半田(検番跡) 山之神社周辺。旅館が多い花街でした。

今回は、半田(愛知県半田市)の町並みと風俗を散歩します。
山之神社周辺の一帯には、料亭や飲食店、旅館が多い花街でした。*1

神社の前の通り。

古い住宅地図*2 によると、この付近に検番がありました。

花街らしい風情が残っています。

【参考文献】
*1 陣内秀信,岡本哲志:水辺から都市を読む(法政大学出版局,2002)P.422
*2 善隣出版社:半田市(善隣出版社,1958)P.98-P.99

参考文献

参考記事

大森(ダイシン百官店展望食堂)名物はナポリタン。

JR大森駅西口を出て、池上通りを南下すると、ダイシン百貨店があります。昭和の地方百貨店の雰囲気を今でも残している百貨店です。

4階には、展望食堂「ダイシンファミリーレストラン」があります。最近リニューアルされたばかりなので、花巻のマルカン百貨店*1 のようなレトロ感はありませんが、入口で食券を買って自分で好きな席に座るところまでは、同じです。

名物のナポリタン(大盛り)と生ビールを注文。

食堂からの眺め。商店街の看板建築を上から見ることができます。

【参考記事】
*1 風俗散歩(花巻)マルカン百貨店の展望大食堂

参考文献

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大森(クリーニング店)タイルの装飾。DRY CLEANING。

大森駅前の古い商店の建物。「あらがや」という屋号とマークが描かれています。

鮮やかな青色のタイルで装飾されています。

クリーニング店だったようです。

「DRY CLEANING」の文字。

参考文献

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大森(山王小路飲食店街)大森駅前。入口の階段。

JR大森駅西口を出て、すぐに北へ曲がると「山王小路飲食店街」へ下る階段の入口があります。

「山王小路飲食店街」のゲート。

幅の狭い路地に、居酒屋がスナックが建ち並びます。

飲食店街の奥まったところ。

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大森(かつての料亭街)現在はラブホテル街。

大森海岸駅(写真右奥)の南西側の一画(大森北2丁目14~17)は、現在はラブホテル街になっていますが、かつては、料理屋街でした。京急線沿いのこのあたりには、料亭の「三平」「鈴木」などがありました。*1

料亭「梅の家」があったあたり。*1

西側には、料亭の「久の家」「福田家」「松川」などがありました。*1

そば屋の「松登久」。この付近が料理屋街だった頃から営業していました。*1

【参考文献】
*1 都市整図社:火災保険特殊地図(戦後分) 大田区[2]大森方面 2(都市整図社 ,2003)

参考文献

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大森(磐井神社)玉垣に料亭や芸妓置屋の名。

京浜急行の大森海岸駅から第一京浜国道沿いに南下すると、磐井神社があり、社殿の右側に稲荷社があります。玉垣の積石に朱入りで名前が刻まれています。昭和44年に明治百年事業として寄進されたものですが、この地の花柳界を支えてきた料亭や芸妓置屋の名があって、かつての繁栄が偲ばれます。*1

芸妓屋が開業した当時隆盛した伊勢原、魚栄、八幡楼はその後廃業し、松浅がひとり繁栄をつづけました。*2
松浅の主人で、当時大森海岸料理屋組合長であった松木浅次は、花柳界の振興策として「大森海岸小唄」を流行らすことを仕掛け、大森の名は一気に広まりました。*1

日露戦争後の好況に伴って開業したのが、鯉屋、日の出屋、初鯉屋、立花家などであり、鯉屋は、常に芸妓40名を下ることなく、全国各都市を通じ、常に第一流の地位を占めていました。*2

「松登久」は、現在の大森北2丁目14に当時からあった、そば屋の「松登久(まつとく)」*3 でしょうか。

【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.217,P.219
*2 東京市大森区:大森区史(東京市大森区,1939)P.1138-P.1140
*3 都市整図社:火災保険特殊地図(戦後分) 大田区[2]大森方面 2(都市整図社 ,2003)

参考文献

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大森(料亭「梅元」)大森海岸三業地。明治26年開業。

今回は、大森(東京都品川区)の町並みと風俗を散歩します。
大森海岸の芸妓屋は、明治26年5月に八幡橋(八幡橋は、近くを流れていた不入斗新井宿村用水(いりやまずあらいじゅくむらようすい)にかけられていた橋と思われます。*1)の際に開業した料理屋の伊勢原が隆盛し、魚栄、松浅、八幡楼等引き続き開店し、間もなく芸妓屋が開業したのが始まりでした。*2
現在八幡橋は無く、八幡橋があった場所は「八幡橋児童公園」になっています。

八幡橋の東側には、競艇場の「ボートレース平和島」が見えます。

八幡橋近くには、待合だった「梅元」の建物が現在も残っています。*3

現在は、オフィスビルが乱立するエリアになっています。

【参考文献】
*2 東京市大森区:大森区史(東京市大森区,1939)P.1138-P.1139
*3 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.220

参考文献

*1
菅原健二川の地図辞典 : 江戸・東京/23区編フィールド・スタディ文庫 ; 1之潮2007.12
大田区①

P.199

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下諏訪(新湯温泉)旧遊廓内。昔ながらの公衆浴場。

旧遊廓街の下諏訪町御田町の通り。

大衆浴場の「新湯」があります。

昔ながらの公衆浴場の雰囲気です。

入浴前には、排便をすませて、かけ湯をすませて入りましょう。

参考文献

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下諏訪(眞清神社)夫婦岩。下諏訪遊廓の真寿美楼の中庭あったもの。

中山道を北上し、大岩不動の前過ぎて少し行った右側の斜面に眞清神社があります。現在は詣でる人も少なくなり忘れられた存在ですが、明治から昭和にかけ社前はには人の絶え間がなく、その大半は花街の姐さんたちでした。拝殿に向かい合って、あずまや風の舞殿がありますが、当時は竜や大黒さまや花魁などの華やかな飾り物に包まれ、艶めかしい歌弦のひびきや酒盛りなどが行われました。*1

拝殿の脇に、夫婦岩があります。

案内板によりと、下諏訪遊廓の真寿美楼の中庭あったものが、こちらに移されたそうです。

寄進者には、女性の名前がずらりと並んでいます。

【参考文献】
*1 両角俊一,増沢光男:下諏訪歴史散歩(下諏訪歴史散歩刊行会,1984)P.110

参考文献

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下諏訪(豊川稲荷社)下諏訪料芸組合。置屋が密集していました。

芸妓置屋指定地の区域内にある豊川稲荷社。「大正期の湯田町の復元図」*1 によると、豊川稲荷の両隣は、置屋の「八重木」、「末広料理」、さらにその隣に、置屋の「新喜久の家」が並び、通りの南側には、置屋の「金枡」「大寿」と置屋が密集していました。

玉垣には、「下諏訪料芸組合」と刻まれています。

狛犬の台座には、「下諏訪芸妓置屋」と刻まれており、置屋の名前が連なっています。

「常盤家」「住吉」「八重本」は、「大正期の湯田町の復元図」*1 に名がある置屋です。

【参考文献】
*1 小林茂樹:写真が語る下諏訪の百年(ヤマダ画廊,1979)P.131

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