階建の建物*1 だったそうです。

関町には、このような3階建の遊女屋がありました。*1

2階の欄干部分に、当時の名残があります。

広場に面した側。

【参考文献】
*1 谷沢明,正本写真館:あるくみるきく(231号,1986.5)特集 習俗の表情2-牛窓の写真館 P.7の写真
「割烹旅館川源」の山側の通り。

ここには、かつて「碇屋」という屋号の遊女屋を営んでいた家(二階の欄干や座敷の書院窓などに当時の名残)がありました。*1
現在、建物は取り壊されて更地になっています。

遊女屋だった建物は、その後、櫓屋(ろや、船の櫓を作る職人)に転用されました。当時、造船業が栄えた牛窓の町には6軒の櫓屋がありました。*1

敷地の裏側は海です。櫓屋となってからは、材料や製品の出し入れを海側から行いました。*1

【参考文献】
*1 谷沢明:瀬戸内の町並み(未来社,1991)P.419,P.439
牛窓に女郎屋が誕生し、花街がいつ頃できたか、今のところこれを立証する文献はないが、曲直瀬玄朔(まなせげんさく)の「医学天正期」に戦国大名の宇喜多直家が、梅毒で苦しみ療養したことが記述され、これは倭寇が異国から牛窓に移入したものだと説いており、牛窓が日本花柳病の根源地だと指摘しているから、その頃牛窓にはすでに女郎屋があったと推察されます。明治時代の下行場の遊廓は、東側の角市、北側の奈良亀、福本屋、玉津屋、西側の小野屋、山松の6軒でした。そのうちの角市は、現在の「川源別館」です。*1

南側から。

川源別館は、割烹料亭として営業中です。

裏側の木戸。風情があります。

【参考文献】
*1 刈屋栄昌:牛窓風土物語(牛窓郷土研究会,日本文教出版 (製作),1973)P.21,P.64
今回は、牛窓(岡山県瀬戸内市)の町並みと風俗を散歩します。
牛窓を岡山を結ぶバスの発着所は、海に面した四角い広場になっていて、昔、「下行場(げきょうば)」といわれたこの広場は、藩主や朝鮮信使が上陸する際に使われた場所で、港が賑わっていたころの町の中心でした。*1

バス停の脇に設置されている白ポスト。ドラム缶を改造して作られたものと思われます。

ポストの上部には、円錐形の屋根が取り付けられています。

手作り感のある投函口。

【参考文献】
*1 谷沢明:瀬戸内の町並み(未来社,1991)P.400
室津の市街に残る銭湯の「いなり湯」。

温泉マークが描かれています。

銭湯の脇は、雰囲気のある路地になっています。

煙突。

かつて貸座敷が建ち並んでいた通りに、大きな木造の建物が残っています。

以前、遊女屋を営んでいた家で、1階は改造されて駐車場になっています。*1

小庭をコの字型で囲む形で建てられていて、各部屋は廊下で結ばれていました。*1

建物の裏側。

【参考文献】
*1 谷沢明:瀬戸内の町並み(未来社,1991)P.93
室津半島の西南端に位置する室津は、上関とともに、帆船が潮待ち、風待ちをする寄港地として賑わいをみせたところです。2つの港町をへだてる海峡には、多くの貨物船が行き来し、現在も主要な内海航路になっています。*1

室津の北端には海を埋め立てて作った築出しがあって、ここに遊女屋が並び、福浦とともに昭和初期まで賑わいをみせていました。*1
昭和11年の市街図*2 によると、この通りには、大正楼、さかゑ楼、東京楼、東楼、春帆楼、いろは楼などの貸座敷が建ち並んでいました。

昭和11年の市街図*2 にも記載のある「ニコニコ」亭。

海側に建つ木造家屋。

【参考文献】
*1 谷沢明:瀬戸内の町並み(未来社,1991)P.37,P.93
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社, 1937)第450号 山口県
上関の町並みを歩きます。

木製の消火器箱。

「火事と救急は119」の看板。

別のタイプの消火器箱。
上関の福浦に人家が建ち始めたのは江戸時代半ばすぎの安永6年(1777年)のことで、新地として34ヶ所の屋敷がひらかれました。昭和初年、福浦には7軒の遊女屋があって、こちらの家はそのうちの1軒でした。*1

