富岡(スナック街)二町通り。派手な看板建築。

二町通りには、昭和の感じさせるスナック街があります。

派手な看板建築のスナック店。

鮮やかな青色です。

道路に面したスナック店。入口がトンネルのような形状になっています。

参考文献

参考記事

富岡(アルバイトサロン)二町通り。派手な電飾看板。

富岡市の二町通り。

三町通り(「萬屋料理店」などの料亭があった花街)の呼び名が出来てから、戦後、この一帯を二町通りと呼ぶようになりました。戦前~戦後まで遊廓があり現在は多くの飲食店が軒を連ねる群馬を代表する夜の町です。(案内板より)
昭和10年以降には、萬世閣、三好テイ、竹屋という女郎屋が位置していました。*1

アルバイトサロンの遺構。

派手な電飾看板が、往時の賑わいを偲ばせます。

【参考文献】
*1 中山まりか:富岡市中心市街地における歴史的・文化的価値に関する研究(筑波大学修士論文,2013)

参考文献

参考記事

富岡(割烹藤屋)西銀座。娯楽設備を必要とした富岡製糸場。

今回は、富岡(群馬県富岡市)の町並みと風俗を散歩します。
富岡市の西銀座は、銀座通りとともに商店が建ち並ぶ通りで、通りの左端にある割烹「藤屋」の懐かしい佇まいは、通りの特徴的存在です(案内板より)。
写真奥に、富岡製糸場の煙突が見えます。
富岡製糸場は、殖産興業政策により開設された官営模範工場の一つでした。

昭和58年頃まで富岡の町にも花街が存在し、芸者遊びが行われ、最大38名の芸者が置屋に席を置いていました。当時、芸者遊びを行っていた割烹藤屋、和来屋源氏、萬屋料理店は現在も料理屋として営業中です。*1

趣のある建物です。

割烹藤屋から見た西銀座の通り。
富岡製糸場は、工女募集のために娯楽設備を必要とし、明治9年、富岡の街における最初の劇場として西銀座に「中村座」ができ、大正時代になると中村座の周辺に映画館等が建設されました。*1

【参考文献】
*1 中山まりか:富岡市中心市街地における歴史的・文化的価値に関する研究(筑波大学修士論文,2013)

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浅草(どぜう「飯田屋」)永井荷風がよく訪れた店。

永井荷風は、飯田屋の暖簾をよくくぐりました。夜、芝居がはねてから踊り子たちと来ることもありました。*1

どじょうは、うなぎと比べてビタミンが豊富で精がつきます。*1

ひとりで来店したときの荷風は、ぬたとお銚子一本を注文し、最後は柳川で締めました。*1

まぐろの赤身と独活(ウド)を赤味噌で和えた「ぬた」。くらげが添えられて、異なる食感を楽しめます。*1

【参考文献】
*1 永井永光,水野恵美子,坂本真典:永井荷風ひとり暮らしの贅沢(新潮社,2006)P.68

参考文献

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浅草(ラブホテル)隠れ家的ホテル。ピンク色の光。

浅草には、ラブホテルが散在しています。ひさご通りの商店街から脇道に入ると、ピンク色の光を放つラブホテルがあります。

さらに進むと、花やしきの裏手に出ます。ここにもラブホテル。

言問通りからの遠望。

浅草寺の東側にある隠れ家的ラブホテル。

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浅草(アリゾナキッチン)永井荷風に愛された洋食屋。

浅草の洋食屋の「アリゾナキッチン」。

永井荷風に愛された洋食屋です。
荷風は、昼の12時頃に来店し、入口に向かってすぐ左横の席に腰をおろし、水がわりにビールを飲みました。*1

店内には荷風先生の写真が飾られています。

荷風先生が好んで食べていたチキンレバークレオール(若鶏とレバーの煮込み)。*1

【参考文献】
*1 永井永光,水野恵美子,坂本真典:永井荷風ひとり暮らしの贅沢(新潮社,2006)P.67

参考文献

*1
葛城峻横浜花街史稿制作のための準備資料集葛城峻2013
蒔田花街
蒔田見番、料亭「不二菊」、料亭「平作」、料亭「光楽」、料亭「富久本」、等の記載。
芸妓屋組合の一覧
蒔田 この地区最大の料亭「平作」は戦後も長期間営業していた。現在営業中の「松島」は永真遊廓の妓楼「…

