神田橋から南へ折れたところの通り。奥に見える鳥居は神田宮神社です。昭和6~7年頃の市街図*1 によると、この通りに右側には芸妓業の「若杵家」がありました。

富士宮五業組合の建物。

五業組合の看板。飲食や旅館関係の組合事務所も兼ねているようです。

この界隈は、「琴音みち」と命名されています。

【参考文献】
*1 神田区誌編纂委員会:神田区誌 かんだ今と昔(富士宮市神田区,2000)P.193-P.195
神田橋から南へ折れたところの通り。奥に見える鳥居は神田宮神社です。昭和6~7年頃の市街図*1 によると、この通りに右側には芸妓業の「若杵家」がありました。

富士宮五業組合の建物。

五業組合の看板。飲食や旅館関係の組合事務所も兼ねているようです。

この界隈は、「琴音みち」と命名されています。

【参考文献】
*1 神田区誌編纂委員会:神田区誌 かんだ今と昔(富士宮市神田区,2000)P.193-P.195
最盛期、高しま家と並んで50人の芸妓を擁していた新杵家は、佐野歯科医院があったあたりにありました。*1
昭和19年~21年頃の市街図に「新杵家」の記載があり、平成11年の市街図では、佐野医院に変わっています。*2

現在は住宅地になっています。

富士宮には、小路にさまざまな名前がつけられていて、ここは「三味音みち」と呼ばれています。

花街らしい雰囲気が残っている小路です。

【参考文献】
*1 遠藤秀男:懐かしの富士宮(羽衣出版,2009)P.68-P.69
*2 神田区誌編纂委員会:神田区誌 かんだ今と昔(富士宮市神田区,2000)P.193-P.195
富士宮(旧大宮町)の花街は、大正時代に、常盤家、新杵家、高しま家が開業した頃から隆盛期を迎え、昭和12年の最盛時には百数十人の芸者がいました。その原因は、生糸(絹の原料)の生産で、大宮町には、繭の取引や、繭を用いての製糸工場が多くなり、高級料亭が整理しました。最盛期には、高しま家と新杵家が50人ずつの芸者を擁していました。高しま家の料亭の門だった長屋門。が現在も残っています。*1

長屋門は、「歴史の館」として整備されています。*2

現在は、日本庭園風に整備されています。料亭があった場所にはレストランが営業中です。

地元の方の話によると、このあたりには、料亭専用の風呂があって、若い旦那衆がこぞって芸者さんを見に来たそうです。

【参考文献】
*1 遠藤秀男:懐かしの富士宮(羽衣出版,2009)P.68-P.69
【参考URL】
*2 富士宮市:ホームページ 長屋門「歴史の館」
JR富士宮駅前通り(国道139号線)を少し東へ行くと、北角に富士宮グリーンホテルがあって、ホテルの横を北に向かう町並みは、以前は「清水町」と言いました(現在は、東町と中央町に分かれいます)。しかし、清水町は、小字(こあざ)名である「茨木(バラキ)」という名前で市民に広く知られていた遊廓があった場所でした。*1
昭和3年の市街図*2 には、現在の富士宮グリーンホテルのあたりに、「遊廓」の記載があります。

明治27年(1893年)、大宮町(富士宮の旧名)議会で遊廓の設立について検討されました。議会は、「当大宮町は、近年になって蚕糸業をはじめとする工業が盛んになり、諸国から商人や青年が集まり、金回りが良いので町中で遊ぶ者が増え、それに伴い私娼が増加し、風俗が乱れつつある。これらのことを考えると、必要悪ではあるが、遊廓の設立を許可することが妥当。」と県に対して答申しました。*1

遊廓は、北側から、松井楼、深本楼、住吉楼の三軒で、娼妓の数は24名でした。昭和7年の「大宮町大火」で、豪華を誇った三軒の遊廓は焼失しましたが、翌昭和8年、深本楼の建物は復活しました。残りの松井楼、住吉楼は、再開されることはありませんでした。*1
昭和35年の住宅地図*3 によると、このあたりに、転業旅館と思われる「深本旅館」がありました。

現在、遊廓の北側に数軒の居酒屋やスナックがありますが、付近は住宅街で、遊廓があった当時の面影はありません。

【参考文献】
*1 佐野里見:岳南朝日(1992.12.9)P.4 「ふるさと再発見 バラキ物語」
*2 秋山不二男:商工案内 大宮町地図(日本地理附図研究所,1928)
*3 関東明細地図編集社:富士宮市住宅明細図(関東明細地図編集社,1960)P.15
今回は、富士宮(静岡県富士宮市)の町並みと風俗を散歩します。

富士宮駅の北口に、白ポストが設定されています。

塗装がされていない金属色の白ポストです。白ポストの文字のみ白色です。

天板に書かれた解りやすい表記。

小中野の鍵の手の街路の裏手。バス停の「浦町」があるあたり。

ここに古い飲み屋街が残っています。

和風スナックや居酒屋などの店舗が並んでいます。

現在、営業中の店は少ないようです。

この日は、新むつ旅館に宿泊です。

折鶴の釘隠し

旅館に隣接していた土蔵(明治 40年建造)を解体した際に発見された大工の墨書。当時の遊興料、コメ、地酒などの料金も記されており、当時の貴重な資料です。*1

皿数の多い豪華な食事。この後、白菜のお新香とイカの塩辛がサービスです。

【参考URL】
*1 新むつ旅館:ホームページ
小中野の旧遊廓街だった道幅の広い道路に、当時の遊廓の建物を利用した「新むつ旅館」があります。

前回、新むつ旅館へ宿泊しましたのは、6年前の2008年。*1
その間、土台の改修工事などが行われ、現在も営業が継続されています。

軒先の装飾は、「輪違模様」と呼ばれる見事な細工が施されています。*2

夜の新むつ旅館。

【参考記事】
*1 風俗散歩(八戸):新むつ旅館(2008.9)
【参考文献】
*2 rakra(2008.1)
陸奥港駅の方から橋を渡って遊廓があった小中野に入ると、鍵の手のある街路が伸びています。*1
周囲の道路と比べ、この鍵の手の街路だけが、道の幅が広くなっています。

町のほぼ中央に残る戦前に建てられたと思われるお宅。*1
昭和6年の市街図*2 によると、二つ目の通りには、東楼、旭楼、観月楼、国楼、五明楼がありました。

さらに行くと二つめの鍵の手が現れます。*1

鍵の手を抜けた三つめの通り。ここには、花月楼、錦楼、新喜楼、山内楼がありました。*2

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.50-P.51
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)「八戸市」