ほぼ正方形の敷地に中庭を口の字型で囲む形で建てられて、2階が客室で、それぞれの部屋は廊下で結ばれていました。*1

その後、旅館「きはらし」に転業しました。*2

入口には、「きはらし」と書かれた看板が掲げられていました。*1

【参考文献】
*1 谷沢明:瀬戸内の町並み(未来社,1991)P.91(立面図に「きはらし」の記載)
*2 ゼンリン:熊毛郡No.2田布施町・平生町・上関町(ゼンリン,1990)P.136
今回は、上関(山口県熊毛郡上関町)の町並みと風俗を散歩します。
上関は、室津半島の先にある長島の北東端に発達した港町で、かつては、帆船が潮待ち、風待ちをする寄港地として賑わいをみせたところです。*1

昭和11年の市街図*2 によると、福浦港付近の海岸線に貸座敷の「山水亭」がありました。

1990年の住宅地図*3 によると、このあたりに同じ屋号の割烹旅館「山水」がありました。「山水亭」の名残かもしれません。

海岸線に沿った道路とは別に山側にもう1本道が続いています。
このあたりは、「新地」という地名で呼ばれていました。*3

【参考文献】
*1 谷沢明:瀬戸内の町並み(未来社,1991)P.37,P.91
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社, 1937)第450号 山口県
*3 ゼンリン:熊毛郡No.2田布施町・平生町・上関町(ゼンリン,1990)P.136
俵谷山温泉は、昭和な雰囲気が漂う温泉街です。旅館やお土産店が建ち並びます。

お土産店では、俵谷山温泉の名物「猿まんじゅう」や民芸品が売られています。

その中でも陳列棚を埋め尽くしているのは、麻羅観音の売店で売られていたものと同じ男根のオブジェ。

会陰のオブジェもあります。

麻羅観音のすぐ近くに「子安観音、この下に有ります。」の看板。

階段を降りると、美しい渓谷の脇に祠が見えます。

子安観音。

石の男根が奉納されています。

地元に残る「麻羅観音由来記」によると、天文12年、この地の豪族大内義隆が、逆臣陶晴堅の手勢に追われて九州へ落ちのびようとしたが、果たさず、大寧寺で没しました。その義隆の一子を家臣安田某が、女装させ、俵山でしばらく逃避生活を送っていましたが、これが敵の知るところとなって、安田某は、幼主の首をハネて自刃しました。敵の追手は、幼主の首と彼が男であった証拠として、”一物”を切り取って持ち帰りました。村人は、幼主をしのんで、そこにホコラを建て、俵山温泉が不妊症にも特効があることから、麻羅観音と結びつけてリンガ(男根)を奉納するようになったと伝えられています。*1

ホコラの周囲には、大型の男根が乱立します。

睾丸も表現されています。

麻羅観音近くには売店もあり、男根が販売されています。

【参考文献】
*1 伊能孝:日本列島禁断の旅(桃源社,1967)P.162-P.165
今回は、俵山温泉(山口県長門市)の町並みと風俗を散歩します。
俵山温泉にある麻羅観音は、温泉町から歩いて10分くらいの道路沿いにあります。

こんもりとした森の中に小さなホコラが建っていて、大小数百のリンガ(男根)が奉納されていて、異彩を放っています。*1

ホコラの内部には、大きな木製の男根。

数百本ものリンガ(男根)がうず高く積まれています。*1

【参考文献】
*1 伊能孝:日本列島禁断の旅(桃源社,1967)P.162-P.165
湯本劇場の奥に、「山口秘宝の館」がありました。2009年頃までは、閉館した建物が残っていたようです。「驚異!!性の神々と神秘なる世界」と謳った秘宝館のなかには、”秘宝宮”が建立され、男根と女陰が合体した立体物が祀られていました。展示物の中には、一体500万円余をかけて精巧に作られた蝋人形などもありました。*1

建物は、お城のような立派な建物でした。*1
敷地の塀にその面影が残されています。

秘宝館の床の痕跡と思われるタイル。

秘宝館があった敷地は、現在は駐車場となっています。

【参考文献】
*1 井竜次:I love秘宝館(八画,2009)P.92-P.95
音信川(おとずれがわ)沿いに温泉街から大寧寺へ向かう道路沿いは、湯本観光ホテルなどが建ち並ぶ観光エリアです。

