両替町にあるバーやスナックが入居する雑居ビル。

レトロな雰囲気を醸し出しているらせん階段。

昭和42年発行のガイドブック*1 によると、両替町には、「キャバレー金時」「クインビー」「ソワール」「エスポアール」などの高級バーがありました。

ショーのご案内。

【参考文献】
*1 梅田晴夫:全調査東海道酒・女・女の店(有紀書房,1967)P.216-P.217
両替町にあるバーやスナックが入居する雑居ビル。
レトロな雰囲気を醸し出しているらせん階段。
昭和42年発行のガイドブック*1 によると、両替町には、「キャバレー金時」「クインビー」「ソワール」「エスポアール」などの高級バーがありました。
ショーのご案内。
【参考文献】
*1 梅田晴夫:全調査東海道酒・女・女の店(有紀書房,1967)P.216-P.217
静岡の歓楽街、両替町。昔からの飲み屋街の一つである「ちゃっきり横丁」の入口です。
残念ながら、向こう側半分は最近になって解体されたらくし、更地になっています。
以前は、ここに横丁の建物がありました。
中央部分には、横丁らしい雰囲気がわずかに残されています。
二丁町遊廓の開祖、勘右衛門は、正保四年(1647年)に病死し、明泉寺(静岡市葵区上石3−1)に葬られています。
勘右衛門の墓は、墓地へ入るとすぐ右手の隅にあります。
墓の表面中央に桔梗の紋をつけ、右側に釋祐念(勘右衛門)左に釋妙久(妻)の法名が彫られています。*1
墓は、弘化二年、九代目の加右衛門という人が建てたものです。
参考文献】
*1 漆畑弥一:ふるさと百話(静岡新聞社,1998)「駿府の花街」P.141-P.142
二丁町遊廓は、戦災によって完全に消失し、二丁目の跡は、静岡県地震防災センター(静岡市葵区駒形通5丁目9−1)の敷地となりました。*1
大門と裏門を結ぶ通りに妓楼は無く、引手茶屋、見番、芸者屋、周旋業、台屋(食べ物屋)などが軒を並べ、比較的静かな通りでした。*2
現在、この通りは「しあわせ通り」と呼ばれています。
地震防災センター裏の通り。
【参考文献】
*1 漆畑弥一:ふるさと百話(静岡新聞社,1998)「駿府の花街」P.131
*2 小長谷澄子:静岡の遊廓二丁町(文芸社,2006)P.85-P.86
今回は、静岡(静岡県静岡市)の町並みと風俗を散歩します。
静岡市街の駒形通りを入った静岡県地震防災センター南側に稲荷神社があります。
稲荷神社内に、「双街記念之碑」があります。双街とは、二丁の町という意味で、駿河の花街として知られた「二丁町遊廓」のことです。二丁町は、もともと七丁あったものが五丁江戸に移って)吉原になり、残ったのが二丁だから二丁町となったという言い伝えがあります。*1
題字は篆書体*2 で「静岡雙街(双街)紀念之碑」と書かれています。
当初は、表面に「つわもの共の夢の跡」と大書し、副題として「二丁町遊廓跡」と記す構想もあったようです。*1
二丁町遊廓の歴史は、天下の権を握った徳川家康が慶長十年(1605年)、将軍職を子秀忠に譲って、駿府に隠居した時代にさかのぼります。
駿府城拡張のため、多くの将士や役夫が駿府の町に集まり、城下の繁盛と共に女が原因の喧嘩口論が絶えなかったため、家康は遊女や歌舞伎女を一カ所に集めて営業させ取り締まった方が治安が保てるだろうと考えました。たまたま、家康の鷹匠を務めていた伊部勘右衛門が老齢のため辞職を願い出てきたので、家康や老後の仕事に安倍川の土地を与え遊廓をつくらせ、これを勘右衛門に支配させました。これが二丁町遊廓の始まりです。*1
【参考文献】
*1 漆畑弥一:ふるさと百話(静岡新聞社,1998)「駿府の花街」P.130-P.142,P.257
【参考URL】
*2 フォントファクトリー 大和篆書体
神田橋から南へ折れたところの通り。奥に見える鳥居は神田宮神社です。昭和6~7年頃の市街図*1 によると、この通りに右側には芸妓業の「若杵家」がありました。
