花巻に唯一残っている銭湯の高砂湯。コンクリート造りの建物です。

奥行はかなり大きくで、規模の大きさを感じさせます。

建物脇から見える煙突。

現在は臨時休業中です。

花巻に唯一残っている銭湯の高砂湯。コンクリート造りの建物です。
奥行はかなり大きくで、規模の大きさを感じさせます。
建物脇から見える煙突。
現在は臨時休業中です。
旧裏町の路地。
傍らに、手押しポンプがあります。
特製。川本式。
現在は使われていないようです。
地元では有名な百貨店の「マルカン」。
展望大食堂は、今では珍しくなった食券を買うタイプの食堂です。
マルカンラーメン(570円)と生ビール(580円)を注文。豆板醤入り辛口のあんかけラーメンです。ビールと良く合います。
名物の特大のソフートクリーム(170円)。割りばしで食べるのがマルカン流。
テレビでも紹介されています。カップルならふたりでひとつでもOKだそうです。*1
【参考文献】
*1 「賢治の広場」に設置されている花巻市街の案内図
双葉町の公衆トイレ。付近には、スナックなどの店舗が散在しています。
トイレ内には、多数の貼り紙。
便器の中に用をすませましょう。
下着類など、トイレに入れてはいけません。
花巻の双葉町を中心にスナックや居酒屋が散在しています。
この建物はアパートですが、建物の1階部分がスナックになっています。
「こいこい通り」と名付けられた飲み屋街。
建物の2階部分は居住スペース。1階はスナック街です。
明治18年、貸座敷免許地指定になるまでのの頃の裏町は、ほとんど百姓家ばかりしかなく、鍵町(坂本町)には、前々から小料理屋などがあったので、この方が指定地になりかかったところ、里川口町の有力者の滝川金太郎、八重樫治太郎、他が、県庁に運動した結果、翌19年に裏町が勝利を得て、明治22年には、八重樫治太郎が真っ先に「千歳楼」を開業、その後、続々開業者が出て繁盛しました。*1
遊廓の中心部と思われる十字路。
昭和20年の戦災後は、一軒もなくなって57年間の花柳界は終わりを告げました。*1
稲荷神社の案内板には、このあたりが激しい戦災にみまわれたことが書かれています。
貸座敷事務所があったあたり。*2
【参考文献】
*1 熊谷章一:花巻市上町の歴史 形成と発展(花巻市上町商業協同組合,1972)P.78-P.80
*2 東京交通社:大日本職業別明細図 第204号 岩手県(東京交通社,1937)
豊沢町の東側。裏町の南端に、御旅所跡があります。現在、この場所には、石柱が建っています。
御旅屋は、まつり(花巻祭)の間、神輿(ご神体)が神社を出て宿とする場所で、花巻まつりの際も、露店や見世物が、広場に集まり、賑わいをみせました。宮沢賢治の童話「祭りの晩」に登場する「お旅屋」は、この御旅屋モデルと考えられています(豊沢町の案内より)。
鳥谷崎神社の碑。観音祭を起源とする花巻祭は、鳥谷崎神社の祭礼としてとして行われるようになりました。
お旅所の前には、芝居劇場の「朝日座」がありました。現在は、昭和50年代にオープンした「ホテル花城」が建っています。*1
遊廓があった裏町の通りを南下した突き当たりに御旅所あり、その隣に朝日座がありました。
【参考文献】
*1 鎌田雅夫:花巻・北上・遠野・西和賀の今昔(郷土出版社,2010)P.94
今回は、花巻(岩手県花巻市)の町並みと風俗を散歩します。
豊沢町(旧花巻川口町)は、明治から大正の初期にかけての花巻の商店街の中心で、その次の上町、それから鍛冶町の順でした。かつての豊沢町は、朝早くから活気のある町で、そして、夜は花巻一の歓楽街である裏町への通り道として遅くまで賑わいました。
豊沢町に、宮沢賢治の実家跡があります(写真左奥)。
宮沢賢治と豊沢町のことを説明した案内板。
「大正10年頃の豊沢町絵図」。*1
豊沢町の東側に「裏町」の記述があります。
豊沢町の案内板。花巻史談12号の「豊沢町今昔」*1 からの抜粋と思われます。
【参考文献】
*1 永田圭一:花巻史談(第12号,1987)P.31-P.35 「豊沢町今昔」
盛岡市街の中ノ橋通。写真奥が中ノ橋交番があるあたり。
スナック「あじさい」。
スナック「オーロラ」。
紺色と黄色の配色は斬新です。
盛岡市街の宮古街道(盛岡市と宮古市を結ぶ国道106号線)周辺は、商店街が連なる繁華街です。
通りから南側へ入ると、スナック店が入る雑居ビルや住宅地が混在します(写真は南大通り1丁目)。
場末感漂うミニクラブ(中ノ橋通一丁目の路地)。
ネオン看板。
現在は、休業している模様です。