ここに、かつて、ストリップ劇場の「温泉劇場」がありました。*1

川沿いの舟形になっている土地が、かつての劇場跡地です。

現在は、更地となっていて、当時の面影はありません。

【参考文献】
*1 ゼンリン:長門市(ゼンリン,1990)P.94
今回は、湯本温泉(山口県長門市)の町並みと風俗を散歩します。

音信川沿いにある公衆浴場の「恩湯」(おんとう)は、赤い瓦屋根と「湯本温泉」のネオンが特徴です。

なつかしさが漂うネオン看板。

源泉かけ流しの公衆浴場です。

仙崎の半島の先に続く青海島の北岸は日本海の荒波を受けた浸食地形となっていて、その奇岩の並び立つ様子は「海上アルプス」とも称されています。その「海上アルプス」を観光船で巡ることができます。

夫婦岩。

男性観音。

「女性観音」というのもあるそうですが、船内のアナウンスが聞き取りにくく、どこが女性観音なのかよく解りませんでした。

旧遊廓街の北側の昔からの道幅の狭い路地。

民家の前に小便小僧が立っています。

ベルギーの小便小僧のレプリカでしょうか。

現在、水(小便)は出ていません。

みすゞ通りの商店街で見かけた仙崎の市街図に、銭湯の仙崎湯跡が記載されています。

場所は、遊廓街へ向かう道の途中です。

仙崎湯跡。建物は、蔦で覆われています。

円型の窓を持つ洋風の建物です。

仙崎生まれ育った童謡詩人金子みすゞのブロンズ像。金子みすゞ記念館から「 みすゞ通り」を約150m北上した場所にあって、像の周辺は庭のように整備されています。

代表作「わたしと小鳥とすずと」。

安倍首相の揮毫。「みんなちがってみんないい」

金子みすゞは、26歳の若さでこの世を去りました。夫が遊廓でもらった病気(淋病)を移されたことや、娘の親権問題が原因で服毒自殺したとされています。*1*2

【参考文献】
*1 矢崎節夫:童謡詩人金子みすゞの生涯(JULA出版局,1993)P.296,P.323,P.339
*2 西村祐見子: 別冊太陽(2003.4 通号122)「金子みすゞの生涯」P.116
今回は、仙崎(山口県長門市)の町並みと風俗を散歩します。
仙崎は、山口県長門市街の北側に位置する半島の町で、山陰本線支線の仙崎駅から半島の先端までは、歩いて30分ほどです。市街の中央の通りは、仙崎出身の童謡詩人、金子みすゞの名をとって、みすゞ通りと呼ばれています。

青海島の王子山公園からは、仙崎の半島の全容を眺めることができます。

金子み すゞの「王子山」に、「 わたしの町はそのなかに、龍宮みたいに浮かんでる」と詠まれています。

金子み すゞ「王子山」。

芳和荘の1階のお風呂場へ向かう廊下。

風呂場の入口は、日本庭園のようです。

岩風呂。

椅子も岩でてきいます。慣れないとお尻が痛いです。

旧遊廓の芳和荘。8年前に宿泊しましたが、今回2回目の宿泊です。

木造の建物は、以前とまったく変わらず、老朽化していません。

木製の階段の裏側。

落ち着いた感じの和室。

五間町のスナック街。

隣接する東田町は、比較的新しい商業ビルのスナック街であるのに対し、こちらは、昔ながらの建物が多いです。

モダンな建物が軒を連ねます。

カラフルなスナックの店舗。

今回は、萩(山口県萩市)の町並みと風俗を散歩します。
萩市の繁華街は、東田町と五間町に集中しています。

東田町には、比較的新しいスナック店や居酒屋などが入居する商業ビルが集まっています。

商業ビルのスナック街。

夜は、多くの客で賑わいます。

340号線から山道に入り、案内に従って奥へ進むと、金勢精神社の境内に到着します。

金勢精神社。

大きな石のコンセイサマ

ご神体のコンセイサマ。高さは、1.5m程あります。

遠野駅から340号線を北東へ7Kmほど行くと、「山崎のコンセイサマ」の入口を示す看板に行きつきます。

しばらく行くと、山崎のコンセイサマの案内板があります。

道の両脇には、陰陽石が置かれています。

山崎金勢茶屋にあった切株。

遠野には、性神を多く見かけます。その一つ、「程洞のコンセイサマ」は、遠野市街の南側の丘陵にあります。
急峻な山腹を延々と昇るとようやく鳥居が見えてきます。さらにこの鳥居をくぐって石段を登った上に、コンセイサマが安置されています。*1