富士宮五業組合の建物。
五業組合の看板。飲食や旅館関係の組合事務所も兼ねているようです。
この界隈は、「琴音みち」と命名されています。
【参考文献】
*1 神田区誌編纂委員会:神田区誌 かんだ今と昔(富士宮市神田区,2000)P.193-P.195
最盛期、高しま家と並んで50人の芸妓を擁していた新杵家は、佐野歯科医院があったあたりにありました。*1
昭和19年~21年頃の市街図に「新杵家」の記載があり、平成11年の市街図では、佐野医院に変わっています。*2
現在は住宅地になっています。
富士宮には、小路にさまざまな名前がつけられていて、ここは「三味音みち」と呼ばれています。
花街らしい雰囲気が残っている小路です。
【参考文献】
*1 遠藤秀男:懐かしの富士宮(羽衣出版,2009)P.68-P.69
*2 神田区誌編纂委員会:神田区誌 かんだ今と昔(富士宮市神田区,2000)P.193-P.195
富士宮(旧大宮町)の花街は、大正時代に、常盤家、新杵家、高しま家が開業した頃から隆盛期を迎え、昭和12年の最盛時には百数十人の芸者がいました。その原因は、生糸(絹の原料)の生産で、大宮町には、繭の取引や、繭を用いての製糸工場が多くなり、高級料亭が整理しました。最盛期には、高しま家と新杵家が50人ずつの芸者を擁していました。高しま家の料亭の門だった長屋門。が現在も残っています。*1
長屋門は、「歴史の館」として整備されています。*2
現在は、日本庭園風に整備されています。料亭があった場所にはレストランが営業中です。
地元の方の話によると、このあたりには、料亭専用の風呂があって、若い旦那衆がこぞって芸者さんを見に来たそうです。
【参考文献】
*1 遠藤秀男:懐かしの富士宮(羽衣出版,2009)P.68-P.69
【参考URL】
*2 富士宮市:ホームページ 長屋門「歴史の館」
JR富士宮駅前通り(国道139号線)を少し東へ行くと、北角に富士宮グリーンホテルがあって、ホテルの横を北に向かう町並みは、以前は「清水町」と言いました(現在は、東町と中央町に分かれいます)。しかし、清水町は、小字(こあざ)名である「茨木(バラキ)」という名前で市民に広く知られていた遊廓があった場所でした。*1
昭和3年の市街図*2 には、現在の富士宮グリーンホテルのあたりに、「遊廓」の記載があります。
明治27年(1893年)、大宮町(富士宮の旧名)議会で遊廓の設立について検討されました。議会は、「当大宮町は、近年になって蚕糸業をはじめとする工業が盛んになり、諸国から商人や青年が集まり、金回りが良いので町中で遊ぶ者が増え、それに伴い私娼が増加し、風俗が乱れつつある。これらのことを考えると、必要悪ではあるが、遊廓の設立を許可することが妥当。」と県に対して答申しました。*1
遊廓は、北側から、松井楼、深本楼、住吉楼の三軒で、娼妓の数は24名でした。昭和7年の「大宮町大火」で、豪華を誇った三軒の遊廓は焼失しましたが、翌昭和8年、深本楼の建物は復活しました。残りの松井楼、住吉楼は、再開されることはありませんでした。*1
昭和35年の住宅地図*3 によると、このあたりに、転業旅館と思われる「深本旅館」がありました。
現在、遊廓の北側に数軒の居酒屋やスナックがありますが、付近は住宅街で、遊廓があった当時の面影はありません。
【参考文献】
*1 佐野里見:岳南朝日(1992.12.9)P.4 「ふるさと再発見 バラキ物語」
*2 秋山不二男:商工案内 大宮町地図(日本地理附図研究所,1928)
*3 関東明細地図編集社:富士宮市住宅明細図(関東明細地図編集社,1960)P.15
今回は、富士宮(静岡県富士宮市)の町並みと風俗を散歩します。
富士宮駅の北口に、白ポストが設定されています。
塗装がされていない金属色の白ポストです。白ポストの文字のみ白色です。
天板に書かれた解りやすい表記。