武雄(武雄遊廓跡)旅館「花月」。正法寺へ向かう道の角。

「全国遊廓案内」*1 によると、武雄町温泉遊廓は武雄温泉場にあって、貸座敷は、花月、一楽、第三国明楼、第四国明楼、第四国明楼、小桜楼、改盛楼、文明楼などがありました。

昭和3年の市街図*2 によると、貸座敷「花月」は、正法寺へ向かう道の角にあって、現在、同じ場所には、旅館「花月」があります。

道の角に沿って、旅館「花月」の建物が長く連なっています。

裏側から見た旅館「花月」。

【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌.14(三一書房,1993)P.154-P.155 「全国遊廓案内」
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)佐賀県

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武雄(旅館「白さぎ荘」)満州楼跡

行橋(狛犬のエロス)清地神社。前肢を曲げて玉の上にのせているという容姿。

JR行橋駅から平成筑豊鉄道田川線で3つ目の駅の豊津で下車。そこから徒歩10分の行橋市天生田(あもうだ)に、清地(すがち)神社があります。
参道、一ノ鳥居の前に一対の狛犬が奉納されています。前肢を曲げて玉の上にのせているという容姿のもので、高さは1メートルぐらいです。

向かって左側の吽(うん)像(口を閉じている方)の股間には、20センチ程の男根が刻まれています。*1

向かって右側の阿(あ)像(口を開いている方)。

阿(あ)像の股間には、長さ4センチの陰物が刻まれています。*1

【参考文献】
*1 阿部通良:九州性崇拝資料(私家版,1963)P.241-P.242

行橋(見番跡地)かつて、50名ほどの芸者がいました。

今回は、行橋(福岡県行橋市、ゆくはし)の町並みと風俗を散歩します。
行橋は、JR小倉駅からJR日豊本線で約15分のところにあり、JR行橋駅からは、平成筑豊鉄道田川線で田川と結ばれています。
行橋の近・現代においては、筑豊の石炭・炭鉱とのかかわりが大きく、筑豊への農産物や坑木が供給されました。また、筑豊の炭鉱関係者にとっての保養地としての役割もあり、行橋には、かつて券番があり、50名ほどの芸者がいました。客は、地元の商店主や地主ばかりでなく、上客は田川の炭鉱主でした。*1
昭和10年発行の市街図によると、券番は、現在の行橋市大橋3丁目付近にありました。*2
付近には、割烹料亭があります。かつての名残かもしれません。

市街図*1 「芸妓券番」の記載があるのは、この路地の先の角のあたり。

道幅が急に狭くなって、鍵型に曲がっています。

角を回り込んだあたり。裏門のあるお宅。

【参考文献】
*1 山内小二:地方史ふくおか(2007.2.28)P.8-P.9「筑豊の炭鉱と京築 隣接地とのかかわりを見る」
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)第444号 福岡県

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花巻(高砂湯)花巻に唯一残る銭湯。現在は休業中。

花巻に唯一残っている銭湯の高砂湯。コンクリート造りの建物です。

奥行はかなり大きくで、規模の大きさを感じさせます。

建物脇から見える煙突。

現在は臨時休業中です。

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花巻(川本式手押しポンプ)旧裏町の路地。現在は使われていないようです。

旧裏町の路地。

傍らに、手押しポンプがあります。

特製。川本式。

現在は使われていないようです。

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花巻(マルカン百貨店の展望大食堂)特大のソフートクリーム。

地元では有名な百貨店の「マルカン」。

展望大食堂は、今では珍しくなった食券を買うタイプの食堂です。

マルカンラーメン(570円)と生ビール(580円)を注文。豆板醤入り辛口のあんかけラーメンです。ビールと良く合います。

名物の特大のソフートクリーム(170円)。割りばしで食べるのがマルカン流。
テレビでも紹介されています。カップルならふたりでひとつでもOKだそうです。*1

【参考文献】
*1 「賢治の広場」に設置されている花巻市街の案内図

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花巻(双葉町の公衆トイレ)トイレ内に多数の貼り紙。

双葉町の公衆トイレ。付近には、スナックなどの店舗が散在しています。

トイレ内には、多数の貼り紙。

便器の中に用をすませましょう。

下着類など、トイレに入れてはいけません。

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花巻(スナック街)アパートの1階部分がスナック。

花巻の双葉町を中心にスナックや居酒屋が散在しています。

この建物はアパートですが、建物の1階部分がスナックになっています。

「こいこい通り」と名付けられた飲み屋街。

建物の2階部分は居住スペース。1階はスナック街です。

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花巻(花巻遊廓跡地)明治18年、貸座敷免許地指定。

明治18年、貸座敷免許地指定になるまでのの頃の裏町は、ほとんど百姓家ばかりしかなく、鍵町(坂本町)には、前々から小料理屋などがあったので、この方が指定地になりかかったところ、里川口町の有力者の滝川金太郎、八重樫治太郎、他が、県庁に運動した結果、翌19年に裏町が勝利を得て、明治22年には、八重樫治太郎が真っ先に「千歳楼」を開業、その後、続々開業者が出て繁盛しました。*1

遊廓の中心部と思われる十字路。

昭和20年の戦災後は、一軒もなくなって57年間の花柳界は終わりを告げました。*1
稲荷神社の案内板には、このあたりが激しい戦災にみまわれたことが書かれています。

貸座敷事務所があったあたり。*2

【参考文献】
*1 熊谷章一:花巻市上町の歴史 形成と発展(花巻市上町商業協同組合,1972)P.78-P.80
*2 東京交通社:大日本職業別明細図 第204号 岩手県(東京交通社,1937)

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花巻(御旅所跡)露店や見世物が、広場に集まり、賑わいをみせました。

豊沢町の東側。裏町の南端に、御旅所跡があります。現在、この場所には、石柱が建っています。

御旅屋は、まつり(花巻祭)の間、神輿(ご神体)が神社を出て宿とする場所で、花巻まつりの際も、露店や見世物が、広場に集まり、賑わいをみせました。宮沢賢治の童話「祭りの晩」に登場する「お旅屋」は、この御旅屋モデルと考えられています(豊沢町の案内より)。

鳥谷崎神社の碑。観音祭を起源とする花巻祭は、鳥谷崎神社の祭礼としてとして行われるようになりました。

お旅所の前には、芝居劇場の「朝日座」がありました。現在は、昭和50年代にオープンした「ホテル花城」が建っています。*1
遊廓があった裏町の通りを南下した突き当たりに御旅所あり、その隣に朝日座がありました。

【参考文献】
*1 鎌田雅夫:花巻・北上・遠野・西和賀の今昔(郷土出版社,2010)P.94

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