コンセイサマが安置されている祠。

遠野物語の第16話に、「コンセサマを祭れる家も少なからず。(中略)石又は木にて男の物を作りて捧ぐる也。今は追々とその事少なくなれり。」と書かれています。*1

手前に、並べられている男根。

【参考文献】
*1 原左門:遠野のいまと昔(有志舎,2015)P.101-P.102
この日は、旅館福山荘に宿泊。昔ながらのレトロな旅館です。

広くて豪華な部屋。

夕食は、お膳に置きくれないくらいの皿数の多さです。

コップ一杯のどぶろくがサービスでつきます。プチプチと音をたてて泡が出ていました。

遠野駅前のスナック。木造母屋を改造した看板建築の建物が多く見られます。

ネオン看板の痕跡。

2階建てに見えるスナックの建物。

後ろから見ると1階建てであることが解ります。

遠野駅前の歓楽街。ネオン看板の枠のみが残っています。

壁面に「パチンコ」と書かれた建物。

緩やかにカーブを描いてスナック街が続いています。

飲み屋街の東端。Y字路になっています。

今回は、遠野(岩手県遠野市)の町並みと風俗を散歩します。
遠野の裏町(現在の仲町)に、遊女屋ができたのは、明治11年の滝田火事で裏町が全焼した後です。明治18年、当局者は町の復興のため、裏町を三業の指定地として茶屋(遊女屋)を集めました。当時の遊女屋は、大橋楼、菊一楼、三海楼、寿楼、朝日楼、吾妻楼、福田楼、それに通称三階といった恵比寿楼の8軒で、これに後で紫明館が加わりました。*1

昭和3年の市街図*2 によると遊女屋の紫明館はこのあたりにありました。

現在、仲町と呼ばれているあたりが、「裏町」でした。

遠野物語拾遺二五二に、「青笹村の関口に、毎日毎日遠野の裏町に通って遊ぶ人があった。その遊女屋の名が三光楼であった故に、土地の者はこの人をも三光楼と呼ぶようになったが、しまいにはそれが屋号になって、今でもその家をそういっている。」とあります。*3
しかし、裏町には、三光楼という遊女屋はなく、三階楼をもじって「三光楼」と言ったのだと思われます。*4
「南部ばやし」の案内板。当時の仲町(裏町)では、芸者衆が三味線や笛、太鼓を持って加わりました。

【参考文献】
*1 遠野市史編集委員会:遠野市史 第3巻(万葉堂書店,1976)P.547
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)岩手懸
*3 柳田国男:新版 遠野物語(角川書店,2004)P.196
*4 遠野物語研究所:注釈遠野物語拾遺(遠野物語研究所,2013)P.156-P.157
「しんど」と呼ばれた新穀町通りは、かつては遊廓街(黒沢尻遊廓)でした。遊廓の入口にあたる賑橋の近くには、賛成楼がありました。*1

その向かい側にあった千花楼があった場所は、現在は大きな商業ビルが建っています。*1

遊廓街の西側から見た東方。写真の左手前(旧トップフード付近)に松月楼がありました。*1

商店街の中で、唯一、当時の屋号が残る米店の紙野屋。通りを挟んだ向かい側に、遊女の検査場と花月楼がありました。*1

【参考文献】
*1 街きたかみ編集委員会・みちのく民芸企画:きたかみの今昔(トリョーコム,1980 )P.54-P.55「明治30年代の新穀町の盛り場」
北上(旧黒沢尻町)の遊廓は、新穀町にありました。*1
新穀町は「西裏」と称され、小料理屋と遊廓が集中した新開地で、いわゆる赤線区域でもありました。新穀町の入口には、広瀬川にかかる「賑橋(にぎわいばし)」があって、この橋から西が遊廓の免許地で、馬喰、鉱山関係者などで賑わいました。*2