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浅草(蛇骨湯)券売機には、英語、中国語、韓国語の表記。

浅草六区の繁華街の中。銭湯の「蛇骨(じゃこつ)湯」の看板があります。

路地の奥まったところにあります。

蛇骨湯の入口。

券売機には、英語、中国語、韓国語の表記があります。外国人観光客の利用も多いようです。

参考文献

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浅草(浅草寺の公衆トイレ)夜間専用。美しい石に放尿。

浅草寺の公衆トイレ。利用時間は、6:00~20:00。夜間は利用できません。

公衆トイレの建屋の脇に設置されている夜間専用トイレ。

箱庭のような美しさです。

立小便専用の男子トイレで、庭石のように美しい石に向かって気持ちよく放尿できます。

参考文献

参考記事

浅草(花やしき)日本最古の遊園地。150年以上前に植物園として誕生。

浅草五区にある遊園地の「花やしき」。
花やしき(花屋敷)は、150年以上も前に、楽しむための植物園として誕生したものでした。*1

「Beeタワー」「ヘリコプター」「スカイシップ」など、レトロな雰囲気を味わえる遊園地として存続しています。

花屋敷は、嘉永6年(1853年)に向島百花園の例にならって開園し、園内には「新登亭」という料理屋もありました。広重もこの花屋敷を画材としてとりあげています。*2

明治時代、花屋敷の新たな経営者となった山本金蔵は、明治20年、本所の材木商が所有する木造瓦葺き五階屋を一棟買収し、花やしきへ移築、「奥山閣」として公開し、凌雲閣(浅草十二階)*4 と人気を二分する浅草の新名所となりました。*1
明治30年刊行の「新撰東京名所図会」*3 によれば、「室内には、唐草模様を染めなせし紅の毛氈 (もうせん)一面に敷詰め、左右紫壇の床柱には、巖に瀧、松に雲を彫刻...」とあり、外観だけでなく内部も壮麗だったようです。

【参考文献】
*1 小沢詠美子:江戸ッ子と浅草花屋敷(小学館,2006)口絵,P.170-P.173
*2 内山正雄,蓑茂寿太郎:東京の遊園地(郷学舎,1981)P.3-P.5
*3 宮尾しげを:新撰東京名所図会 浅草公園・新吉原之部(睦書房,1968)P.83
【参考記事】
*4 風俗散歩(浅草):凌雲閣(浅草十二階)

参考文献

参考記事

浅草(フランス座)浅草六区。元ストリップ劇場。

今回は、浅草(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
浅草六区の交差点の角に「浅草東洋館」と「浅草演芸ホール」が併設された建物(写真左側)が建ちます。

渥美清やビートたけしなど、数多くの役者や芸人を輩出した「浅草フランス座」が平成12年より「浅草東洋館」として生まれ変わりました。(案内板より)
フランス座は、昭和26年にオープン。昭和34年に東洋劇場として、軽演劇とショーとストリップとなりましたが、昭和39年、寄席とストリップとなりました。*1

浅草フランス座出身の芸人。

昭和23年以来、浅草ロック座の楽屋へ通い続けた永井荷風は、昭和28年にフランス座の楽屋を初めて訪れています。*2

【参考文献】
*1 佐藤洋一:あの日の浅草(武揚堂,2007)附図
*2 堀切直人:浅草 戦後篇(右文書院,2005)P.232

参考文献

参考記事