現在、賑橋はありません。

賑橋があったと思われる場所(駐車場脇)には、小さな水路が流れています。

かつて賑わい橋がかかっていた広瀬川の名残でしょうか。

【参考文献】
*1 全国遊廓案内(日本遊覧社, 1930)P.120-P.121
*2 街きたかみ編集委員会・みちのく民芸企画:きたかみの今昔(トリョーコム,1980 )P.54-P.57「西の玄関口・新穀町」
往時の黒沢尻町(現在の北上市街)の飲食街は「東裏」(花柳界)と「西裏」(遊廓街)に二分されてされていました。「東裏」は、本通りの東側にあたり、東京屋、大安楼、常盤木、観月、喜久乃屋、吉田屋、今野屋等に代表される料亭をを中心とする花柳界でした。*1
本通りの東側の諏訪町2丁目に、当時の屋号「大安楼」を引き継ぐ料理屋が現在も営業中です。

レトロな雰囲気の店内。

刺身定食、北上コロッケ、ビールを注文。

デザートに、トマトのレモン煮を注文。フルーツのように甘くておいしいトマトです。

【参考文献】
*1 街きたかみ編集委員会・みちのく民芸企画:きたかみの今昔(トリョーコム,1980 )P.54-P.57「西の玄関口・新穀町」
青柳町2丁目の歓楽街。広い通りに長屋風のスナックの路地が交差します。

青色のスナック店。

長屋風のスナックの建物。

両側にスナック店。

青柳町2丁目の歓楽街。スナックが密集するエリアです。

小料理、おでんの「あいこ」。

レトロな店の入口。

あいこ。

ゲートの裏側は、破損が少なく、店名が確認できます。
今回は、北上(岩手県北上市)の町並みと風俗を散歩します。
北上の繁華街の青柳町。

楽天小路と名付けられた横丁があります。

両側に居酒屋やスナックが建ち並びます。

ゲートの裏側は、破損が少なく、店名が確認できます。

釜石駅から南リアス線の隣の駅、平田(へいた)駅で下車し、西へ2Kmほどのところに、「コインランドリー090」がありあす。*1

コインランドリー脇に、ハンバーガー自動販売機が設置されています。

残念ながら、チーズバーガーは売り切れでした。

バス停の形をした看板。遊び心があります。

【参考文献】
*1 越野弘之:昭和レトロ自販機大百科(洋泉社,2015)P.40
釜石市街になる銭湯の「鶴の湯」。

油田型の煙突。

入口には、アジサイが咲き誇っています。

「鶴女湯」「鶴男湯」と表示されています。

釜石の遊廓は、現在の釜石市浜町3丁目のあたりにあって、北側から、気晴館、鈴木楼、黄金楼、布袋楼、花月楼、美芳楼、東楼、紺楼、三陸楼、福寿楼、東海楼、幸楼、と建ち並び、釜石貸座敷組合が組織されていました。*1

遊廓街の南端にあった幸楼と同じ屋号の料亭「幸楼」。*1

遊廓の北側。気晴館、鈴木楼、黄金楼があったと思われるあたり。

大正15年の「釜石案内」*2 には、「遠く望めば、さながら、阿房宮(あぼうきゅう、秦の始皇帝が建てた大宮殿)のようであった」と、記されています。

【参考文献】
*1 東京交通社:大日本職業別明細図 岩手県(東京交通社,1925)
*2 伊藤天山:釜石案内(釜石町,1926)P.135
今回は、釜石(岩手県釜石市)の町並みと風俗を散歩します。釜石市街になるKUNIYA(928)ビル。レトロ自販機が設置されています。

928の店舗は震災時、二階まで津波の被害を受けました。この自販機が設置されたのも震災復興のためです。*1

チーズバーガーを注文。調理中を示す赤ランプが点滅します。

出来上がり。

【参考文献】
*1 越野弘之:昭和レトロ自販機大百科(洋泉社,2015)P.40
太田の坂道の途中にあるスナック店。「HAMACHIDORI(はまちどり)」と書かれた洋風の建物です。

1階部分がスナック店です。

三日町の七十七銀行へ向かう道の途中にあるスナック。

スナック「ブーケ」。
